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【畑の生活】触れる

越冬野菜は育てられる種類が限られていて、10月から11月に種まき、植え付けができるのはエンドウマメや玉ねぎくらいだそうだ。これだけの広さがあれば自分たちでは食べ切れないほどの玉ねぎがとれるぞと長老は笑う。僕は正直、野菜がどれくらいの速度で成長し、どんなサイクルで収穫できるのかまったくイメージが湧かない。とりあえず長老に教えてもらいながら畝は1本できた。この畝をふたつに分けエンドウマメと玉ねぎを植えることにする。その日はもう日が傾きはじめていたので、さっそく翌日にでも植えようかと思ったのだが、つくった土は1、2週間ほど寝かせなければならないそうだ。そうしないと新しい土がしっかり馴染まないのだと長老が教えてくれた。畑はこちらのペースには合わせてくれない。むしろペースを合わせるのはこちらの方だ。僕らはなんでもかんでも自分の都合、自分のペースを第一に考えてしまう。現代人はそういう原理の中に生きている。だけど、それは不自然なことだ。自然のなかでは誰かがペースを支配したり、コントロールするなんてことはない。自然のなかにあるものはみな、そこに流れているリズムと旋律に乗り、調和とハーモニーを織りなす。そこには主体も客体もない。ひとつの交響曲があるだけだ。その調和から離れることは、あらゆるところに歪みや亀裂を生じさせる。不協和音は時間を疲弊させる。畑の上では畑の時間が流れている。

翌日はもう1本の畝の土づくりを自分でやってみることにした。長老が言っていたこと、昨日やったことをひとつひとつ思い出しながらやってみる。こちらの畝は4つに分けて、この季節でも比較的育ちやすい葉物野菜をいくつか育てるつもりだ。堆肥、牡蠣殻、ペレットを撒き、鍬を入れる。つい昨日やっていたことなのに、鍬を捌くのが昨日よりも難しく感じる。おそらく昨日はあまりなにも考えず鍬を握っていたのだが、今日は変に考えてしまっている気がする。いらない力が入ってしまい無駄に土を混ぜ過ぎている。畝の形は崩れていく。それを整えようと鍬を入れると今度は他のところが崩れてくる。土を混ぜるどころか、僕は畝の形に翻弄される。こちらの都合のみで土をコントロールしようとすると、事態はどんどんおかしなことになってしまう。それは子どもを育てることにも似ている。なにかを「育てる」ということは、コントロールすることではない。「育てる」とは、その対象が本来持ちうる性質を自然の交響曲のなかに鳴らすことだ。それには、まず対象の声に耳を傾けなければならない。それは表面的な言葉や表情を読み取ったり、感情を類推したりするようなこととは根本的に違う。言葉たりえない声そのものを聴くのだ。土も子ども声を持っている。その声を聴くには、どうすればいいのだろう。僕はとにかく触れることしかないと思っている。触れるということは、ひとつになろうとすることだ。僕らは自然というひとつの交響曲のなかに流れている音素だということを遺伝子レベルで記憶している。そこには主体も客体もないということを動物として知っている。僕らのなかには常に対象とひとつであるという遠い記憶がある。僕らは日々この手を使って何かに触れることで世界を知覚し、その境界線の向こうにある遠い記憶に触れようとしているのかもしれない。

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