卒論のミカタⅡ(3)宇治十帖成立の真相ー亡き具平親王に捧ぐもう一つの源氏物語ー

昭和女子大学名誉教授
実践女子大学文芸資料研究所客員研究員
久下裕利(Kuge Hirtoshi)

〜『源氏物語』研究の最前線(3)〜

◇宇治十帖成立の真相ー亡き具平親王に捧ぐもう一つの源氏物語ー

 ひとつのエピソードを記すところから始めることとします。もうあれこれ35年前位のことですが、私が勤めることとなった昭和女子大学には非常勤講師として東洋大学の石田穰二氏が長年居座っていました。非常勤にも「学苑」に投稿する権利や毎年定期的に開催される教員の研究会で発表する権利も与えられていました。それにしても石田氏の「学苑」への投稿は目立ちますし、まるで東洋大学ではなく昭和女子大学を主戦場にしているかの如くでした。思い出すと腹立たしいことばかりですので、つい余計なことを言ってしまいがちです。そこで、本題のエピソードですが、ある年の研究会でのこと、石田氏の源氏物語に関する発表において、確か湖月抄本だったでしょうか、机の上に正篇と続篇とを分けて積み上げ、その高さがほぼ等しいことを言ったのです。もちろん続篇は匂宮三帖と宇治十帖ですから、誰の目にもその高さが正篇より低いのは歴然でしたが、思ったよりもその高さの違いはありませんでした。石田氏が何のために正篇と続篇とを分けて積み上げ、比較をしたのか全く記憶にありませんし、その時の研究発表の主旨とそれがどのように関わっていたのかも記憶にありません。ただ発表後、質問の時間があって、誰も手を上げないので、仕方なく司会者であった岸田依子氏(早稲田大学大学院藤平研。私は藤平春男先生の紹介で昭和女子大学に就職した)が私を突然指名したのです。そこで、指名されたのでこちらも仕方なく次のような質問をしたのです。もちろん、正篇と続篇を分けて積み上げ、その高さがあまり差のない件についてです。当時、どのように質問したのか、一言一句思い出すことはできませんが、主旨は次の如くです。「先生は、匂宮三帖については作者を紫式部ではなく別人だと説いていますが、いかがなのでしょうか?」という内容の質問であったと記憶しています。最後の「いかがなのでしょうか?」とは、私なりに気遣った表現で、匂宮三帖が紫式部の作ではなく別人の作だという論文を発表していながら、それらを無視して全帖が紫式部の作だという前提で、正篇と続篇とを分けて本を積み上げ、ほぼ同じ高さでしょうと言ったところで、石田氏の研究にとって矛盾だけが露呈しているにすぎないのです。何のために積み上げたのかさえ不明なのですから、意図は皆目わからないのです。もし匂宮三帖が別人の作であるという前提で、それらを除いて本を積み上げたとしたら、高さの差は歴然なのですから、たとえそうしたにしてもこの行為自体、何のためだったのか、全く理解に苦しみます。

※石田穣二の匂宮三帖作者別人説は『源氏物語論集』(桜楓社、昭和46〈1971〉年)の以下の論考。
 〇「匂宮・紅梅・竹河の三帖をめぐって」(初出:「解釈と鑑賞」昭和36〈1961〉年10月)
 〇「匂宮部卿の巻語彙考証ーその紫式部作にあらざるべきことの論ー」(初出:「国語と国文学」昭和37〈1962〉年5月)
 〇「匂宮・紅梅その後」(初出:「王朝文学」7、昭和37〈1962〉年10月)
 〇「匂宮・紅梅・竹河」(初出:「解釈と鑑賞」昭和38〈1963〉年3月)
 〇「匂宮・紅梅の語彙」(初出:「学苑」昭和40〈1965〉年1月)

 石田氏のパフォーマンスが当日の発表内容とどのような関連があってのことだったのかも全く記憶がありませんし、私の質問に対してどのような返答があったのかも全く記憶にありません。であるのに、何故私が湖月抄本を正篇と続篇とに分けてその積み上げた高さにそれ程の違いがなかったことに対して、石田氏に質問したことの内容まで記憶しているのかと言いますと、当時の学科長だったと思いますが、H・M教授から、閉会後に呼びつけられたか、すれ違いざまだか、忘れましたが、次のような叱責を受けたからなのです。「あなたは、あんな偉い先生に対して、なんて失礼なことをよく言えますね」と、確かこのようなことだったと思います。〈なんて言う大学だ〉というのが偽らざる当時の心境だったと振り返られますが、文学博士であるH・M氏から研究上の理不尽で不条理な小言を受けたのは、これが初めてではなかったので、唖然として立ちすくむようなことはありませんでした。しかし、こうしたことが反発となってのちに現れるのが世の常です。

 ともかく石田氏の異様なパフォーマンスに対する私の質問にH氏の叱責があったことで、この記憶が割り合い鮮明に私の脳裡に現在まで残っているのだと言えましょう。 さて、何故このエピソードを「宇治十帖成立の真相」の〈まえおき〉にわざわざ据えたのかと言いますと、続篇は、正篇が道長家への政治的奉仕のための物語であったのに対し、そうした制約を排した物語を、つまり自由で開放された立場や発想で創作することを志したのだと言えましょう。それゆえ正篇に匹敵、拮抗する分量の続篇を目指したのも、物語作者としての矜恃の現れか、それとも物語の本義を歪められた贖罪だったのではないでしょうか。紫式部にとっての本来の『源氏物語』は正篇ではなく続篇の方だったと考えざるを得ないのです。

 『紫式部日記』には、寬弘5(1008)年11月17日の中宮内裏還啓にむけて『源氏物語』の「御冊子作り」が中宮彰子と紫式部との共働作業で進められていました。そんな折、道長は式部の局にこっそりと忍び込んで、彰子の妹である妍子のために新作の物語を持ち去ったのです。その物語が現在の匂宮三帖に当たるのではないかと私は考えているのです。(久下「『紫式部日記』「御冊子作り」後の式部」「学苑」令和3(2021)年1月)。周知のように匂宮三帖は光源氏没後の物語で、とりたてて新しい物語ではなかったので、しばらく経って式部の元に返却されることになったと思われます。しかし、未完成の物語が作者の意に添わない形でかってに持ち出されたのですから、どんなに腹立たしいことだったでしょう。式部はその時の感懐を『日記』にこう記しています。

「よろしう書きかへたりしは、みなひきうしなひて心もとなき名をぞとりはべりけむかし。」(小学館新編全集168頁)。

これはとても難しい文脈で、意味の通る現代語訳に置き換えるのはなかなか困難ですが、いちおう「ある程度の出来映えに書き直した本は、みな失ってしまって、いまさら手元の本で手直しをしたところで後の祭りで、きっと気がかりな評判をとったことでしょうよ。」とでもしておきましょう。物語作者としての屈辱感がにじみ出ている文章だと理会しています。

 この原「匂宮三帖」がどのような形で式部に返却されてきたのでしょうか。想像を逞しくすれば、いったんは尚侍妍子のもとにあったものの、上述の内容が期待外れであったためか、さらに妍子の東宮入内が延期になったことが重なったためか、道長お抱えの赤染衛門を中心とするサロンに託されることになり、そこでいろいろと本文に他の人の筆が入ることになりましたが(当時の女房たちによる物語創作は紫式部のように傑出した一人による創作ではなく、サロン集団内でいろいろなアイデアを出し合い、意見を交わしながら創り上げていくものであったと考えています)、結局は新しい物語を紡ぎ出すことができずに、このサロンから式部に返却されることになったのではないかと思っています。

 石田氏は語彙や文章表現の異和感から匂宮三帖が紫式部の筆ではなく、別人の作と考え、しかもその別人は作者の身近にいた、作者と親しい人(後輩の女房かとも)としています(前掲「匂宮・紅梅・竹河の三帖をめぐって」)。式部は、その親しい人に多少の指示を出すにしても相当程度の自由を与えて、創作をゆだね、完成後これら三帖は式部によって認知され、続篇の冒頭に据えられたと言うのです。

 匂宮三帖の作者は紫式部ではなく別人が書いた物語だけれども、式部はその物語を『源氏物語』の一部として認め、そのまま取り込んだとするのです。どのような理由や事情があって、このような仕儀になったのでしょうか。例えば、紫式部が重い病気となり、執筆活動の一時停止を余儀なくされたのではないか、などとの理由は容易に思い浮かびますが、石田氏は次のように言っています。

  匂宮の巻のはじめの部分を作者は自身の筆に成るものとするも、そのつなぎを、一巻ないしは数巻に書き上げる興味、内的興味を、作者は持たなかったのである。(前掲『論集」485ペ)

 もし作者に創作意欲の減退があって突然書き進む気力や興味を失ってしまうことがあったにしても、それを他人まかせにして物語を書き進めなければならないようなことは、自分の意志で書き初めた物語であれば、中断したり諦めれば済むことで、病気とてそれは同じはずでしょう。やはり、こうした止むを得ない形で、どうしても物語を書き進めなければならない事情や理由があったのだとしたら、期日を切られた道長からの強い要請があったことをまず考えなければならないはずです。こうした外部要因を想定する以外にいくら親しい人であっても他人に自分の物語の続きをゆだねることなど考えられません。

 こうなると、いずれにしても道長あたりの関与があって、作者にとっては極めて不本意な状況下に置かれながらも何としても正篇に比肩する物語を完成させるという強い意志があったことが物語に刻印されています。紅梅巻の巻末には匂宮の色好みな行状に関わって「八の宮の姫君にも、御心ざし浅からで、いとしげう参で歩きたまふ」(小学館新編全集⑤55頁)とあって、「八の宮の姫君」への言及は宇治十帖への橋渡しを意図してのことでしょうが、取って付けたような補筆感は拭い得ないでしょう。また竹河巻の巻末近くにも薫と玉鬘との対面場面で次のようにあります。

  人の親にてはかばかしがりたまへるほどよりは、いと若やかにおほどいたる心地す。御息所もかやうにぞおはすべかめる。宇治の姫君の心とまりておぼゆるも、かうざまなるけはひのをかしきぞかし、と思ゐたまへり。尚侍も、このころまかでたまへり。(⑤110ペ)

 竹河巻の玉鬘大君求婚譚において、薫は夕霧息蔵人少将の熱烈な求愛とは違って、むしろ傍観者的立場に居ました。この場面では母玉鬘のおほどかな人柄から、いまは冷泉院に参ってしまった御息所(大君)の姿を思い浮かべているのでしょう。妹中の君は尚侍となって今上帝に侍しています。ですから、玉鬘の姉妹の近況がうかがい知られる文脈中に「宇治の姫君の〜」(太字部分)と挿入したのだと考えることも容易なはずです。ただ補筆挿入した文章だとしても絶妙で、紅梅巻の「八の宮の姫君」という表現の竹河の巻の「宇治の姫君」という言い方」では石田氏が指摘するように重ならないので、橋姫巻が語り出されて初めて、八の宮の姫君が宇治に住まう八の宮の姫君であったことが知られることになります。しかも、そればかりではなく、紅梅巻では匂宮の関心は実娘中の君の婿にと望む紅梅大納言の思惑とは違って真木柱の故蛍宮との間に生まれた連れ子である宮の御方にあったのですから、匂宮の色好みの性向としても宮家の血筋に惹かれている共通点を意識化して「八の宮の姫君」と表出したのだと思われます。また匂宮が「八の宮の姫君」つまり中の君に逢うことを目的に宇治に「いとしげう参で歩きたまふ」時期といえば、総角巻に重なることになります。さらに宿木巻で匂宮と夕霧の六の君との縁談が画策される中で、匂宮の現況を以下のように語っています。

  あだなる御心なれば、かの按察(あぜち)大納言の紅梅の御方をもなほ思し絶えず、花紅葉につけてものたまひわたりつつ、いづれをもゆかしくは思しけり。されどその年はかはりぬ。(⑤381〜2ペ)

「紅梅の御方」という言い方は、紅梅の巻の宮の御方を指しての表現ですから、紅梅巻を受けているのは確かなのでしょうが、大納言が匂宮に差し上げた紅梅は、宮の御方が居所とする寝殿の東面の軒近くに咲く紅梅でしたから、皮肉にも匂宮に宮の御方を強く意識させることになります。「いづれをもゆかしくは思しけり」の相手を宮の御方は当然のこととして、もう一人を、少し前の本文に「兵部卿宮、はた、わざとにはあらねど、をりをりにつけつつをかしきさまに聞こえたまふことなど絶えざりければ」(⑤380頁)とあるのを根拠に、夕霧の六の君と判断するのが通説なのです。ということは、紅梅巻では宇治の中の君は匂宮の妻妾の一員との可能性が担保されていたのに、宿木巻のこの時点では明石中宮の意向としてあったようにあくまで女房の一員として迎える段階にあったと解すべきなのでしょうか、とにかく宇治の中の君の存在が希薄になってしまうようです。それともこれを宿木巻冒頭に新たに設営された今上帝麗景殿(現在ー藤壺)女御腹の女二の宮降嫁の件で、薫との結婚の見通しから、夕霧に六の君の結婚相手を匂宮と決する方向に結着する物語展開の方針にのっとっていると言えましょう。つまり宿木巻で語られる京での薫や匂宮の結婚騒動は夕霧が六の君の結婚相手に薫か匂宮かのどちらかをと思案していた匂兵部卿巻を受けての結着ですし、紅梅巻との連結性は「紅梅の御方」との呼称ばかりではなく、「按察大納言」(宿木巻の前掲引用本文)の呼称も紅梅巻の書き出しに「そのころ、按察大納言と聞こゆるは……」(⑤39ペ)とあったことに照応していますし、薫への女二の宮降嫁の祝宴であります藤の花の宴では、この大納言は薫に対する嫉妬と羨望で、「心の中にぞ腹立ちゐたまへりける」(⑤484ペ)とありますが、これも紅梅巻で宮の御方の上臈女房の対応に「腹立ちたまふ」(⑤46ペ)とあったことを受けての極めて作意的な大納言の造形描写と言えましょう。これほど作者は紅梅巻との連携を企って宿木巻を書いているのです。

 こうした匂宮三帖と宇治十帖との作意的とも思える連結性は匂宮三帖がその語彙や表現性に作者を紫式部とするには疑念を持ち得るという石田氏の指摘とともに、紅梅巻の真木柱の造形(新編全集⑤40ペ)にも不自然な点が挙げられており、匂宮三帖の成立には、その作者に関して紫式部としては不審な点があり、疑わしさを拭い切れない状況であり、それを認めた上で、匂宮三帖の着想、物語手法等、物語そのものの骨格は紫式部の手による物語であろうことを以下述べていこうと思います。
                            (2021.4.21)
第一章
   匂宮三帖から宇治十帖へ

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