建築家大原芳知の仕事①-地域のお宝さがし-61
■建築家と設計コンクール■
建築家が設計技量を高める恰好の場として、設計コンクール(以下コンペ)があります。戦前のコンペでは、募集規定で単線平面が提示され、建築の様式が指定されることが多くありましたが、応募者は、それらの条件をもとに、様々な意匠の外観を考案し、美しい図面に仕上げて提案しました。
多くのコンペに入選した建築家に、「コンペの前健さん」の異名をとった前田健二郎がいますが(注1)、ここでは、大阪で数多のコンペに入選した建築家大原芳知(図1)を紹介します。
図1 大原芳知
大原の経歴と判明する応募コンペを表1に掲げます。
応募14件のうち8件に入選していますが、「健康住宅設計競技」の入選者の談話に、「当選することこれで十三回目」とあり(注2)、昭和5年(1930)3月以前に12回入選していることが窺われますが、表1以外のコンペは不明です。
応募作品を見る前に、大原の経歴などを見ておきましょう。
注1)第45回「大阪市立美術館②」参照。
注2)『健康住宅設計図案集』(1930年、大倉書店)。
■経歴■
大原は、明治21年(1888)生まれ、明治38年「大阪府臨時雇」になり、勤務の傍ら、翌39年7月「関西商工学校工業予科」(以下関西商工)を卒業し、「建築工事監督吏員」となります。さらに「同校建築学科」に進み、明治40年7月に卒業し、その後、「大阪電気軌道(株)技手」(現近畿日本鉄道)を経て、大正4年(1915)、「住友総本店営繕課」(以下営繕課)に入社しました(注3)。
明治33年に発足した住友本店臨時建築部は、明治44年10月に営繕課となり、大正4年から日高胖が中心となって住友銀行東京支店を完成させ、本店の建築に取り組むなど、大きく発展します(注4)。大原の入社はこの時期で、住友から関西商工に出講していた日高胖の推挙によるそうです(注5)。
大原の性格は、生真面目であるが言いたいことは明言し、精神的にも強く妥協がないため、友人も多いが敵も多く、東大卒業生(当時は東京帝国大学、以下同じ)に対する強いコンプレックスが勉強家という形になってあらわれた、最高の職人であったといいます。
ところで、大原の入社時の営繕課の総数は34名で、その内訳は、東大卒は日高胖・長谷部鋭吉の2名、工手学校11名、工業学校10名、関西商工5名、高等工業学校4名、他2名です(注6)。これらから、工手学校などの中等工業学校の卒業生が設計の実務を担っていたことが窺えます。
入社後は、長谷部鋭吉には可愛がられたが、竹腰健造とは反りが合わなかったそうです。竹腰の入社は大正6年ですので、この話しはそれ以降のことと思われますが、竹腰以降の東大卒は確認できませんので、東大卒業生が仕事の頂点にいて、リーダーシップを発揮していたのでしょう。それが大原のコンプレックスの要因で、その克服のため、コンペに熱中したかも知れません。一方で、大原の生真面目で勉強家という職人気質が、「純粋な技術屋」でデリケートな神経の持主であった(注7)長谷部の目には好ましいと映ったのではないでしょうか。
注3)履歴書。
注4)坂本勝比古『日本の建築[明治大正昭和]5 商都のデザイン』p112(以下『商都のデザイン』、三省堂、1980年)。
注5)大原辰雄氏談。大原に関する事項で、断らない場合は大原辰雄氏談。
注6)前掲注4)『商都のデザイン』p194「住友営繕人脈譜」。
注7)佐野正一・石田潤一郎『関西の建築』p35(相模書房、1999年)。
■技術者養成機関■
当時の建築技術者養成機関を見ておきましょう。
●工手学校(現工学院大学)●
工手学校が設立された明治21年2月当時、建築学科が設置された大学は、帝国大学(以下帝大、現東京大学)しかありませんでした(注8)。そのため、帝大出身の技術者を補助する工手の養成機関として工手学校が設立されました。官界や財界からの期待も大きく(注9)、設立発起人に建築関係では帝大教授辰野金吾、藤本寿吉(注10)の名が見えます。
工手学校は夜学で、授業は主に帝大の教員が担当し、製図を中心に、仕様書・測量などの実地的な教育が行われました(注11)。
注8)当時は造家学科。建築学科に改称されるのは明治31年7月(「DIGITALMUSEUM建築学専攻の歴史」)。
注9)伊藤ていじ『谷間の花が見えなかった時』p39(彰国社、1982年)。
注10)工部大学校造家学科2期生。Wikipedia「藤本寿吉」。
注11)『近代建築学発達史 第11編建築教育』p1828(丸善、1972年)。
●関西商工学校●
関西商工は、明治35年10月、北区堂島浜通(当時)の大阪市立高等商業学校(現大阪市立大学)の一部を、3年間無償提供をうけることで、大阪最初の夜学として開校されました(注12)。それ以前、明治31年8月、神谷邦淑・嘉納謙作・阪本次郎・廣瀬茂一、茂庄五郎(注13)らの、学友会における、「大阪に於ても東京にある工手学校の如きものを設置する必要がある」との議論が設立の契機となります。そして、明治34年に作成された、『大坂工手学校設立記録』からも、関西商工が工手学校を意識していたことが窺われます。その後、校名は「私立関西実業学校」、「私立関西商工学校」と変更されます。
関西商工が設立された明治35年当時、建築学科が設置された大学などは東京帝国大学(注14)と東京高等工業学校(明治35年12月、現東京工業大学)のみで、建築技術者の養成が大きな課題で、官立学校の校舎を無償で提供されたことからも、関西商工に寄せられた各界の期待の大きさが窺えます。
ちなみに大阪では、明治41年に大阪市立工業学校(現大阪市立都島工業高校)と大阪府立職工学校(現大阪府立西野田工科高校)が設立されます(注15)。
関西商工は、予科2年(普通科目)、本科2年(専門科目)の4年制で、授業はすべて教員の口述講義でした。建築科の教員は、辰野片岡建築事務所員や住友銀行建築課職員などで、多くの講師が大学卒の「工学士」であったようです(注16)。
開校から3年後、明治38年8月に、西成郡鷺洲町大仁(現大阪市福島区)に独立校舎を設けて移転します(図2)。
図2 関西商工新校舎(木造)
さらに、昭和6年10月に鉄筋コンクリート造3階建ての本館が、建築家宗兵蔵の設計で完成します(図3、注17)。
図3 関西商工新校舎(鉄筋コンクリート造)
多くの卒業生を出した関西商工は、昭和23年9月に大阪大倉商業高校と合併し、関西大倉高校となります。
注12)『関西大倉学園百年史』(2002年)。以下、関西商工に関する事項で断らない記述は、同書による。図2・3は同書より転載。
注13)茂庄五郎は、大阪で建築事務所を開いて活動した最初期の建築家である。他の4人とは親交があったと推察される。茂については、改めて紹介する。
注14)前掲注8)によると、帝大は明治30年6月に東京帝国大学に改称される。
注15)『会員名簿2001年版』(社、浪速工業会)、『会員名簿』(大阪職校会、1997年)。
注16)白石登喜男(大正4年建築科卒業)「関西商工学校の思い出」(「関西商工倶楽部会報第4号」、1985年11月1日)。白石氏は卒業後、当時大阪を代表する建築事務所であった辰野片岡建築事務所へ入所した。
注17)『復刻版近代建築画譜』p74(不二出版、2007年)によると、竣工は昭和6年8月。
次回から、大原のコンペ応募作品を紹介します。
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