絵図を読む③「陣屋の居住者」 -地域のお宝さがし-81

■狭山藩陣屋の居住者■
 陣屋図(上屋敷図[図1])・と下屋敷図[図2])には、改名後の氏名や姓のみの記載があり、陣屋図の作成時に「名」が不詳な居住者がいたことが分かります。それらを、「御家中順席人員」(明治2年[1869]、以下人員)と「旧藩人現在員」(明治29年、以下現在員)から見てみましょう(注1)。なお、図1の道路名称には「横小路」が2本あるので、便宜上、北部を「北横小路」、中央部を「中横小路」とします。

注1)狭山藩「北条家文書」所収「旧狭山藩家中人名簿」(以下、名簿)

■上屋敷■
●改名者●
 表1の「氏名」欄には図1の氏名、「旧名など」欄に改名以前の「名」を記しました。明治2年の改名者25名のうち、改名後の氏名が図1に記された8名は、「旧名など」欄に柿色で示しました。

図1

図1 狭山藩上屋敷図

画像2

●姓のみの記載者●
①「大町筋」西側の「笠原」は、「人員」に同姓が見られないので、「人        員」にある「笠原玄策」に比定されます。
②「大町筋」東側(以下、東側)の「村上」は、改名後の「惣八」から「村        上武」に比定されます。
③同姓が複数いる場合は、改名・父子関係などから比定されます。
 例えば、「東側」の「植田」の場合、「人員」には以下の4人が確認され        ます。
  ・植田兵右衛門(51)耕平と改名
  ・植田弁六郎(20)弁六と改名
  ・植田五左衛門(48)治平と改名
  ・植田煕(35)謙八と改名
 このうち、「植田兵右衛門」は「耕平」との改名から、「袋町」の「植田耕平」に比定され、「弁六郎」はその子息です。となると、「東側」の「植田」は、「植田五左衛門」か「植田煕」と考えられますが、「御用掛り塀境見切之事」(注2)に、「植田次兵衛殿屋敷・・東之方林茂境・・」とあり、「林茂」の西側の「植田」は、「次兵衛」と判断されます。「五左衛門」は「治平」と改名しているので、「東側」の植田は「植田治平」に比定されます。なお、「植田煕」(謙八)は図1に見当たりませんが、年齢から近親者と推測されます。また、「現在員」によると、「治平」の縁者の「再吉」(25)が大阪市内の「謙八」家に同居しています。
 名前が比定された場合、「氏名欄」に()付きで名前を記し、黄色で示しました。

④「東小路」の「松川直三」と「中横小路」の「松川」の場合、「人員」に         は以下の4人が確認されます。
  ・松川嘉右衛門(41)悌蔵と改名
  ・松川彦之進(38)彦次と改名
  ・松川金之助(19)
  ・松川宇三郎(27)
 上記の4人と「松川直三」・「松川」との関連(改名や誤記の可能性など)が不明で、比定が困難です。比定が困難な場合、席次欄に青色で示しました。

注2)狭山藩「別所文書」所収

●誤記の可能性●
①「東門筋」の「山上兵治」は、「人員」では「「山上兵次」です。
②「中横小路」の「池田正吾」の場合、「人員」に3人の「池田」姓がいます。
  ・池田嘉津右衛門(65)豹吾・正平と改名
  ・池田俊吾(22)元富三郎
  ・池田直次(37)元七十郎後、安正と改名
 「池田嘉津右衛門」は「豹吾又正平」と改名しており、字面の類似から、「正吾」と誤記されたのではないかと推察されます。また「俊吾」はその子息です。
 「池田直次」は図1に見当たりませんが、「東小路」に「池田慎次」があり、「直次」が「慎次」と誤記されたと推察されます。
 誤記と思われる場合、「氏名欄」に〔〕を付け、緑色で示しました。

■下屋敷■
 下屋敷(図2)の道路名称は明らかではありませんので、居住地を敷地の「東部」・「中央部」・「西部」とします。
●改名者●
 表2の「氏名」欄には、図2の氏名、「旧名など」欄に改名以前の「名」を記しました。明治2年の改名者18名のうち、図2に改名後の氏名が記された15名は、「旧名など」欄に柿色で示しました。なお、図2に姓のみの記載者はありません。

図2

図2 狭山藩下屋敷図

画像4

●誤記の可能性●
①「東部」の「安井茂造」は、「人員」では「安井茂三」です(以下、同じ)。
②「東部」の「水間為五郎」は「水間将五郎」です。
③「東部」の「津川藤二」は「津川藤次」です。
④「中央部」の「羽白投策」は、「人員」では「羽白束」のみで、「羽白束」に比定されます。
⑤「西部」の「菊田庫次」も、「菊田與三兵衞」のみで、「菊田輿三兵衛」に比定されます。
 誤記と思われる場合、「氏名欄」〔〕を付け、緑色で示しました。

■居住地と席次■
 上屋敷は、「大町筋」東側に家老・番頭・用人・大目付などの上級藩士、「大町筋」西側に大目付・番頭格・給人などの上級・中級藩士、「東門筋」には用人と、主要な道路に面して、上・中級藩士が配されています。
 下屋敷は、北の門付近の「東部」に用人・給人、「中央部」南端には給人と、門付近と「中央部」南端に、上・中級藩士が配されています。
 これらから、上・下屋敷ともに、重要な場所に席次の高い藩士が配されていることが窺えます。

●居住者のその後●
 「現在員」によると、「相続人不詳」(含絶家)が上屋敷(52家)では7家(13.5%)に対し、下屋敷(41家)では11家(26.8%)です。下屋敷には下級藩士が多く居住者しており、下級藩士の離散が窺えます。なお、大阪府以外の居住者は、上屋敷では5名、下屋敷では4名です。

■陣屋図作成の契機■
 ところで、「旧狭山藩記事書類」(注3)に、「名簿」などが作成された「趣旨」が、森権六・植田謙八の連名で掲載されています。それには、
 ①北条家への「御深恩」を感謝し、これを子孫に伝えるとともに、旧藩民          の相互の情報交換などの配布資料とするため、謄写版ではなく印刷と
        し た。
 ②名簿の作成に際し、数家に残された書類を参照したが、「誤謬脱漏」も        あるかも知れないので、知らせてほしい。
 ③相続人の原籍住所などが不明な者、相続人不明な者が多く、情報を知ら         せてほしい。
とあります。「名簿」作成の契機は、明治27年3月、旧主君との交流を深めるため、旧藩士総代が北条氏恭に「哀願書」を提出したことが想起されます。同年8月、北条家の家政を支える家政協議会が設置され、親睦・互助組織「旧狭山藩臣組合」が結成され、これを支える財団「狭山余光会」が明治30年6月に結成されました(注4)。同会結成のための準備として、旧藩士の状況確認などのため、陣屋図や「名簿」作成などが企画されたと考えられます。
 なお、「趣旨」の記述者の森権六は、「現在員」によると、「判事 従六位森権六 四十五」とあり、年齢から、下屋敷「中央部」居住の「森鉄之助」の子息と考えられます。植田謙八は、「職業退職陸軍々吏 従七位植田謙八 六十」とあり、上屋敷「大町筋」東側の居住「植田治平」の縁者と思われる人物です。
 上記の経緯から、陣屋図は居住者に重点を置いて作成されたと考えられます。陣屋図と「名簿」は、明治初期の居住者とその後の変遷が窺える貴重な史料です。

注3)狭山藩「北条家文書」所収「旧狭山藩記事書類」
注4)『大阪狭山市史第1巻本文通史編』P535

次回は、狭山藩の武家屋敷を紹介します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?