樺太(サハリン)の建築②豊原-地域のお宝さがし-58

■豊原(ユジノサハリンスク)■
 訪ねた町は豊原と真岡(ホルムスク)です(図1)。豊原は、ユジノサハリンスク駅から東部に開けた町です(図2)。(注1)

図1

図1 豊原・真岡

図2

図2 豊原市街

注1)図1・2は、『地球の歩き方シベリア&シベリア鉄道とサハリン』(2008年12月)より転載。

■樺太神社跡■
 樺太神社の参道には、石段や日本人が植樹した樅の並木が残されていますが、下部から神社の方向を眺めると、その視線を遮るようにホテルが建築されていました(図3~4)

図3

図3 樺太神社への石段

図4

図4 参道途中のホテル

 樺太神社に残る宝物殿は、鉄筋コンクリート造(以下RC造)の校倉造りで、切妻屋根の長手方向の中央部に入口ががある平入り形式で、入口の前に階段が設けられています(図5)。また、その下の湧き水小屋も当時の施設とのことです(図6)。

図5

図5 宝物殿外観

図6

図6 宝物殿と湧き水小屋

 宝物殿の周辺にはゴミが散らかり、外部・内部ともに落書きだらけ、たき火の跡があり、暗くて煤けていて、大変傷んでいます。日本人が見ると、「罰があたるゾ!」と言いたくなる有様でした(図7)。

図7

図7 宝物殿内部

■王子製紙豊原工場■
 王子製紙豊原工場は、大正6年(1917)1月に操業しました。大規模な工場(図8)(注2)のほか、社宅(職員・職工)、や多様な福利厚生施設(倶楽部・浴場・消費組合・病院・運動場・理髪所・神社など)が設けられ(注3)、町を形成していました。
注2)Wikipedia「王子製紙(初代)」より転載。
注3)角哲他「樺太における王子製紙株式會社社宅街について」(『日本建築学会計画系論文集第577号』2004年3月)

図8

図8 王子製紙豊原工場

 現在は自動車修理工場になっていますが、右側のRC造の塔や左側の煉瓦造切妻屋根の倉庫(図9~10)など、当時の面影が少し分かります。

図9

図9 RC造の塔

図10

図10 煉瓦造の倉庫

図11

図11 事務所棟

図12

図12 傷みが目立つ施設

 装飾が施されていない大規模な事務所棟(図11)は現役ですが、他の施設は傷みが進んでいます(図12)。この近くには、日本人が作ったという橋がありました(図13)。玉川橋というそうですが、親柱の橋名は消されていて、確認はできませんでした。豊原で、当時の橋が残されているのはここだけだそうです。

図13

図13 玉川橋

●豊原公園(現ガガーリン記念文化公園)● 
 この公園は、王子製紙が作った公園で、池の近くに「王子ケ池」と掘られた石碑が埋もれていました(図14)。王子製紙の福利厚生施設であったのでしょう。池の周辺を走る列車は、駅員・車掌・運転手を子供が勤める子供列車で、サハリンの人気施設とのことでした(図15)。この付近に豊原神社もあったといいますが、社殿へ至る石段の跡(図16)と鳥居の石柱らしいものが半ば埋もれていました。

図14

図14 王子ヶ池碑

図15

図15 子供列車

図16

図16 豊原神社への石段

■樺太守備隊司令官宿舎■
 樺太守備隊司令官宿舎(以下、宿舎、現ロシア陸軍法務局サハリン州軍管区裁判所)(注4)は、明治41年11月頃に建築されました。設計者は、陸軍技師田村鎮と推定されています。田村は、明治38年に東京帝国大学建築学科を卒業後(注5)、陸軍省に奉職(雇員待遇)し、翌年技師に任官、樺太守備隊司令部付となります。
 宿舎は北側が正面ですが、現在、1階中央部の玄関は閉鎖されています。外観は、壁面を水平線で2層に分割し、1階は煉瓦造、2階は木造で、急勾配の寄棟屋根の両端を切妻屋根とし、意匠的に施された、小屋組と扁平なチューダーアーチからゴシック様式と判断されます(図17)。日本人による最古の明治建築で、瀟洒で美しい外観ですが、細部の傷みが目立ちます(図18)。

図17

図17 樺太守備隊司令官宿舎

図18

図18 宿舎細部

注4)名称は、角幸博他「旧樺太守備隊司令官宿舎(1908)の現況と設計者について」(『日本建築学会技術報告集第14号』2001年12月)による。同建築に関連する記述は、同論文による。なお、『地球の歩き方シベリア&シベリア鉄道とサハリン』では、「旧樺太守備隊指令官邸(現、軍事裁判所)」としている。
注5)同期生に建築家葛野壮一郎がいます(第48~53回参照)。また、1年後輩の橋本勉も樺太民政暑嘱託技師に任ぜられています。橋本は、後に大阪で設計事務所を開き、堀川小学校など多くの建築を設計します。

次回も豊原の建築を紹介します。

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