建築家大原芳知とコンペ③-地域のお宝さがし-63

■大連駅舎・神奈川県庁舎・日本生命館コンペ(一部装飾系)■
 大原の、大連駅舎・神奈川県庁舎・日本生命館の作品は、オーダーなどの装飾が一部に施された意匠で設計されています。

■大連駅舎コンペ■
 同コンペは、南満州鉄道(以下満鉄)が、大連駅舎の新築案を募集したものです。手元の入選作品集(注1)から、透視図を紹介します。

図1 1等透視図

図1 1等小林良治

図2 2等透視図

図2 2等大原芳知

図3 3等1席透視図

図3 3等1席櫻井 博

図4 3等2席透視図

図4 3等2席前田健二郎・岡田捷五郎

図5 佳作1席透視図

図5 佳作1席土井軍治・藤島亥治郎

図6 佳作2席透視図

図6 佳作2席山口 儀

図7 佳作3席透視図

図7 佳作3席岸田日出刀

図8大連駅

図8 大連駅(2007年)

 2等(大原案)以外の入選案には、規模の違いはあっても、すべてに塔が設けられており、塔が駅舎などの公共建築のシンボルと考えられていることが窺えます。ちなみに、図8は現状の大連駅です。塔はありませんが、1等案に似ています。
 大原案の立面(図9)は、最下層を基壇扱いとし、その上部の正面中央部に5本のオーダーと縦長窓、その両脇に高さを抑えた半円アーチの窓、壁面の両端部に縦長の開口部を設けることで、垂直線を強調しています。また詳細図(図10)に描かれた、最下層の石張り、上部壁面の煉瓦張り、アーチの周囲やパラペットなどの花柄の文様から、アール・デコ風の意匠と分かります。

図9 立面

図9 大原案立面

図10詳細図

図10 大原案詳細図

注1)『大連駅本家懸賞設計当選図案帖』(大正14年[1925]4月)より転載。

●入選者の経歴●
 経歴などが判明する入選者は、以下のとおりです。
1等:小林良治は、大正11年(1922)東京高等工業学校卒業。満鉄本社建築課に勤務(注2)。入選時の年齢は24~25歳(推定)。 
3等2席:前田健二郎・岡田捷五郎のうち、前田は、大正5年東京美術学校(以下美校)卒業。逓信省営繕課を経て、当時第一銀行に勤務。岡田は、大正9年美校卒業。実兄岡田信一郎の事務所に勤務(注3)。前田と共同で、神戸市公会堂コンペで1等(大正12年)、早稲田大学故大隈侯爵記念大講堂コンペで1等・佳作4席(大正12年)に入選。入選時の年齢は前田32歳、岡田30歳。
佳作1席:土井軍治・藤島亥治郎のうち、藤島は、大正12年東京帝国大学建築学科(以下帝大)卒業。朝鮮総督府立京城高等工業学校(当時)助教授。赴任時に土井軍治(美校卒業、デザイナー)がいたとの話しから(注4)、同僚と判明。藤島は、「ほんとうはデザイナーになりたかった」(注5)との気持ちから、土井と共同でコンペに挑戦したと思われます。入選時の年齢は藤島25歳、土井27歳(推定)。
佳作3席:岸田日出刀は、大正11年帝大卒業。当時帝大非常勤講師(注6)。入選時の年齢は25歳。大原は最年長の36歳。若い世代の活躍が窺えます。

注2)西澤康彦『海を渡った日本人建築家』p53(彰国社、1996年)。コンペに関する事項で断らない記述は、近江榮『建築設計競技』(鹿島出版会、1986年)による。
注3)両者の経歴は、『日本の建築家』(『新建築』1981年12月臨時増刊)による。岡田については、第41回目「琵琶湖ホテル①」参照。
注4)『田中一対談集建築縦走』p165(建築知識、1985年)。土井は、大正3年福岡工業学校建築科卒業、大正10年頃、美校図案科の研究生として在籍しているので、その後、京城高工に講師として赴任したと思われる(「福工会報」第73号2016年1月1日)。
注5)『近代建築の目撃者』p143(新建築社、1977年)。
注6)岸田日出刀(Wikipedia)。

■神奈川県庁舎コンペ■
 同コンペは、大正2年(1913)に竣工した庁舎(注7)が、関東大震災(大正12年)で罹災したため、新築案を募集したものです。応募総数398点、大原は佳作2席に入選しています(図11・12、注8)。

図11

図11 大原案透視図

図12

図12 大原案詳細図

 大原案の外観は、正面車寄せに半円アーチを設け、壁面は柱型をオーダーと見なした近世式に見えますが、詳細図から、幾何学形態の装飾が施されたアール・デコ風の意匠が窺えます。車寄せの半円アーチとその周囲の装飾などは、大連駅舎に共通しています。

図13

図13 1等透視図

 1等入選案(図13、注9)は、瓦葺きの高塔が「日本趣味」の意匠として話題になりました。しかし、募集要項には、「船舶出入ノ際港外ヨリノ遠望ヲ考慮シ成ル可ク県庁舎ノ所在ヲ容易ニ認識シ得ル意匠タルコトヲ望ム」(注10)とあるだけで、様式の指定はなく、また、すべての入選作品の中央部に塔が設けられています。
 同コンペは、昭和初期に流行する「日本趣味」建築に位置づけられ、その流れは、「名古屋市庁舎」(昭和5年)・「日本生命館」(同5年)・「軍人会館」(同6年)・「東京帝室博物館」(同6年)コンペと続きます。「日本趣味」は、「審査員の顔ぶれ」によって、募集規定に加えられたといいます。同コンペの建築関係の審査員は、片岡安・佐野利器・大熊喜邦・佐藤功一・内田祥三・岡田信一郎です(注11)。
 応募者は、「審査員の顔ぶれ」から、自発的に「日本趣味」を提案したのでしょう。前回の「長瀬商店」のコンペでも見たように、流行の意匠やコンペの傾向に沿った提案は、入選の要素と思われますし、それができる応募者は、多彩な意匠を使いこなせる熟達者と言えそうです。

注7)葛野壮一郎が監督を務めた。第48回目「建築家葛野壮一郎の仕事①」参照。
注8)『建築雑誌』(1926年7月号)より転載。
注9)井上章一『アートキッチュジャパネスク』(青土社、1987年)より転載。
注10『建築雑誌』(1926年3月号)。
注11)第62回表1参照。以下審査員名は同表による。

■日本生命館コンペ■
 同コンペは、日本生命保険本館(東京市日本橋:当時)の新築案を募集したもので、応募総数は410点でした。本館の大部分を高島屋百貨店が用いるため、外観は、「容姿に落着きがあり、品位あり、自ら大衆の心を誘致する風貌を備ふる」こと、様式は、「東洋趣味を基調とする現代建築の創案につとめたるものはこれを重視す」ことが明記されています。さらに、立面図の陰影や透視図の着色指定からも、外観の重視が窺われます。ちなみに、建築関係の審査員は、伊東忠太・武田五一・塚本靖・佐藤功一・片岡安です。
 大原は、「雄大ニシテ厳然其間一味ノ情味ヲ有スル外観ニシテ其様式ハ在来ノ模倣的手法ヲ排シ不必要ナル虚飾ヲ避ケ独創的ナルモノヲ作ル」(注12)との立場からの提案をしています。
 西側立面(図14・15)は、下層部を基壇扱いとし、下層中央部に3連の半円アーチの開口部、上層部の最上部は幾何学形態の装飾が施されたパラペット、下層部の3連の半円アーチ上部の壁面を4本のオーダーで3分割して上・下層の一体化をはかり、中央部に設けた尖塔ととともに垂直性を強調しています。詳細図(図16)を見ると、半円アーチの周囲には花柄などの装飾は無く、様式はアール・デコ風の近世復興式と考えられます。

図14

図14 立面・断面図

図15

図15 透視図

図16

図16 詳細図

●審査評●
 審査では、募集規定の、「東洋趣味を基調とする現代建築の外観」について、どの応募案も、「相当苦心の跡が見え」ると評しています(注13)。また、「日本橋通といふ環境に調和し難」い作品、「創意余りありて落ち付きと品位を失ひたる感」がある作品などがあり、選考の苦労が窺えます。

図17

図17 特選髙橋案透視図

 特選の髙橋貞太郎案(図17)について、
①建物頂上に、和風の切妻屋根が巧みに取り付けてある。
②日本趣味を日本建築の装飾細部を以て取り入れてある。
③この種の意匠としては、「厭や味」みがなく、垢抜けしている。
などの観点から、「此種の案の内では一番優れたものと認められた」としています。
 結論にある、「此種の案の内」から、「東洋趣味を基調とする現代建築」の外観とは「日本趣味」であり、審査員は、当初から日本趣味の意匠を選ぶ方針であったことが透けて見えます。応募者も、審査員の顔ぶれをよく吟味して提案していたようで、大原の近世復興式は、審査委員の方向性にそぐわなかったと思われます。

注12)大原自筆の日本生命館建築設計図案説明書。
注13)『建築雑誌』(1930年6月号)。

■閑話休題■
 大原は、大連駅舎(2等)で4,000円、神奈川県庁(佳作)で1,000円の懸賞金を得ています。その他のコンペで得た懸賞金で自宅を建築したと聞きました。
 金額で見ると、当時の総理大臣の月給が1,000円(大正9年、注14)で、4ヶ月分です。ちなみに、現在の総理大臣の給与額は、検索によると約4,049万円(年間)とあり、月給換算で約337.4万円、4ヶ月分で約1,340万円。努力のしがいがありそうです。

注14)『値段の風俗史』(朝日新聞社、1986年)。

 次回は、名古屋市庁舎・覚王山日暹寺鐘楼コンペの図面を見ます。


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