豪華客船の設計者建築家中村順平②-地域のお宝さがし-77

■帰国後の中村順平■
中村の帰国後の活動を見ておきます。 

●履歴2(帰国後)●(注1)
・大正13年(37歳):1月帰国。国民美術協会主催帝都復興創案展に「大東                                 京復興計画」を出品。
・大正14年(38歳):国立横浜高等工業学校建築学科開設に伴い同科の主任                                教授として赴任。東京日本橋に中村塾を開設、建築士                                を希望するものの教育道場とした。
・大正15年(39歳):ジュネーブ国際連盟会館設計競技に応募。大阪商船天                                津航路「長城丸」の船内装飾設計を行う。
・昭和2年 (40歳):東京麻布に新築中の岩崎小彌太邸の食堂、談話室の                                   室内設計を担当。
・昭和4年 (42歳):大阪商船南米航路「ぶえのすあいれす丸」(9,626ト                                 ン、注2)、「りおでじゃねいろ丸」(9,627ト                                       ン)、大連航路「うらる丸」(6,377トン)、「うす                                 りい丸」(6,386トン)の室内装飾を設計。
・昭和9年 (47歳):大阪商船台湾航路「高千穂丸」(8,154トン)設計。
・昭和10年(48歳):大阪商船大連航路「熱河丸」(6,783トン)、「吉林                                   丸」(6,783トン)船内設計。
・昭和11年(49歳):大阪商船別府航路「にしき丸」(1,848トン)、「こ                                   がね丸」(1,906トン)室内設計。
・昭和12年(50歳):大阪商船「鴨緑丸」(7,363トン)船内設計。
・昭和14年(52歳):大阪商船南米航路客船「あるぜんちな丸」(12,755ト                                 ン)ラウンジ設計。
・昭和15年(53歳):日本郵船北米航路客船「新田丸」(17,150トン)、                                 「八幡丸」(17,128トン)、「春日丸」(17,127ト                                      ン)船内設計。
・昭和16年(54歳):日本郵船豪華客船「橿原丸」(27,700トン)ラウンジ                                 設計完了するが戦争のため空母に改装され実施中止。
・昭和39年(77歳):山口銀行本店に大壁面彫刻設計実施する。

注1)「中村順平先生略歴」(東大阪市立郷土博物館)抜粋。記載は原文ど            おり。
注2)海老名熱実「中村順平『スケッチブック』資料における船内装飾(客           船インテリア)の設計資料について」所収、「中村順平が設計した船           内装飾設計一覧表による。以下同じ。設計年が同論文と「履歴2」で           異なる客船があるが、ここでは履歴に従う。

■住居とアトリエ■
 中村は、ボザール卒業後もパリでの修学を望みますが、大正12年(1923)9月に関東大震災が発生し、中條精一郎から帰国要請を受け、翌13年1月に帰国します。住居は、大森ホテル(現横浜市西区)です(注3)。「履歴2」の大正14年にある「中村塾」は、日本橋二丁目裏の木造バラックの2階貸事務所の奥の元倉庫(1.5間×2.5間=7.5畳)を、「急場のアトリエに仕立て」たものです(注4)。しかし建築学科の開設も同年ですから、塾の開設はこれ以前と推察されます。
 中村は、この「急場のアトリエ」で、帝都復興創案展覧会(大正13年4月開催)に出品する「大東京市復興計画」を制作し、続いて、『東京の都市計画を如何にすべき乎』(洪洋社、大正13年6月)を執筆したと思われます。その後、「東京大震災記念建造物」コンペに応募します(締切大正14年2月28日)(注5)。
 中村は、曾禰・中條建築事務所には復帰せず、アトリエでの活動を選んだのです。大正14年、後に中村の助手となる大泉博一郎が入塾します。当時、大泉は東京高等工芸学校工芸彫刻科3年でした。大泉は、中村に卒業後も建築を学びたい希望を伝えると、「夜ならば日本橋に私塾(アトリエ)を持っているからそこで見てやる」(注6)と言われました。入塾時期は、卒業制作を始めた同級生もいたことから、大正14年年初と推察されます。このことからも、中村が、大正14年以前から日本橋のアトリエで活動していることが窺われます。入塾後、実測図の模写、陰影法による法隆寺の建築図画制作の指導を受けます。
 当時の中村は、「東京大震災記念建造物」コンペの応募作品を制作していたと思われますが、アトリエの近所の寄席の囃し太鼓や三味線の賑わいが、「丁度岩崎から依頼された浅間丸船内設計の代案に励む中村の芸心を浮き立たせていた」とあり(注7)、「浅間丸船内設計の代案」も制作していたことが分かります。岩崎とは、三菱の岩崎小彌太で、中村のフランス留学を援助した人物です。
 「浅間丸」については、第75回で紹介しました。この内装の外注が決定した直後、中村が帰国します。岩崎は、中村がフランスで建築を学んできたことを知っていましたから、「君だったらどうする」と問いかけたのです。中村は、「作品で返事するしかない」と、「日本橋のアトリエに籠り、・・夜を日に継ぐ製作に打ち込んだ」(注8)のが、前記の「代案」でしょう。岩崎の問いかけに対し、住居を確保した後、作品制作のために日本橋にアトリを構えたと推察されます。

注3)網戸武夫『情念の幾何学』)p298(建築知識、1985年に、「フラン             ス から帰朝以来住みなれた大森ホテル」とある。大森ホテルは、大             森パンションと記される場合もあるが、ここでは大森ホテルで統一。           中村に関する事項は、断らない限り同書による。
 4)前掲注3)『情念の幾何学』p196
 5)近江榮『建築設計競技』p285(鹿島出版会、1986年)
 6)前掲注3)『情念の幾何学』p378
 7)前掲注3)『情念の幾何学』p196
 8)前掲注3)『情念の幾何学』p250~251

■横浜高等工業学校赴任■
 中村は、曾禰達蔵・中條精一郎の紹介で、横浜高工長鈴木達治と面談し、建築学科の開設に際し、主任教授として建築家教育に取り組む決心をし、大正14年2月の入学試験には面接官を務めています。
 ボザール流の教育が建築家教育に最良の方法と考える中村は、1年生から3年生までを同一のアトリエで学ばせ、進級は学年とは無関係に単位得点に応ずるというボザール流の方針取り入れ、実力主義を貫き、質の高い建築図画が多数制作されています(図1、注9)。前記の大泉も、同様の建築図画を制作したのでしょう。
 一方で、創立開校記念行事(学園祭)に建築学科が参加するようになり、中村の指導による華麗な演出が行われました(図2~3)。

図1 建築図画の作品例(法隆寺金堂)
図2 建築科大行進ポスター
図3 衣装デザイン

注9)図1・3・5は前掲注3)『情念の幾何学』、図2は特集展示「建築           家・中村順平」(大阪歴史博物館開催、2007年5月)のパンフレット           より転載。

■設計活動■
●国際連盟会館コンペ●
 大正15年夏、国際連盟会館のコンペが発表されると、中村はその参加に向けての準備を始めます。年末には、日本橋のアトリエを大森ホテルに移し、建築学科の上級生を動員し、さらに曾禰・中條事務所の岡本馨にも応援を依頼して、翌年1月の締切に向かって、制作に教育に多忙な日々を過ごすことになります。
岡本馨 岡本については、第62回で簡単に紹介しました。大阪府庁舎コンペ(大正11年)で、平林金吾と共同で1等と佳作1席入選、単独でも、大阪市立美術館(大正10年)2等、神戸市公会堂(大正12年)佳作など、多数のコンペに入選しています。大阪府庁舎コンペ入選時の勤務先は内務省ですが、その後、曾禰・中條建築事務所に転職したようです。岡本は、後に船舶の設計にも関わります。

●船舶設計の契機●
 大正15年(12月25日改元、昭和元年)、「先の提案が意外なことに、現実の要請となって」中村を驚かせます(注10)。「先の提案」とは、岩崎から問いかけられた、浅間丸の「代案」のことで、中村はそれを岩崎に提出していたのです。そこから、岩崎の紹介によって、大阪商船が三菱長崎造船所に発注する大連航路の客船(3隻)のうち1隻(長城丸、2,594トン)の主室の設計が、中村に依頼されることになります。その時期は、「先の長城丸も手掛けながらの設計競技参加である」(注11)との記述から、コンペ募集発表以前と推察されます。これが、建築家中村順平が船舶設計に関わる契機となりました。
岩崎小彌太邸 岩崎邸については、前掲の「履歴2」では、昭和2年「東京麻布に新築中の岩崎小彌太邸の食堂、談話室の室内設計を担当」、また「中村順平年譜」(注12)にも、昭和2年「麻布鳥居坂岩崎邸室内装飾担当」とあります。ところが、「昭和三年の春浅いこの時期、(中略)その頃、麻布鳥居坂に岩崎邸新築の計画が進められていた。(中略)中條は、加えてその邸内の迎賓館の空間を中村に担当させるように希ったのである。(中略)工期は厳守されなければならず、(中略)制作の場所はどうするか、(中略)昼夜を通して制作を進める具体案が協議された。・・中村四十一歳の春であった。」(注13)との記述があり、岩崎邸は、①昭和3年早春に新築計画中であった。②その迎賓館を中村が担当することになった。③工期や制作場所、制作工程が協議されています。ということは、昭和2年にはまだ中村の起用は決まっていなかったと推察されます。
 迎賓館は、大食堂と喫煙室兼談話室で構成され、漆芸家松田権六の協力を得て、「まったく新しい造形の日本的空間として完成した。岩崎氏は思いがけない成功を喜び、造船関係の幹部に船内装飾設計もかくあらねばならぬことを示唆した」(注14)といいます。
 こうして、国際建築連盟のコンペが終わる頃から、中村への船内設計の依頼が増え、大森ホテルのアトリエが手狭となり、昭和5年、西銀座の電通ビルに近い東ビルの3階にアトリエが移されます。中村が昭和5年以前、つまり大森ホテルのアトリエで船内設計をした船舶は、「長城丸(2,594トン)」、「ぶえのすあいれす丸(9,626トン)」、「りおでじゃねいろ丸(9,627トン)」、「うらる丸(6,377トン)」、「うすりい丸(6,386トン)」の5隻が判明し、平均トン数は約7,000トンです。このうち、「ぶえのすあいれす丸」、「りおでじゃねいろ丸」(図4)が約1万トンで、豪華な船内設計になっています(図5)。

図4 りおでじゃねいろ丸外観(wikipedhia「りおでじゃねいろ丸」より転載)
図5 りおでじゃねいろ丸1等船客ラウンジ

 これ以後、船内設計に多くの建築家が積極的に起用され、船体・船内ともに国産の優れた客船が造られるようになりますが、その嚆矢となったのが、建築家中村順平だったのです。

注10)前掲注3)『情念の幾何学』p251
 11)前掲注3)『情念の幾何学』p260
 12)前掲注3)『情念の幾何学』p370~375
 13)前掲注3)『情念の幾何学』p221、223
 14)大泉博一郎「船内設計と中村順平」(『豪華客船インテリア画集』ア           テネ書房、1986年、所収)

次回は、客船の船内設計に起用された建築家をみます。

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