建築家小笠原祥光の仕事④ -地域のお宝さがし-86

■小笠原建築事務所■
 小笠原祥光は、住友総本店在職中の大正6年(1917)、関西建築協会(大正7年に日本建築協会と改称)の設立に参加し、委員などを歴任します。そして、大正10年2月23日に日本建築士会に入会(注1)、同3月、自宅にて小笠原建築事務所を開設します。判明する所員は、長澤栄作・久田見治平・木下喜三郎の3名で(注2)、昭和2年(1927)に、事務所を北区曾根崎の曾根崎第一ビル41号室に移転します。所員は、事務所が閉鎖される昭和12年まで3~5名程度です。
 他の建築事務所の所員は、片岡建築事務所19名、宗建築事務所14名、茂野村建築事務所7名、葛野建築事務所5名、河合建築事務所2名で(注3)で、葛野建築事務所や河合建築事務所と同程度の規模であったことが分かります。

注1)「二十五年間に於ける会員一覧表」(「日本建築士」1941年10月号)
注2)『建築協会会員住所姓名録』(1923年12月10日発行)
注3)『建築協会会員住所姓名録』。なお主宰者は、順に片岡安、宗兵蔵、野          村一郎、葛野壮一郎、河合浩蔵である。

■住宅改造博覧会■
 大正11年9月21日から同11月20日まで、大阪府豊能郡箕面村櫻ヶ丘(現箕面市桜ヶ丘)において、「住宅改造博覧会」(以下、博覧会)が開催されます。当時は、東京において住宅の洋風化を目指した住宅の改善運動が行われ、大阪では日本建築協会(以下、協会)が積極的に生活改善運動に取り組むことになりました。
 「博覧会」開催の準備のため、大正11年1月、「協会」内に「臨時博覧会部」が設置され、会長に片岡安、幹事長に葛野壮一郎、常務幹事に波江悌夫・小笠原鈅(祥光)が就任しています。一方、大正10年~11年に3回の「改良住宅設計図案」の募集(以下、コンペ)が行われました(注4)。当時の生活改善の大勢は、「二重生活を如何にして脱却せんとするか」(注5)にあり、椅子式と座式の二重生活を解消するための工夫が、「改良住宅」の要点となりました。
 第1回・第2回コンペの上位入選作品(各回4点)に、日本建築協会が手を加え、協会の「出品住宅」として8棟が建設されました。

注4)戸建て住宅は第1・3回目、2回目は「四戸建長屋」であった(「第
  二回懸賞改良住宅応募図案審査概評」、『建築と社会』第5輯第1号、
  大正11年1月1日)。
注5)「第一回懸賞改良住宅応募図案審査概評」(『住宅近代化への歩みと        日本建築協会』p29、1988年)

●会場の様子●
 「博覧会場」は、南端の「正門」から北上すると、北西部に「本館」、その南部は、噴水・音楽堂、休憩所・運動場などが設けられ、東部に区画が造成され、各住宅が配置されています(図1⑬~㊲、注6)。博覧会場に建設された「出品住宅」は、協会の8棟を含む25棟です。その絵葉書(図2~5)と推定される撮影位置を図1に示します。

図1 住宅改造博覧会配置図
図2 住宅改造博覧会絵葉書
図3 住宅改造博覧会絵葉書
図4 住宅改造博覧会絵葉書
図5住宅改造博覧会絵葉書

 常務幹事としての小笠原の仕事は、「専ラ其経営ニ当レリ」(注7)と具体的に不詳なことから、ここでは、以前に紹介した葛野壮一郎(注8)が設計した「葛野建築事務所出品住宅」(以下、葛野住宅⑱)、第3回コンペ1等入選の大原芳知(注9)原案の「日本建築協会出品第五号住宅」(以下、協会5号住宅⑲)、第3回コンペ2等入選の早良俊夫原案の「日本建築協会出品第三号住宅」(以下、協会3号住宅⑮)を紹介するに留めます。

●「葛野住宅⑱」●
 葛野は、「生活改善は衣食住の時代適応」(注10)と考えています。時代は、「二重生活」の改善や脱却を求めていました。葛野の平は(図6、注11)、西面中央部の玄関の南・東部に居間、北部に便所・浴室、階段、台所、女中室などが配され、2階の南部に書斎、東北部に寝室、南東部の「床」が設えられた「仝」は畳の表示がありませんが、和室と思われます。

図6 葛野住宅平面
図7 葛野住宅外観

当住宅は、葛野の「別邸」(注12)として用いられたようで、葛野の「二重生活」、すなわち「座式」生活からの離脱、「椅子式」(洋風)生活への傾斜が窺えます。外観(図7)は、「和式バンガロー」で、屋根の形態が美しい住宅です。余談ながら、ポーチに写っている人物は、容貌から、葛野本人と思われます。

●「協会5号住宅⑲」(大原案)●
 当住宅は、第3回コンペ1等入選の大原案を、協会が変更して実現されたものです。入選作品と実施図面を比較してみましょう。
立面(図8・9)

図8 立面(大原案)
図9 協会5号住宅
図10 平面(大原案)図9と同一方向

 立面の違いは、図8では西面に暖炉の煙突が2本ありますが、図9では1本になり、西部のパーゴラの垂木が、図8では縦横に配されていますが、図9では一方向に配置されています。
平面を見ると(図10)、1階は、西南部の「居間」・「食堂」は変更無し、「居間」北部西壁面の階段を、東壁面に移し、階段下に「トタナ」が設けられています。「応接間」の暖炉、階段の位置が変更されたため、2階の南北方向の廊下幅狭くなりました。南西部の「老人室」(畳敷き)の規模が縮小、隣室の「小供室」(洋室)が和室になり、「小供室」は北部に移されました。
 1階の室配置や起居様式に大きな変更はありません。2階は、室の規模に変更がありますが、室配置に大きな変更はなく、原案では和室が1室でしたが、変更後は3室となり、従来の座式生活が残されています。
 
●「協会3号住宅⑮」(早良案)●
 当住宅は、第3回コンペ2等入選の早良案を、協会が変更して実現されたものです(図11~13)。

図11 立面(早良案)
図12 協会3号住宅
図13 平面(早良案)

 外観に大きな変更はありませんが、平面が、敷地の関係で原案の西部の玄関を軸にして、左右を反転させ、ほぼ原案通りに実現されています(注13)。
 こう見ると、「博覧会」の「出品住宅」は、洋風生活を推進させ、「二重生活」からの脱却を目指しながらも、建築協会の「出品住宅」見られるように、入選案を優先させながらも、座式生活を解消仕切れない、過渡期の状況が反映されているのではないかと思われます。

注6)図1・6・8~13は、『住宅近代化への歩みと日本建築協会』(198年)
 より転載。
注 7)小笠原建築事務所『経歴書』
注 8)第48~52回参照
注 9)第61~65回参照
注 10 葛野壮一郎「住宅改善の要諦」(『住宅近代化への歩みと日本建築協
  会』p27)
注11)赤字は判読、青字は推定。
注12)吉田高子「箕面櫻ヶ丘/箕面」p342(『近代日本の郊外住宅地』
  2000年、鹿島出版会)
注13)『大正「住宅改造博覧会の夢」』p23(INAXギャラリー大阪、1988
  年)

次回から、小笠原建築事務所の作品を紹介します。

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