赤坂神社の再建①-地域のお宝さがし-72

■所在地 〒547-0012大阪市平野区長吉六反1-14-24

■赤坂神社■
●現況●
 赤坂神社は、大阪市平野区長吉六反(旧河内国丹北郡長吉村大字六反)に鎮座しています。創建年月などは不詳です。祭神は素盞鳴尊でしたが、明治5年(1872)4月、素盞鳴尊神社・天満神社・御神社を合祀し、祭神を素盞鳴尊・菅原道真とし、「赤阪神社」と改称して村社に列せられ、境内には本殿・拝殿・納屋などが設けられていました(注1)。
当地は、元来「赤坂村」と称していましたが、元弘年間(1331~1334)の楠正成による千早赤坂城での挙兵に際し、六反村と改称したそうです。江戸時代の六反村は、西部は丹北郡に属する「丹北六反」、東部は渋川郡に属する「渋川六反」とよばれていましたが、「渋川六反」が享保期(1716~1736)の水害以降無人化したため、明治20年に「丹北六反」に合併されました(注2)。
社殿が美しいのは、平成18年(2006)、に多くの方々の寄付により修復されたからだと思われます(図1・2)。

図1鳥居・拝殿

図1 鳥居・拝殿

図2本殿

図2 本殿

注1)井上正雄『大阪府全志巻之四』(清文堂出版、1976年復刻)。神社               は、近代社格制度による、官社・諸社・無格社などの分類のうち、村             社は諸社に含まれ、市町村から奉幣を受ける。ウィキペディア「近代             社格制度」
注2)『大阪府の地名Ⅰ』(平凡社、1988年)。「六反」の由来は、志紀長              吉神社HPで紹介されている。

●神社が大破した●
 赤坂神社の拝殿が大破したため、明治20年7月7日に取り払われ、跡地に板囲いが設けられましたが、昨今、本殿・板囲い・周囲の塀などまでが大破壊し、「実ニ視ルニ忍ヒサル」(じつにみるにしのびざる)状態になったと、「氏神赤阪神社再建ニ付担当任選セラレ依テいろいろ記」(以下再建記、図3、注3)にありますが、破壊の原因は記載されていません。

図3 「再建記」

図3 「再建記」(個人蔵)

●大破の原因●
 明治18年6月に長雨による淀川の大洪水があり、これを機に、淀川の大改修が行われたことはすでに紹介しました(注4)。この長雨で、枚方付近では淀川の支流である天野川の堤防と伊加賀(現枚方市)の堤防が決壊し、「北河内北西部の寝屋川や平野川流域まで浸水被害が拡大」していますので(注5、図4)、平野川の沿いの六反村も大きく被災したと思われます。
 ここでは、「再建記」によりながら、「赤坂神社」が再建される経緯を紹介します。

図4 淀川洪水の被害範囲

図4 淀川洪水の被害範囲

注3)「再建記」は、赤坂神社再の活動記録で、筆跡から2名の記録者が想               定される。
注4)第69回「平田渡し」参照。
注5)木谷幹一『淀川流域の「態と切」とは何だったのか』(京都歴史災害             研究第17号、2016年)。図4は、「100年前の大洪水と新しい川の誕             生-淀川河川事務所-」国土交通省より転載

■再建準備■
●再建担当人選任●
 六反村の、水谷利平・谷川万寿太郎・巽源逸郎・巽源九郎・田中吉太郎・堂前理三郎・巽孫太郎・小枝為三郎・巽喜三郎・谷川仙次郎の10名は、「十長衆」と称されています。その役割などは不詳ですが、呼称と神社再建費用の半額を10名で分担・寄付していることから、村内の富裕層の戸主と推察されます。
 その「十長衆」の協議により、神社再建の実務を担う「担当人」として、「十長衆」から3名(太字)と谷川喜代造が選任されます。先の3名が「十長衆」であることを考えると、喜代造は、「十長衆」に2人いる谷川姓の、どちらかの近親者と推測されます。この4名が、対外的には「氏子総代」として活動を行います。また、「担当人」を補助する「下方担当人」の、種中庄造・北嶋房吉・豊田平吉・角田定吉・源三郎は、「担当人」が指名したと思われます。

●情報集め●
 明治25年9月18日(日)、4名の担当人は近村の神社の見学に出かけます。これより、先述の、本殿などが「実ニ視ルニ忍ヒサル」のは、明治25年9月以前の状況と分かります。
 まず「太子堂ノ宮」(太川神社図5、注6、渋川郡太子堂村)、続いて最も遠方の「弓削ノ宮」(弓削神社図6、志紀郡弓削村)を見学します。

図5 太川神社

図5 太川神社

注6)前掲1)『大阪府全志巻之四』には「大川神社」と記載されている。

図6 弓削神社

図6 弓削神社

 弓削神社見学の後、同村の大工忠五郎方を訪れ、「色々咄し致猶又同人ゟ以上ノ図面も差出一覧」、つまり、再建に関わる具体的な話を聞くとともに、忠五郎が作事した弓削神社の図面を見せてもらっています。ちなみに、現存する、春日造りで軒先に唐破風が施された本殿を忠五郎が作事したとすれば(図7)、相応の技量を有した大工であったと思われます。

図7 弓削神社本殿

図7 弓削神社本殿

 帰途、南老原村(志紀郡)の山本宅で「昼飯ノ御馳走」に預かり、その後、「植松村ノ宮」(渋川神社図8、渋川郡)を見学、午後4時頃に帰村した足で、赤坂神社の境内を実測するとともに、再建の方針などを相談して、「暮方」に解散しています。

図8 渋川神社

図8 渋川神社

 六反村(丹北郡)と見学先の神社(渋川郡・志紀郡)は、所属する郡が異なりますが、各村相互の距離は近く、生活圏内に位置していることが分かります(図9)。なお、図9には志紀駅(明治42年4月開業)が記されていますが、明治25年当時、関西線は八尾駅止りであったため、見学は徒歩であったと思われます。「よく歩くなあ」と驚きです。

図9 六反周辺地図

図9 六反村周辺

 「再建記」の、同日記録の末尾に、「但シ此外十月二日迄度々協義所ニテ参会も致候得共、此分ハ記載不致候事」、つまり、9月18日以降、10月2日までに行われた「担当人」による複数回の会議の内容は記録しないとしています。
 これに続くのは10月2日の記録ですから、9月18日から10月2日までに、複数の会議が行われていたことが分かります。その内容は、三ヶ所の神社の見学や図面などから得た情報をもとに、再建する赤坂神社の社殿の形式や費用の調達などに関するものと推察されます。
 これらから、9月18日以降10月2日までは、再建活動の準備期間とみることができます。

次回から、再建活動を見ていきます。

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