オリエント急行

家事使用人の物語としての『オリエント急行殺人事件』と、スーシェ版、ブラナー版について

■はじめに


私はデビッド・スーシェがポワロを演じるドラマ『名探偵ポワロ』の大ファンであり、英国の家事使用人研究者でもあります。元々、ポワロ で描かれる英国の屋敷に興味を持ち、その生活を支える執事やメイドの仕事に関心が広がり、2000年から英国メイドや執事の研究をするようになりました。

研究は広がり、ここ数年は『日本のメイドカルチャー史』や『日本の執事イメージ史 物語の主役になった執事と執事喫茶』といった本を出版し、日本の漫画やアニメ、ゲームなどでどのようにメイドや執事が描かれ、またブームとなっていったかを考察しました。

そうした研究を続ける中、ずっと考えていたのが、「大好きな『名探偵ポワロ』って、どれぐらい屋敷が舞台になっていて、どれぐらい家事使用人が出ていたっけ?」「ポワロの中で、メイドや執事ってどのように描かれていたっけ?」という疑問でした。

そこで時間もできたので、全70話のドラマを鑑賞し、登場する全使用人と職場をリスト化し、作品を考察する同人誌"『名探偵ポワロ』が出会った「働く人たち」ガイド ~執事・メイドから、ホテルスタッフ、ウェイトレスまで~』"の刊行を始めました(本テキストのタイトル画像も、同人誌も、ウメグラさんによるイラストを掲載しています)。

2020/02/23追記 同人誌委託先

BOOTH

とらのあな



そうして作品を振り返っていると、実は世界的に有名な大作『オリエント急行の殺人』が、自分の研究領域と大きく重なることに気づきました。そこで同作品での家事使用人の描き方と、スーシェ版の特徴について同人誌に書きました。

あわせて、同人誌を作成していた2017年はケネス・ブラナーによる『オリエント急行殺人事件』も映画となりました。スーシェを絶対的な「ポワロ」と崇める私にとってブラナーによるポワロ解釈はすべてが好みではありませんでしたが、卓越した描写・設定が存在している点もあるために、両者を比較する考察を行いました。

冬コミでこの同人誌の下巻を出すことと、スーシェの自伝を読んで自分の中でのポワロ熱が高まっているので、今回、この『オリエント急行の殺人』のパートを公開することにしました(同人誌に掲載のイラストはありません)。

■注意事項

・以下、ネタバレがあるため、ネタバレを読みたくない方はここでおやめください。
・下記内容は同人誌"『名探偵ポワロ』が出会った「働く人たち」ガイド ~執事・メイドから、ホテルスタッフ、ウェイトレスまで~"からの転載・再編集であり、三谷幸喜氏版については若干書き足しを行なっています。

■目次
1. ドラマ『名探偵ポワロ』の家事使用人描写と考察
2.『オリエント急行殺人事件』(ケネス・ブラナー版)について
3. スーシェ版とブラナー版の違い

1. ドラマ『名探偵ポワロ』の家事使用人描写と考察


『オリエント急行の殺人』この作品は、鉄道という閉鎖空間で行われた殺人事件の「容疑者全員が犯人である」、という画期的なストーリーとなっています。しかし、家事使用人研究者からすれば、もっと大切なことがあります。それは、「オリエント急行の殺人」は「家族と使用人たちの物語」である、ということです(以下リンクのシーズン6/65話)。

時は1938年。パレスチナでの事件を解決し、イスタンブールへ戻るポワロ。滞在するはずが、ある事件で呼び出しを受けて、急遽、帰国するためにオリエント急行の予約をします。ところがこの時期にしては珍しく、予約でいっぱいでした。困っているポワロを助けたのは、現地で再開したブークでした。彼はポワロと同じベルギー人で、かつオリエント急行を運営する会社の重役でした。

その後、ポワロが乗車したオリエント急行で殺人事件が起こります。殺害されたラチェットの本名は、フランコ・カセッティでした。カセッティは、アメリカに住んでいたアームストロング大佐の娘デイジー誘拐・殺害事件の容疑者でした。20万ドルの身代金を支払ったもののデイジーが殺害された5年のこの事件では、妊娠中だった大佐の妻ソニアがショックで早産して子供と共に亡くなり、大佐も自殺します。さらに手引きをしたと疑われたフランス人メイドのフランソワーズ(原作ではスザンヌ)も無実にもかかわらず、自らの命を絶ちました。

誘拐犯一味は大金をばら撒いて裁判を無罪で乗り切り、カセッティ本人はアメリカを出て行きました。そのカセッティの存在を突き止め、裁判では有罪とならなかった彼に、死をもたらす。それがこの事件の真相です。

死刑執行のために集まったのは家族と使用人、その縁者です。1) アームストロング大佐夫人ソニアの母で女優のリンダ・アーデン、2) ソニアの妹ヘレナと彼女の夫アンドレニ伯爵、3)デイジーの名付け親のドラゴミロフ公爵夫人、4) ガヴァネス(家庭教師)をしていたメアリ・デブナム、5) 大佐の戦友アーバスノット大佐、6) 事件を担当した地方検事の息子でソニアを崇拝していたヘクター・マックィーン(かつ父はヘクターの命を守るためマフィアの脅迫を受け入れて裁判結果を歪め、罷免される)、7) 戦時中は大佐の従卒だったエドワード・マスターマン、8)コックだったヒルデガード・シュミット、9) ナースメイドをしていたグレタ・オールソン、10) 運転手でフランソワーズの恋人だったアントニオ・フォスカレリ、11) フランソワーズの父でこの鉄道で車掌をしているミシェル、これにドラマ版では細部の改変が行われて乗車していた12) アメリカ在住の産科医コンスタンティンが加わりました。彼は、アームストロング家の主治医で、一家の状況を誰よりも理解していました。

全員が、薬で動けなくしたカセッティの体をナイフで刺しました。

そのため、「全員が犯人」となります。

彼ら全員は、デイジー・アームストロングの誘拐・殺人によって始まる一連の悲劇によって、大切な人々を失いました。その場にいた「家事使用人」は主人から命じられたわけではなく、一緒に生きた人たちの無念を晴らすために、自主的に参加したのです。この点で、「オリエント急行の殺人」ほどに、「主人と家事使用人の絆」を示すクリスティー作品はないと、私は考えています。

ドラマ版では、原作に登場したサイラス・ハードマンが消えています。アメリカ人の私立探偵で、ラチェットに護衛を頼まれていました。その実態は、自殺したメイドの恋人で、復讐に参加していたのです。このサイラスが消えることで、殺害の役目は医師コンスタンティン(原作では事件と関係がない)、恋人の役目は運転手のアントニオへと引き継がれました。非常に大きな改変ですが、コンスタンティンを巻き込むことで事件発覚を防げますし、産科医としてソニアの死を見ればこそ、当事者としての参加する役割を与えられたのでしょう。

以下、家事使用人(+制服の働く人)サイドの主要登場人物を紹介します。

■No.157 職種:鉄道スタッフ 名前:ピエール・ミッシェル
勤務先:オリエント急行
物語上の立場:ピエール・ミッシェルは、アームストロング家で働いていた侍女スザンヌ・ミッシェルの父親です。車掌などの鉄道乗務員は今回の同人誌では考察対象としていませんが、オリエント急行は実質的に「高級ホテル」で、その仕事描写ではベッドメイキングや給仕などホテルサービスと重なる点が多いため、取り上げます。

オリエント急行の車掌の制服は詰襟で、首元と胸にそれぞれマークが入っています。ベースの色は灰色で、縁取りに赤い線が入りました。ミッシェルの最初の登場シーンは乗客の受付で、駅ホームに立っていたのでコートを着用し、革手袋をつけ、制帽をかぶっていました。

ミッシェル以外では、冒頭の乗車時に一瞬だけ、車両内のキッチンで準備をするシェフ三人組(白衣、コックハットをかぶっている)や、朝食のシーンで給仕を行う白ジャケット、白シャツ、黒ネクタイ、黒ズボンのウェイター(お釣りを支払っているので席会計?)もいます。ミシェルは車掌の制服のまま、朝食の給仕に出ていました。

ミシェルの話に戻れば、事件にあっては犯行の舞台となるオリエント急行の予約を行って部外者が入れないようにし、ベッドメイクの際にはラチェットの寝台に脅迫状をしのばせ、合鍵を持つことからラチェットの部屋に入ることができ、アーバスノット大佐とマックィーンのアリバイを証明し、偽の犯人をでっち上げる際には車掌の制服を盗まれたことにするなど、非常に重要な役割を果たしました。

ミッシェルが事件に関与しているかどうかについて、上司となるブークは仕事一筋だと無罪を保証しました。この時、ミッシェルは妻を亡くした、と答えています。妻は娘を亡くした後、後を追ったのだと。この点で、カセッティの引き起こした事件は、ミッシェルから大切な娘と、妻をも奪う結果になっていました。

■No.158 職種:コック 名前:ヒルデガード・シュミット
勤務先:アームストロング家
物語上の立場:アームストロング家で料理を作っていたドイツ人のコックです。オリエント急行乗車時は、富豪のドラゴミロフ公爵夫人の侍女を務めていました。事件が起きた深夜は公爵夫人の部屋でマッサージと、読書をしました。

ポワロから、アームストロング家を知っているかと質問された際には「近所で働いていた」「そこで公爵夫人に出会った」と応じますが、劇中で料理に対する細かな注文(「それにパセリを入れる」「火をかけるのは30秒以下よ」)をポワロは記憶しており、「いい料理人だ」と誘導尋問を行いました。これに彼女は笑顔で「はい、どの家でも言われました」と回答してからその意味に気づき、「いいえ、私はメイドです」と正体を隠します。

一般的に考えれば、侍女とコックは求められるスキルが全く違うため、キャリアが重なることがありません。原作ではドラゴミロフ公爵夫人が「15年仕えている」「亡くなった公爵夫人の夫が所有していたドイツの領地の出身者」だと、身元を保証しましたが、どこまでが本当なのかは、この物語の中だけでは分かりません。アームストロング家の崩壊とともに、ドラゴミロフ公爵夫人に引き取られて何年かを過ごし、その間に、侍女としてのスキルを身につけていったのでしょう。「オリエント急行の殺人」後に、コックとして家族を喜ばせてきた自分自身のスキルとその時間を、彼女が取り戻せたのかは分かりません。

シュミットが仕えた公爵夫人を演じたのは、アイリーン・アトキンス。英国ドラマ界の重鎮で、Dameの称号を得ています。家事使用人を語る上では絶対に欠かせない伝説的ドラマ“Upstairs, Downstairs”(1971-1975年)の共同制作者であり、使用人映画の決定版『ゴスフォード・パーク』(2001年)ではコック役で出演しました。

■No.159 職種:ヴァレット 名前:エドワード・マスターマン
勤務先:アームストロング家
物語上の立場: 第一次世界大戦中、アームストロング大佐は軍務につきました。マスターマンはその従卒となって身辺の世話をしました。ドラマ版でポワロは彼をアームストロング家の執事と疑いましたが、従卒だったことのみが語られました。

原作では従卒だったことに加えて、大戦後に大佐のヴァレットとなりました。こうした、「従卒が戦後、家事使用人になる」ケースは珍しいものではありません。ドラマ『ダウントン・アビー』でも、グランサム伯爵にとってかつての従卒・ベイツは特別な存在で、彼を上級使用人ヴァレットに抜擢しました。戦友、だからです。従卒出身の使用人と主人の繋がりは、単なる主従関係を超えるものでした。

マスターマンは、オリエント急行乗車時にはカセッティを名乗るラチェットのヴァレットとなっており、身辺の世話をする役目を負いました。初登場時は薬と水の入ったグラスを持参しました。服装はいかにもヴァレットらしく、黒のジャケットに白いシャツ、黒のネクタイ、黒のベスト、黒のズボンです。特筆すべきはキャスティングで、『ダウントン・アビー』でグランサム伯爵を演じたヒュー・ボネヴィルが、今度は家事使用人のヴァレットを演じていることです。従卒だったベイツと同じ役を演じることに、配役の妙を感じ入る次第です。

ラチェットのヴァレットとなって9ヶ月で、その前はグロヴナー・スクエアのヘンリー・トムリンソン卿に仕えていました。離職理由は卿が東アフリカに行くことになり、彼を必要としなくなったためです(本当かは分かりません)。

歯痛があり、深夜まで読書をしていたことで、イタリア人のアントニオ・フォスカレリのアリバイを証明しました。

■No.160 職種:ナースメイド 名前:グレタ・オールソン
勤務先:アームストロング家
物語上の立場:ドラマ版では宣教師として活動し、インドでの活動の集金をしたり、子供を守ることを強調したりしています。カトリック教徒の「償いと許し」を間違っているものと考えており、ポワロの「神さえ許さない罪があるのか?」との問いかけに対して、「ええ」「子供たちに対する暴力は許されざるもの」と答えます。「主は私を守り、私は子供たちを守る」とも。

その実態は、デイジー・アームストロングの身辺で世話をしていたナースメイドで、容疑者として疑われて自殺したスザンヌと一緒に仕事をしていました。5年前から信仰の道に入ったのも、5年間の事件でデイジーを失い、その殺人者の罪が許されたことから、神ではなく、自分で子供を守る、との決意に繋がったのでしょう。

原作ではスウェーデン人で、この急行への乗車時の年齢は49歳となっています。職業はミッション・スクールの寮母をしており、看護婦としての経験が長いと語り、ドラマのように信仰に踏み込んだ話はありません。

また、原作でアンドレニ伯爵夫人はポワロに、自殺したメイドが「ナースメイド」だったことを話しました。すかさず「誰がナースでしたか?」とポワロが問うたのも、ナースメイドだけではなく、アームストロング家により専門的なナース(乳母)がいたことを知っていたからでしょう。この質問に、伯爵夫人は「ちゃんと訓練を受けた看護婦だった」と答えています。

本来は乳母でしたが、ドラマでナースメイドになったのも、自殺したフランス人メイドの役がナースメイドではなくなったことによるのか(ポワロは「ハウスメイド」と言っています)、或いはキャストが若い女性だったために経験ある乳母を演じさせられなかったのか、どちらかと推測できます。

■No.161 職種:ガヴァネス 名前:メアリ・デブナム
勤務先:アームストロング家
物語上の立場:ポワロがオリエント急行に乗る前に、イスタンブールで見かけた英国人女性です。この時、同じく乗客となるアーバスノット大佐と一緒に行動し、親しげに話しているのを見られたにもかかわらず、事件の際にはそうではないふりをしているので、ポワロの不信を招きました。ポワロはアーバスノット大佐を挑発するため、彼がいる場でメアリを追い詰めました。

実際はアームストロング夫人の妹ソニア(アンドレニ伯爵夫人)の女家庭教師を務めており、アームストロング家と縁がありました。ドラマの中では左腕が麻痺している設定となっており、ポワロがその指摘をした時、“Daisy Governess Bludgeoned”(デイジーのガヴァネスが棍棒で殴打された)との新聞記事見出しと、顔面を殴打された彼女の写真がカットインしました。在宅していた彼女は事件に巻き込まれて、犯人一味から暴行を受けて大怪我を負わされていたのです。

ドラマ版では、メアリ・デブナムは計画の首謀者となり、メンバーをまとめ、実行に導きました。

■No.162 職種:運転手 名前:アントニオ・フォスカレリ
勤務先:アームストロング家
物語上の立場:乗車時にポワロへ告げた職業は、フォード社の乗用車販売を行う成功したイタリア人でした。その実態はアームストロング家の運転手で、フランソワーズの恋人でした。フランソワーズは、見知らぬ男に屋敷の話(ナースメイドが屋敷を開ける時間など)を話してしまいました。

アメリカで活動するマフィアは、このカセッティの引き起こした事件によってFBIの動きが活発化したことで逆恨みして、刺客を差し向けたのではないかと、ブークは推論を語りました。イタリア人のアントニオは容疑者にされそうではありましたが、同室のヴァレット、マスターマンによってアリバイを証明されています。

■No.163 職種:メイド 名前:フランソワーズ・ミシェル
勤務先:アームストロング家
物語上の立場:オリエント急行の車掌ピエールの娘で、故人です。カセッティの一味が引き起こした誘拐事件では、犯人と疑われて留置場で首を吊って自殺しました(原作では窓から身を投げて)。サイラス・ハードマンと恋仲で、彼が今回の復讐劇に参加するきっかけとなりました。

アームストロング家ではナースメイドとして働いていました。結果として当局は彼女への尋問を繰り返し、自殺を招きました。この調査に当たっていた地方検事が、ヘクター・マックィーンの父でした。

フランソワーズの姿は、シュミットと一緒に写っている写真の中に確認できます。屋敷の前で笑顔のシュミット(エプロン着用?)と、コロネット・キャップに黒のドレス、肩紐が細い白エプロン(胸当て上部にレース?)、そして白襟・白カフスです。コロネット・キャップと細い肩紐つきエプロンのメイド服は、本作では珍しいです。

■まとめ
家事使用人は主人たち一家と一心同体である。その絆の強さが、本作品では最も強く感じられました。主人たち一家のために、罪を犯す。『名探偵ポワロ』、あるいはもっと広げてアガサ・クリスティー作品の中で、家事使用人たちがこれだけの人数で犯罪に協力し、隠蔽にも関わる作品は皆無です。

一連の死を周囲で見てきた使用人は、事態に混乱し、彼らを救えなかった無力感にも強く苛まれたことでしょう。最も自制心を発揮したキャラクターは間違いなく、マスターマンです。

カセッティに同行し、ヴァレットとして仕え、時を待ったのですから。

アームストロング大佐一家とその血縁・縁者という主人たちと、彼らに仕えて幸せな時間を過ごした家事使用人たちの関係性は事件で失われました。復讐は、そんな彼らが大佐一家との繋がりの中に居られる「唯一の絆」となっていたのかもしれません。

本作品では事件があった「5年前」の事件を、断片的に写真や新聞などで描きましたが、語られるかイメージのみで、直接的描写はありません。この点、原作通りです。

余談ながら、2015年に放送した三谷幸喜氏の『オリエント急行殺人事件』は被害者家族に相当な時間を費やす新しい描き方をしたことが、私の中ではとても大きな意味を持っています。

冒頭で述べたように、私は家事使用人研究者であり、『オリエント急行殺人事件』は「主人一家と家事使用人たちの物語」と捉えています。そして、その観点で、もっとも「主人一家と家事使用人の絆」を描いたのは、三谷幸喜氏の作品となります。

この作品は日本を作品の舞台として、前後編の二部に分かれて放送しました。そして、この後編は、5年前の誘拐事件直前の一家や家事使用人の幸せな時間をしっかりと描いた後に、誘拐事件が起きて日常が壊れ、妻子が死に、責任を感じた大佐が自殺し、さらに復讐者が集うまでを映像化しました。

なぜ、彼らが復讐するに至ったのかと、どのようにして復讐を行なっていったのかを、これまでのどの作品よりも深く描き出しているのです。中でも非凡だったのは、全員が全員、強い殺意を犯人に持っているわけではなく、また一糸乱れぬ動きをしていたわけでもないことです。

そこにはリーダー的な存在がいましたが、偶然や状況に巻き込まれる中で犯人を追い詰めるストーリーが進んでいき、「今まで人を殺したことがないような、考えたこともないような普通の人たちが、流れの中で、殺人事件を犯さざるを得ないところまで追い込まれている」描写を行いました。

『オリエント急行殺人事件』の犯人側の個々人の立場、犯罪への関与具合や熱意に差があるのです。こうした一人一人がより鮮明に描かれていることが、三谷幸喜氏の脚本が素晴らしく、とても人間らしい群像劇として優れていると思います。同作品での家事使用人個々人の描き方の差異は、機会があれば考察したいと思います。

2.『オリエント急行殺人事件』(ケネス・ブラナー版)について

2017年12月8日に公開を開始した映画『オリエント急行殺人事件』(以降、ブラナー版)はデビッド・スーシェ版のポワロと異なる解釈で、この大作をリメイクしました。両作品を比較すると、それぞれが描こうとした作品への取り組み方が違いました。そこで『名探偵ポワロ』版の「オリエント急行の殺人」(以降、スーシェ版)をより深く理解する意味でも、この作品について語りたくなってしまったので、同人らしく好きなことを書きます。

■復讐劇に参加する主なメンバーと設定の変更

原作ではコンスタンティン医師は完全に部外者でした。これを、スーシェ版ではコンスタンティン医師をアームストロング家の関係者にして、自殺したメイドの恋人だったサイラス・ハードマンを外し、その恋人設定を運転手のアントニオ・フォスカレリへ引き継ぎました。

ブラナー版を特徴づけるのは、「殺人の動機をより明確にする」ことだと私は考えます。殺人を起こすまで、彼ら復讐者は被害者でした。その被害者が何を失ったのか、今、どういう状況にあるのか、そして殺人が何をもたらすのかを、丁寧に描いているのです。

まず、大きな変更はアームストロングの戦友だった英国軍人アーバスノットの役割を、このコンスタンティン医師とくっつけて、「アーバスノット医師」として生まれ変わらせたことです。この変更はキャストを含めて、変化をもたらしました。

アーバスノットは人種差別が強く残るアメリカの時代の黒人として設定されました。白人であるメアリ・デブナムと親しい関係にある設定は残ったため、偏見が強い時代背景での人種を超えた恋愛が描かれました。余談ですが、「アーバスノット」の名も特徴的で、いわゆる英国人を示す「ジョン・ブル」は、作家ジョン・アーバスノットが創作したキャラクターでした。人種が多様な作品内での「典型的英国人」を意図したものでしょう。

この設定変更により、アームストロング大佐との関係は「上官」「部下」となりました。大佐は彼が大学で医学を学ぶ支えとなってくれ(ポワロは医師となる環境の困難さを指摘)、さらに大佐の家にいたガヴァネスのメアリ・デブナムと運命的な出会いをするなど、戦友を超えて人生を劇的に変えるきっかけを与えた存在となっていました。

この点で、アーバスノットが復讐に向ける気持ちは、強化されています。

そして、この設定変更は、メアリ・デブナムの存在も際立たせます。人種偏見が強く、結ばれることが困難な国にあってもなお、自分の目で見て好きな人を決める。その人間的強さが引き立っています。スーシェ版では「計画の主導者」と位置付けられましたが、ブラナー版では別の側面での彼女の強さを描いたのです。

次に変化したのは乳母役です。ペネロペ・クルスが演じたピラール・エストラバドスは、本来グレタ・オールソンという役名ですが、ケネス・ブラナーはインタビューで『ポアロのクリスマス』に登場する女性と同じ名前を使ったと語っています。

作品上、彼女は禁酒を語り、非常に深い懊悩を抱えています。スーシェ版が「神が子供を救わなかった」ことへ苦悩することに対して、ブラナー版では「ワインを飲みすぎて寝込んでしまった」と、誘拐を防げなかったことの責任の重さが大きくなって、そのことに潰されそうな心の苦しみが顔に出ているように見えます。

この設定変更は、自殺したメイドの責任の重さを減らしました。誘拐事件を起こす内部情報をラチェットへもたらしたことを追及されたとしても、酒を飲んで気づけなかった乳母もまた、周囲から見れば事件を防げる可能性を持った人物たりえるからです。

そんな流れを受けて、設定が深くなっているのが事件調査に当たった父を持つヘクター・マックィーンです。原作でマックィーンは、アームストロング大佐の妻への敬意が非常に強かったこ

とが加担する動機になっています。これにブラナー版では父が無実のメイドを死に追いやってしまったことへの悔恨や償いの気持ちが加わっているように見えました。

アームストロング大佐の従卒となったマスターマンも、アームストロング家のヴァレットとして登場します。重い病を抱えているという設定は、忠実なる家事使用人が最後の願いを叶えたいという気持ちを観客に伝えるものとなりました。

そして、スーシェ版では存在を消されてしまったハードマンは、自殺したメイドで恋人だったスザンヌについて、「こんな自分を愛してくれた」と心中を語りました。ハードマンはやや設定が弱く思えるキャラクターですが、自分を愛してくれた大切な存在を失った痛みが、原作以上に描かれているのです。

運転手のアントニオ・フォスカレリは、ベニアミーノ・マルケスと名を変えました。車のセールスを行う職種の設定がより具体的になり、運転手だったという立場だけではなく、その後の車を販売する事業の成功において、アームストロング大佐が助けてくれたという設定が明示化されることで、二重の恩義が発生しているのです。この「二重の恩義」(仕えていた時によくしてくれた上に、その後も支えてくれた)は、大佐への気持ちを強める設定となっています。

ピエール・ミシェルが自殺したメイドの父ではなく兄になっていることは、どういう効果をもたらしたのか、今時点では印象に残っていません。スーシェ版のミッシェルは父であり、娘の死を悲しんだ妻も亡くなったことでより大きな喪失感が出ています。同じく若返ったのは、ポワロに客室を手配する鉄道会社重役のブークでした。

3. スーシェ版とブラナー版の違い

私はスーシェ版こそが最高の「オリエント急行の殺人」だと思い、ブラナー版は「アクションが多いし、卵にこだわりすぎているし、変人さが誇張されているし、よく分からない女性の写真に語りかけている」という独自設定を見て、あまり期待していませんでした。

しかし、アームストロング事件の際、ポワロがその解決をアームストロング大佐から頼まれていたという、この映画独自の設定を見た時、驚きました。

そもそも、情報が断絶して立ち往生する鉄道で、ポワロがアームストロング事件を親族から働く人々まで含めてすべて詳細に知り尽くしているのは、難しいのではと思っていました。しかし、この「依頼を頼まれていた(しかし受ける前に事件が進む)設定」があれば話は別で、ポワロは「自分ごと」として事件を追いかけることになります。依頼主が死んだ場合でも、ポワロが律儀に事件解決を目指す話も少なくありません。

では、ポワロが解決すべき事件とは、何か。

スーシェ版では「犯した罪への罰」が大きなテーマでした。オリエント急行搭乗前に、ポワロはふたつの「死」(罪と罰)を見ています。ひとつは、自分が真相を解明した事件の犯人が自殺して他者からの罰を逃れたこと、もうひとつは現地の習慣に基づき、姦淫の罪で石を投げられて撲殺されようとしている女性を見たことです。後者について、目撃していたメアリ・デブナムは気の毒に思い、止めようともしましたが、ポワロはその点では同じ行動をとりませんでした。

アームストロング事件の時にカセッティを見逃した司法への憤りから、裁きとしての殺人へ踏み切った人々を前に、ポワロは、「法の精神が揺らいだときは私たちが必死に支えるべきだ」「それが崩れたら文明社会はすべての拠り所を失う」と述べます。

「法の精神より崇高な正義があるわ」とのグレタからの反論には「それなら神に委ねればいい」と答えるも、「神が動かないときは?」との言葉に、ポワロも強い回答を持ち得ませんでした。罪なき人々が、正義の不在により、罪を重ねてしまう。そしてそのことに苦しむところまで描きました。

小説ではポワロが真相を明かした後、犯人たちはおとなしく罪を受け入れ、結論は立会人へと委ねられました。スーシェ版では真相を明かした後、犯人たちが激論を交わしました。ポワロを殺して口封じすべき、という意見まで出ました。しかし、その選択肢は選ばれず、彼らは運命をポワロに委ねました。ポワロはこれまでの信念を曲げ、事件の真相について、警察組織へ嘘をつきました。ポワロが苦悩する立場に追い込まれる描き方をしたのが、スーシェ版の特徴でした。

これに対して、ブラナー版はふたつの点で、ユニークでした。まず先述したように、事件の被害者を様々な角度で描き、殺害へ至る動機を強めました。最も重要なことは「執行されなかった正義を執行する復讐劇」に加えて、ラチェットの殺人が「これからの救いになる」側面でも描かれていたことです。

これは乳母で信仰に救いを求めても救われたように全く見えないピラール・エストラバドスにとっても、事件後は薬の助けなしには眠れなくなり心身両面でボロボロになっているようにみえる伯爵夫人(アームストロング大佐の妻の妹)にとっても。殺人は、「今を生きる人々のために行わなければならない」救いにも見えるのです。

そして、この「事件で苦しんでいる」当事者としてポワロも加わります。原作にもスーシェ版にもなかった「アームストロング大佐に事件解決を頼まれたポワロ」という設定が重なることで、ポワロも大佐たちの命を救えなかった彼らと同じ、「当事者」に立たされました。

別の言い方をすれば、「大佐に頼まれた依頼」がポワロの中では続いていて、「大佐が、この状況で何を望んでいるのか」という発想が根底にあったかもしれません。

ブラナー版では、リンダ・アーデンが際立っていました。原作同様に正体を明かしてから真相を暴く場面では、ダヴィンチの「最後の晩餐」と同じ構図に関係者が座った構図を取りました。ポワロは事件の真相を語り、その後、中央にいたリンダ・アーデンに、事件を見逃すことができない自分の立場や信念から、「自分を殺せ」と促すように銃を渡します。しかし、リンダ・アーデンが選んだのは自殺でした。キリストと同様、その場にいる人々全ての罪を背負うかのように。

ところが、ポワロは銃の弾丸を抜いていました。誰かがこの事件でこれ以上死ぬことを望まないように。

正義感が強いポワロが、犯罪を見逃す。そのことの決断の重さを、スーシェ版では向き合い、独自の解釈で重厚な雰囲気の中で「見逃す」選択を描きました。ブラナー版は、ポワロが自分自身を神とみなすシーンもある中で、「最後の晩餐」とは異なって「死を許さなかった」と解釈できる行動があり、また、ポワロ自身が犯罪者の裁き手ではなく、「13人目」として寄り添ったようにも思える結末でした。

細部では私が気付けない深い解釈が多くあると思いつつ、本質たる「アームストロング大佐に事件解決を頼まれたポワロ」という設定を追加したことで、偉大なる古典「オリエント急行殺人事件」を新しく描き直した部分は素晴らしいです。

劇場で一度見ただけなので、手元で映像を見られるようになってから繰り返し見ることで、また新しい発見もあることでしょう。

■最終話「カーテン」へと続くスーシェ版
単発で終わるブラナー版と異なり、スーシェ版は全70話で『名探偵ポワロ』を描き続けるものです。そのため、これまで描いてきたポワロとの一貫性が強く求められています。その上、この「オリエント急行殺人事件」で「殺人を見逃す」決断をした後、最終話となる「カーテン」で、ポワロは人々を、友人を守るために「殺人を犯す意思決定をする」、「その罰を世の中から受けない」という、まさに「オリエント急行の殺人」の犯人たちと同じ境遇になる自分自身と向き合うことになります。

ブラナー版が「犯罪被害者に寄り添った視点」を持ち、ポワロを当事者として劇的に描き出したことに対して、スーシェ版は「ポワロ」が中心にあり、「殺人事件との向き合い方」は、すべて「カーテン」という最終話に向けてのポワロの描き方として捉えられるものです。

余談

さて、そんな私が最近オススメしている本が、デビッド・スーシェの自伝『Poirot and Me』です。20年以上の時間、何を考えてどのようにポワロを演じたのか、スーシェがどのようにクリスティー作品を解釈していたのか、そして各話のエピソードについて語ってくれる一冊です。

大変残念なことに日本版が出ていないので、どれぐらいの人が望んでいるのかを可視化しようと思い、以下のようなポストをしてみました。紙は難しいとしても、電子書籍で出て欲しいという願いを込めて。


2020/02/23 追記 同人誌は以下で委託中です。



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英国家事使用人研究者。屋敷の暮らしを支えた家事使用人の日々の仕事内容や生活、転職事情、屋敷の備品、キッチン、実在の使用人の手記などが好き。『英国メイドの世界』(講談社)、『日本のメイドカルチャー史』と『日本の執事イメージ史』(いずれも星海社)を出版。