建築家小笠原祥光の仕事② -地域のお宝さがし-84

 前回、小笠原の建築活動を鉄道院時代・住友総本店時代・建築事務所時代の3期に分けました。ここでは、鉄道院時代の活動を見ていきます。

■鉄道院時代■
●職務●
 小笠原の鉄道院における職務などが窺える手帳(以下、手帳)を見ると、
「Memorandum」と記された下部に、「明治卅七年四月廿六日達 明治卅七年度自己担当区域内工事保有費配布予算費」とあり、「橋梁」・「柵垣」・「停車場」・「有料官舎」・「無料官舎」・「事務所」などの修繕費が記されていて(図1)、小笠原の職務が、各施設の営繕、すなわち修繕を含む維持・管理であったことが窺われます。

図1『手帳』の冒頭

 職務のうち、「無料官舎」は、『官舎貸渡規則』(明治9年5月制定)では、家賃が定められていましたが、翌10年3月の改正で、駅長官舎の家賃の徴収がなくなりました。(注1)。「有料官舎」は、注1に具体的に示されていないので不詳ですが、駅長官舎以外の官舎、もしくは、改正後の『官舎貸渡規則』示された、「私用ニ供スル間席ノミ宿代取立ツヘシ」の規定が適用された官舎なのかも知れません。

注1)崎山敏雄他「戦前期の国鉄における官舎建築の供給制度と平面構成について」(日本建築学会計画系論文集第73巻第624号441~448、2008年2月)。以下、官舎に関する記述は、断らない限り同論文による。図2~4は、同論文より転載。

図2 14坪官舎
図3 18坪官舎①
図4 18坪官舎②

 三者とも、「運輸掛員官舎」ですが、職階に応じて規模に差がつけられていたことが窺えます。規模は、各図面の「二畳」・「三畳」・「四畳」を個室とみると、「3~4K」(個室+台所)で、浴室はありません。また、各図面左側の、床・押入が設えられた室が客間です。客間への動線は、図2・3では、土間(玄関)→式台(板間)→客間(「六畳」・「八畳」)、図4では、土間(玄関)→式台(板間)→「二畳」→客間(「八畳」)と考えられます。

 『官舎坪数標準ノ件』 官舎に関して、明治32年12月に『官舎坪数標準ノ件』が制定されますが、『手帳』には、「官舎坪数一定之件」として、
  本年七月十九日公達第三百六十九号、鉄道作業局付属官舎貸渡規定第一        条ニ掲タル職員ヲ居住セシムル為、自今新設ヲ要スル官舎ハ土地ノ状況        ニ従ヒ、多少ノ差異可有之候得共、概ネ別紙官舎坪数標準ニ基キ新設施        行致可候哉此段相伺候也

とあり、制定以前にその内容が検討されていたことが窺われます。その後に、「官舎坪数標準」とした、以下の官舎が示されています。

  甲号官舎 甲号官舎ハ建坪凡五十坪内外ニシテ、一般高等官の居住ニ適                       スルモノ、但長官々舎ヲ除ク
  乙号官舎 乙号官舎ハ建坪凡二十坪乃至三十坪ニシテ、一般判任官居住                       ニ適スルモノ
  丙号官舎 丙号官舎ハ建坪凡ソ十七坪内外ニシテ、機関方下級助役及上                       級車長等ノ居住ニ適スルモノ
  丁号官舎 丁号官舎ハ建坪凡十二坪以下ニシテ、下級車長及火夫等ノ居                       住ニ適スルモノ

 官舎は、高等官(甲)・判任官(乙)とそれ以外(丙・丁)に区分され、居住者の職階によって、明確な差異が設けられていました。
維持・管理 明治37年1月の「部長達」で、修繕の目安が以下のように示されました。

当局付属官舎貸渡制度規定第七條ニ依、官舎ヲ貸渡スルトキハ明治九年五月太政官達第五三号官舎貸渡規則ニ依ルヘキモノニ付、官舎外廻リ雨漏リ又ハ臨時大破ノ外一切修繕ハ自費タルヘキコト(仝達第六条)勿論ニ有之、然ルニ臨時大破トハ多クハ天災事変等ノ為ニ生スルモノニ候ヘ共、亦経年ノ為自然大破(居住者ノ不注意ニアラスシテ)に隔ル場合モ可有之、而シテ其場ニハ左記ノ程度ニ依リ居住者交替ノ際(前居住者退去ノトキヨリ後居住者居住マテノ間)官費修繕ヲ為之得ルコトニ同定致候間、右御心得可有之候也

 すなわち、官舎の損傷については、
1.雨漏りや臨時の大破(天災事変など)以外の修繕は、自費修繕。
2.経年の自然大破(居住者の不注意は除く)は、居住者交替の際に官費修繕。
 そして、自然大破の場合には、
①畳ハ其床大破シ假令其表ヲ取替エルモ、使用ニ堪ヘサル程度ニ在ルモノ
②襖障子ハ其骨大破シ表皮ヲ貼付セントスルモ、之ニ堪へさる程度ニ在ルモノ
 つまり、畳の床(畳の芯)が傷み、畳表を張り替えるだけでは使用できない場合、襖・障子の組子が傷み、表面を張り替えても使用ができない場合と条件が付けられています。

 小笠原は、これらの規則にもとづき職務を遂行したのでしょう。『手帳』には規則に関する記載が多く見られます。

●姉川地震被害視察●
 明治42年8月14日午後3時31分、滋賀県北東部の姉川付近を震源とする直
下型地震が発生しました(注2)。特に付近の虎姫村(注3)では被害が大きく、住宅倒壊率(注4)が60%以上の集落もありました。
 翌15日、小笠原は被害状況の視察に滋賀県へ赴き、同18日に「岡田部長」に提出した復命書の下書きが『手帳』に記載されています。岡田部長とは、明治30年から大正4年まで、東京都心の鉄道高架線建設の工事に携わり、その間、本庁の課長や部長を兼務した岡田竹五郎と推測されます(注5)。
 視察先は、「激甚ノ中心」である北陸線虎姫駅を中心に、同線の長浜駅・高月駅・木ノ本駅・敦賀駅、東海道線の米原駅・柏原駅・関ヶ原駅ですが、復命書には、関ヶ原駅→柏原駅→米原駅→長浜駅→虎姫駅→高月・木ノ本・敦賀駅の順に被害状況が記されており、東海道線を西へ向かい、米原駅から北上した視察の行程が分かります(図5)。

図5 視察駅の位置(敦賀駅を除く)

 姉川地震による鉄道施設被害は、「虎姫駅舎倒壊の他に数箇所で路盤沈下」とありますが(注2)、『手帳』によると、本屋・待合・便所・貨物庫が全潰、物置が大破半潰した状況を、「急激ニシテ激甚ナル上下動ト之ニ次ク震動ニテ突差ノ内ニ全潰様子ナリ」(①『手帳』の下線部番号、以下、同じ)と観察しています。さらに、大破半潰した物置が、「直ニ起シ直シ、此中ヲ仮ニ駅事務室トナセリ」(②)と、その対応策も書き留めています(図6)。

図6 虎姫駅などの被害状況

 また、本屋の乗降場上家の柱は、「沓石据ニシテホールヂングボールト」などが施されていなかったようですが、「土台ハ其侭残リ、根枘ヨリ折レテ倒壊」(③)した状況から、「柱根ボールトアリトスルモ、何ノ用ヲナシ得サンカト思料ス」(④)と、補強金物の用い方に考えを巡らせています。
官舎は崩壊を免れますが、大きく傾斜し、内部は鴨居がすべて落ち、建具はねじれ、柱は傾斜し、壁には縦横に亀裂が走り、内法貫は1寸2分も外れるなど、「惨担タルモノ」でした。さらに、柱が地面近くで折れているような状況から、従来の構造物の弱点などについては、今後の研究に待たなければならないとしながらも、ボルト締め・筋違の適切な使用、屋根葺材の軽量化などが地震の対策に有効なことを確認しています。
なお、先記の「虎姫駅舎倒壊の他に数箇所で路盤沈下」に関連する記述として、「本屋側乗降場面ハ擁壁ニ接シテ亀裂シ、尚便所横手ニ『ホーム』下ヲ横断スル『コルベルト』アリ、之ニ並行ニ地盤亀裂セリ」との記載がありますが、「コルベルト」の意味が不詳です(⑤)。
地震対策は、後々まで小笠原の大きな関心事の一つになるようで、著作(注6)において、「耐震耐風の構造になす為め椽側の柱を多くし、壁下地に改良を施し、小屋梁組合せに注意し、大體にオープニングスパンを少なくし、筋違材料並に緊結金物を十分使用」することを、図を掲げて提案しています。

注2)「1909年姉川地震(江濃地震)について」
注3)虎姫村は、明治22年4月の町村制の施行により、東浅井郡の各村で構成さ
     れて誕生した。昭和15年12月に虎姫町となり、平成23年1月(2011)長
     浜市に編入された(『角川日本地名大辞典25滋賀県』角川書店、1979           年)。
注4)倒壊率は、[全潰戸数+(半潰戸数)/2]/総戸数で算出される。宇佐見竜夫        『新偏日本被害地震総覧』(東京大学出版会、1987年)
注5)島秀雄編『東京駅の誕生』p113、(鹿島出版会、1993年)
注6)『現代的中流住宅建築構造改良案』(洪洋社、1919年)

■閑話休題 2題■
①小笠原の『手帳』 現存する『手帳』から分かる事柄以前に、「Memorandum」の装飾文字や、小さな文字で綿密に記された紙面から、小笠原の遊び心と几帳面さが窺えるとともに、「候文」とカタカナによる記述が当時の雰囲気を感じさせます。
②豪華客船「りおでじゃねろ丸」 第77回で紹介した「りおでじゃねろ丸」が、襲撃されたという記録がありました。マレーシア半島西部のマラッカ海峡に面するペナンに入港していた海軍通信兵の日誌(昭和17年8月13日)によると、「伊二○潜はマラッカ海峡を出たばかりのところで潜望鏡を発見せりとの電あり。以前にリオ丸の襲撃されたのもこの付近ゆえ、バシー海峡を出るまでは、まことに今までよりも、なお油断がならない」、と記されています(注7、図7)。同船は、その長い原名から、海軍将兵からは「リオ丸」と呼ばれていました。
 「リオ丸」は、昭和15年10月に日本海軍に徴庸され、潜水母艦などに艤装され、カムラン湾沖を南下し、シンゴラ(現ソンクラ、マレーシア半島東部)に資材を運送し、翌年3月以降ペナンで補給活動を行っており、7月27日、インドシナ半島沖航海中にアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けますが、沈没はまぬがれています(注8)。先記の、「リオ丸」が襲撃されたのは、2週間余前のこの攻撃と思われ、乗組員の緊張感が感じられます。
 なお、「リオ丸」は、昭和19年2月トラック諸島の空襲で沈没、船体は海底に原形をとどめているそうです。

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