卒論のミカタⅡ(5)-雑感書評-中野幸一著『深掘り!紫式部と源氏物語』(勉誠社、2023年刊@定価2,400円)を読んで

昭和女子大学名誉教授
実践女子大学文芸資料研究所客員研究員
久下裕利(Kuge Hirtoshi)

〜『源氏物語』研究の最前線(5)〜

-雑感書評-
中野幸一著『深堀り!紫式部と源氏物語』(勉誠社、2023年刊@定価2,400円)を読んで

本書はいわゆる啓蒙書ですが、〈深掘り〉の程度によっては研究者でも興味を寄せるところとなるでしょう。まず目次を掲げてみましょう。

第1部 深掘り!紫式部
[1]…従来の紫式部像
[2]…学才に対する自負
[3]…家系と家庭環境
[4]…娘時代の体験と性格
[5]…恋愛・結婚・出産・死別
[6]…具平親王家出仕の可能性
[7]…初出仕と伺候名
[8]…宮仕え生活と『源氏物語』
[9]…紫式部の思考と性格

第2部 深掘り!源氏物語
[1]…「桐壺」の巻は初めの巻?
[2]…「かざり」とは?
[3]…登場人物の消滅と再生
[4]…『源氏物語』の短文表現
[5]…『源氏物語』の遡及表現
[6]…草子地の諸相
[7]…『源氏物語』と貴族の生活習慣
[8]…『源氏物語』の擬作の巻々
[9]…古物語の型と『源氏物語』
[10]…古物語の合成発展―短編から長編へ―

こうした目次の項目を一瞥しただけでも、著者である中野氏の紫式部や源氏物語研究における関心の所在がわかるのは、既出の研究論文や研究書を知る者ゆえだからでしょう。それらについてもいちいち触れていくのが初心者向けには丁寧で好ましいのでしょうが、本稿は-雑感書評-ゆえ、気ままに思いついたことを書いてゆくことにします。

  補足説明
―特に第2部の[2][6][8]などがその部類に入ります。
[2]は紫式部学会での講演だったことを記憶しています。〈かざり〉とは何のことだと興味をひくところです。これは古注に見える用語で、言い換えれば物語の余剰と言うことです。本書では「物語の展開の中で一筋に物語の叙述を運ばず、別の場面、異なる情景を挿入することにより、本来の物語に深まりと奥ゆきをもたせる方法」(99頁)と説明しています。
第2部がこのように物語の叙述方法ないし表現方法に関する項目が多いことも、中野氏の関心の所在を表しています。それだけに[8]の「桜人」や「巣守」への言及はあまりにも専門的になりすぎています。擬作であるならば、紫式部は全くあずかり知らぬ事柄です。


第1部[6]の具平親王家出仕の可能性は、久下が現在最も関心がある源氏物語の成立に関わる点で注目したのですが、記述内容は平凡でした。ただ末尾に「隆姫が生まれた前後、正暦五年(994)前後に、その守り役になっていたのかも知れません」(35頁)との推論は、紫式部が20歳前後に具平親王家の長女隆姫の守り役として出仕する、という理由が新鮮でした。
とにかく紫式部が道長家出仕以前に具平親王家に出仕した可能性に着目したのは、学界では中野氏が初めてなのかもしれません。それを継いで論文にしたのが現在早稲田大学教育学部教授である福家俊幸(『紫式部の具平親王家出仕考』「中古文学論攷」昭和61〈1986〉10月)ということになりましょうか。さらに研究者ではありませんが、近藤富枝(『紫式部の恋』講談社.平成4〈1992〉年。のち河出文庫.平成23〈2011〉年)が、紫式部の憧れの人、尊崇の念を持った想い人だと具平親王をしています。親王家に宮仕えに出たことが紫式部の人生史に大きく関わってきます。[4]に「紫式部集」で姉妹の契りを結んだとの別れの贈答歌が紹介されていますが、式部が自邸の部屋に閉じ籠ったままの生活を続けていたら、こうした親しい友は出来なかったでしょう。
ですから、親王家に宮仕えに出たことの意義はもっと大きく式部の人生に影響しているはずなのです。
親王家での宮仕え体験、もっと言えば親王との出会いが源氏物語の創作内容に影響していることは当然考えられるはずですが、本格的にその両者を関連づけ精力的に論文を発表したのが斎藤 正昭(『源氏物語成立研究―執筆順序と執筆時期―』笠間書院.平成17〈2005〉年。ほかに著者多数)だったことになりますから、比較的新しい視点だということになるでしょう。
[7]の藤式部という伺候名に関しても、父為時の官職名式部大丞を由来として宮家への出仕を積極的に考えていけます。道長家への再出仕においてもその伺候名が継続して使われたことになります。

さて、[8]では道長家への出仕と言っても、正確には彼の正妻であった源雅信女倫子の女房としてまず仕えた訳ですが、問題はその出仕の年時です。
紫式部の出仕年時は、現在の通説として寛弘二〈1005〉年説(岡一男『源氏物語の基礎的研究』増訂版、昭和41〈1966〉年、東京堂出版)か寛弘三(1006)年説(萩谷朴『紫式部の初宮仕は寛弘三年十二月廿九日なるべし』「中古文学」昭和43〈1968〉1月及び『紫式部日記全注釈』角川書店)のどちらかを選択する研究者が多いのですが、中野氏は寛弘元〈1004〉年説を以下の理由から主張しています。

①寛弘元年十二月は大の月で、『日記』で初宮仕えを回想している寛弘五年十二月も大の月で、三十日に追儺の儀が行われる前日の二十九日であるのが適しい。寛弘二年は小の月で二十九日は大晦日に当たる。但し寛弘三年も大の月である。
②平中納言惟仲の養女五節の弁の黒髪が、養父の死(寛弘二年三月没)によって抜け落ちたことが『日記』に記されているが、その中に「髪は、見はじめはべりし春は、に一尺ばかりあまりて、こちたくおほかりげなりし」とあり、ならば黒髪豊かな五節の弁を式部は見ていたことになり、寛弘元年十二月に出仕していなければならないことになる。
③『日記』に名前が記される式部のおもとは、上野介橘忠範の妻で、夫に伴って上野に下向したのが『御堂関白記』寛弘二年八月二十七日条に記されているから、式部と同僚女房であるためには、寛弘二年十二月出仕説では遅いことになる。

②③が寛弘元年出仕説の有力な証拠になっている訳です。ただ②は既に小学館『新編日本古典文学全集26』で『紫式部日記』を中野氏が担当していますから、その解説に記されています。ですから、本書で③が加えられ、中野説が整理され、より強固になったことが知られます。

  補足説明

―①の十二月が大の月になるか、小の月になるかの論点は寛弘三年でも成り立ちますから、寛弘三年説の萩谷説を『新編全集』(233頁)で中野氏が主要な論拠としてまとめたままをここに記しておきます。

(1)寛弘二年十二月は暦の上では小の月で二十九日は大晦日に当たり、宮中の歳末行事を考慮に入れると初宮仕えの日としてふさわしくなく、寛弘五年と同じく十二月が大の月の寛弘三年の方が適切であること。
(2)寛弘五年十二月の内裏は一条院の今内裏なので、初宮仕えの回想として同じように一条院が今内裏であった寛弘三年十二月がふさわしいこと。
(3)日記に見える新参意識は、初宮仕えを寛弘二年より三年と見た方がより適切であること。

(3)の『日記』にみえる新参意識と史実における新参とは区別して考えるべきですが、寛弘三年出仕説に同調する増田繁夫『評伝紫式部―世俗執着と出家願望―』(和泉書院.平成26〈2014〉年)が言及する中で、岡一男の寛弘二年出仕説でも論点になるのが、『伊勢大輔集』の記述で、奈良の興福寺から中宮に献上される八重桜を取り入れ役の女房が式部から伊勢大輔に突然変更された件が書かれている。本件は寛弘四年四月のことと推定されるところから、『伊勢大輔集』の詞書「今年の取り入れ人は今参りぞとて紫式部のゆづりしに」を、どう解釈するかによって出仕年時を寛弘二年とするか、それとも寛弘三年なのかが分かれている。岡氏は古参となった紫式部が新参の大輔に譲ったと解し、式部が寛弘三年十二月の出仕となれば同じく新参となるから、寛弘二年十二月の出仕だと主張するのに対し、増田氏は引用箇所の詞書部分を「(コレマデハ古参ノ人ノ役ダッタガ)今年の取り入れ役は私たち今参りと決まったのよ(ダカラアナタガ勤ノテヨ)」と解し、両者ともに今参りで、式部が伊勢大輔に譲ったと理会するので、寛弘三年の出仕だと言うのである。なお『伊勢大輔集』の本件は式部の出仕年時に関わるだけではなく、宮仕えにおける式部の存在意義に関わり、式部が歌人、歌詠みとして召されたことをうかがわせる。『伊勢大輔集』に本件に続く記事で「院の御返し」として「九重ににほふを見れば桜狩りかさねてきたる春かとぞ思ふ」が記されているが、本歌は『紫式部集』にも採歌されており、彰子の詠ではなく、式部の代詠、代作であったことが知られる。また『日記』では道長に歌を詠むことを求められる場面が複数みられる。つまり『伊勢大輔集』の本件は、その重要な役割を伊勢大輔に引き継ぐ姿勢を式部が見せていると解すので、久下は寛弘三年ではなかろうと思う。本件に関しては拙稿「紫式部から伊勢大輔へ―彰子サロンの文化的継承―」(昭和女子大学「学苑」927号.平成30〈2018〉1月)に詳しい。


ただ補足説明でしてきたような議論は中野氏にはなく、他説と交わることなく、そのまま放置するだけで自説を書き並べるだけに終始しています。
解釈次第によって説が分かれることに関与する必要はないのかもしれませんが、研究状況を理解するためにも議論の整理は求められる姿勢だと思われます。そこで残ってしまうのが、萩谷説の(2)です。
式部が実家から中宮彰子の居る一条院内裏に帰参したのは、寛弘五〈1008〉年十二月二十九日の夜のことでした。その夜が中宮彰子に伺候した初日だったことは、「はじめてまゐりしも今宵のことぞかし」(『新編全集』184頁)と明確ですし、つづけて「いみじくも夢路にまどはれしかなと思ひ出づれば、うとましの身のほどやとおぼゆ」と新参らしい女房の回想が記されていますから、その日もここ一条院内裏であった可能性が濃厚なのです。
では、寛弘元年十二月は元内裏であった訳です。というのも寛弘二年十一月十五日に火災があって、内裏が焼亡し、神鏡まで破損するという深刻な事態になってしまって、東三条第に一条天皇、中宮彰子が遷御することになったのです。
東三条第が臨時内裏となり、その後寛弘三年三月四日に一条院に遷御するまで、東三条第を内裏とした訳ですから、寛弘二年十二月出仕説も不適合となります。久下も最近まで寛弘二年説に傾いていた訳ですから、修正せねばならなくなりそうです。
ただ「はじめてまゐりしも今宵のことぞかし」を、内裏に参上し、中宮彰子付きの女房として初めて伺候したことを記しているとの解釈が許容されるなら、中野氏が提示した②③の項目は、倫子付き女房として土御門第での見聞、体験で、その記述が確保されるのではないかと現時点では考えています。

次に進めようとも思うのですが[7][8]での記述がいかにも少な過ぎて、「源氏物語」創作とどのように関係する宮仕え生活だったのか、また式部の宮仕えがいつまで続いたのかも全く言及がありませんし、その中でも特に一番気にかかるのはやはり道長と式部との関係についてです。と言いますのも『日記』寛弘七年正月の記事の前に寛弘五年の記事のかと思われる箇所に、二組の贈答歌が記されています。(『新編全集』214~215頁)。その前者は明らかに道長と式部との歌のやりとりですが、後者は「渡殿に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、おそろしさに、音もせで明かしたるつとめて、」との詞書のような前書きがあって二首が並べられています。その両者に中野氏は上段の解説で、式部が道長のとの見解を示しています。特に後者の「戸をたたく人」を道長との判断をすることになるが、主人である道長が一晩中戸の外に立ったまま召し使う女房の部屋の前でいかんともし難く居る状況は式部が召人であれば全く不自然な対応であり、考えられる二人の間柄ではないでしょう。

この式部召人説は『尊卑分脈』の「道長妾」説を引き継ぐ説とも考えられ、道長と式部との間にどうしても男女関係を想定したい人たちが古くから居たということでしょう。これらの記事は現存の『紫式部日記』の形態ではない原形の時には別の位置にあった記事が並置されることで現在、前者と後者とか関連付けられ後者をも道長のことと考えられるようになったのでしょう。ただこの点も現在の『日記』冒頭部で道長から長男の頼通へと展開しているように、久下が両者を関連付けるとするならば、道長→頼通と読み取ることの方が穏当でしょうし、場所は土御門邸ですから、道長家の関係者でしょうし、翌朝式部へ「夜もすがら」歌がとどけられ、そのままだと失礼になるので式部も「ただならじ」歌を返しています。異常な夜の出来事が冷静に受け止められ沈静化しています。この相手はそういうこの屋敷に居る貴公子なのです。
余計なことですが、久下は現存する『日記』が頼通関連、もっと言えば具平親王家の息女隆姫との結婚に関する記事が削除され、再構成されたものと判断しています。
現在の残存記事は当たり障りのないものとなっていましょう。(拙稿「『紫式部日記)寛弘六年の記事欠落問題」横井孝・福家俊幸・久下編『知の遺産シリーズ7紫式部日記・集の新世界』武蔵野書院、令和2〈2020〉年)

さて[7][8]は圧倒的に記述量が少ないため、道長と式部との関係ばかりではなく同僚女房たちとの関係性も知られませんが、一般の人たちがさらに知りたいと思うなら、上記の増田氏の本を頼るとよいと思います。
次の[9]には「憂し」の成因について書かれています。『新編全集』解説での中野氏の言葉を借りて言えば、「精神の苦悶の遍歴」が託されたとこばが「憂し」だったと思われますが、式部の宮仕え後年つまり『日記』執筆時期に近い頃には、さらに自己擬視が深化して、「心」と「身」との乖離に頓着するようになった気がします。それが宇治の物語で形象化されたのでしょう。
中野氏はあくまで式部にとって「憂し」を重要なタームとして位置付けでいるようです。

ここから第2部に移ります。
[1]の「桐壺」の巻は初めの巻?との問いかけは、『源氏物語』の成立に関心を寄せる者に限らず興味をそそられる項目でしょう。中野氏は桐壺巻が後から書き加えられたという「桐壺巻後記説」にどうやら傾くようですから、現在の研究者の大勢の中にいるということになりましょうか。ただ言葉を変えて『源氏物語』はいったいどの巻から書き初められたのでしょうかと問いかけてみると、ここでもやはり答えはかえって来ないのです。ですから、ないものねだりは、ひとまず置いておいて「桐壺後記説」の根拠(エビデンス)を他の項目に書かれていることを手がかりにこちらでかってに指摘してこの説を盤石にしてみることにしました。とりあえず、本書には「桐壺巻後記説」の根拠として4点が整理されています(82~83頁)。

その③はこうです。
③現存の「桐壺」の巻は、次巻の「帚木」の巻との間に数年間の空白があり、孤立性が強い。
桐壺巻の特徴として「孤立性」が強いことが指摘されています。その理由がその項では、物語に数年間に及ぶ空白年時があることだけですが、[3]の登場人物の消滅と再生には「一回性人物の消滅型」として桐壺巻から右大弁と靫負の命婦とが挙げられています。右大弁は光源氏の養育係、後見役で高麗の相人の観相時に親として付き添い、また靫負の命婦は、亡き光の母である更衣の実家へ弔問に遣わされています。両社とも桐壺帝の特別な内意を受けての行動ですから、信任厚い側近の臣下ということになりますが、このような重要な場面での役割を果たしながら、以降の巻にはいっさい登場しませんので、「一回性人物の消滅型」に区分されるのです。
ただこうした事例を物語内の現象のみに着目し、場面構成に必要な登場人物設定として消費される人物、点滅する人物を数え上げるのではなく、物語の成立過程、成立事情の問題に関わる事象として整理しなおす必要があるということです。
中野氏もそんなことは百も承知している訳ですが、整理のし方としてそういう方向に舵をきっていないのが残念だということです。

 桐壺巻にしか登場しない二人の人物は桐壺巻の孤立性を証明する一要素になるはずです。一方でそういう事例を内包している桐壺巻は首巻としての存在意義を損なうわけではありません。それが①の要点として指摘されています。
高麗の人相見の予言が「桐壺」の巻で示されていることは、当時の長編物語の書き進め方や執筆条件を考慮に入れると不審であること。
変に思うかもしれませんが、上記①の「不審であること」が拭い去れれば、逆に高麗の人相見の予言の存在は、桐壺巻が首巻として存立する意義を際立たせることになるということです。

ということで「長編物語の進め方や執筆条件」とは何かということになります。これらについても中野氏の整理があります。本書74頁に3つの条件として、「第一は作者の資質」「第二は読者の支持」「第三は庇護者の存在」を挙げています。第一の条件を紫式部に問う必要はなかろうかと思いますから、次の2点が議論の対象となるでしょう。ただ第二の条件は、『源氏物語』の長篇化に必須の条件であったのかどうか。やはりこれは3条件のうち重視すべきは第三の条件であったはずです。中野氏は庇護者からの経済的支援及び時間的余裕の保証が必要であることを述べています(75頁)。しかし、『源氏物語』の長篇化に際しては、「庇護者」という用語が適切な表現ではあるのかどうか甚だ疑わしいのです。「庇護者」は誰だったのかというと道長に他なりませんが、紫式部が自発的にみずからの創意(執筆意欲や意図)に従って物語作りにはげんでいるならば、その側で主家の道長がそれを傍観せずに応援、支援するならば、それをもって「庇護者」と言って良いでしょう。しかし、式部に対する道長の立場はそう容易なものではなかったと思われます。

では道長の立場はというと、物語製作の〈依頼者〉だったと言った方が適切ではないかと思われます。こうなると、これを証明するのは久下の責任ということになりますが、私の自論をこれ以上展開する場ではありません。
ただ桐壺巻が何故書かれ、『源氏物語』の首巻として位置づけられなければならなかったのか。そうした桐壺巻創作の意図や目的が先行する処置だった可能性があります。
紫式部はまず「若紫」や「末摘花」の巻を彰子に献上しましたが、当然それも彰子の中宮教育(廣田収『古代物語としての源氏物語』武蔵野書院2018年)の一環を目指す物語提供だったはずで、それで道長からの依頼に応えられるはずだったのです。ところが、道長からはさらに重要な指示が下されました。それは物語に一条天皇をも惹き付けるようにという指示であったろうと思われます。桐壺巻の更衣の死や後に残された光る君の存在が亡き定子や敦康親王を想起させるからです(清水婦久子『源氏物語の風景と和歌』和泉書院)。また桐壺巻は史実への准拠や漢詩文を典拠とする表現が目立ち(日向一雅・仁平道明編『源氏物語の始発ー桐壺巻論集』竹林舎、2006年)ますから、当時の彰子への物語提供としてはレベルが高すぎます。
自論を展開する場ではないと言いながら、多少書きました。

桐壺巻の設置によって『源氏物語』は極めて政治的な色彩を帯びていることになると言えましょう。高麗の相人の予言が光源氏を准太上天皇にまで推し上げるような三十三巻目に当たる藤裏葉巻までの光源氏の人生史を描く物語が自ら要請されてくるのでしょう。
元に戻りますと、残されるのが②と④ということになります。
②「若紫」の巻に見える藤壺との二度目の過失の記述は、最初の過失を受けたものと考えられるが、現存のそれは以前の巻々に、それに該当する記述が見当らないこと。
②に関しては、[5]に中野氏自身が遡及表現としてまとめていますので、論点にはならないでしょう。過去にあった事を物語としては書いていませんが後にふりかえって、そうした事実があったこととして書き進める方法ですから、藤壺の件に限ったことではありません。

最後に④です。
④藤原定家の『源氏物語』の注釈書『奥入』に「かがやく日の宮」の巻という現存の『源氏物語』にはない巻の存在を伝える記述があり、それは藤壺の入内を語った巻であったと推定されること。
「かがやく日の宮」という巻が紫式部によって書かれた巻ではなく、後人の手によると考えるのが普通だと思われます。

桐壺巻の創作意図や執筆の順序、成立過程については、このような単純な記述でかたずけられるはずはありませんが、前掲『源氏物語の始発―桐壺論集』に掲載されている清水婦久子「桐壺、淑景舎・壺前栽―物語の生成と巻名」にも指摘されていることですが、巻名が式部によって命名されているとすると、桐壺―帚木―空蝉―夕顔―若紫―末摘花と草木名が多く、清水氏がそれに加えて〈はかなさ〉が共通すると言っています。
それに対して巻名「かがやく日の宮」では一見して違和感があると思われます。

以上で、私も気力が尽きたので終わりにしますが、こうした一般向けの啓蒙書であっても、さらに勉強しようとする人に対して、やはり少なくとも参考文献ぐらいの提示は必要であろうと思います。
中野先生には失言を繰り返しましたが、ご寛恕を乞う次第です。
なお先生の最近の研究書『物語文学の諸相と展開』(勉誠出版.2021年刊)には、故今井卓爾先生も研究室で話題にされていた、初期の画期的論考である「『源氏物語』における「夕ばえ」の解釈について」をはじめ、本書の元となる論文が収められています。

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