樺太(サハリン)の建築③豊原-地域のお宝さがし-59

■樺太庁博物館(現サハリン州立博物館)■
●設計者と意匠●
 樺太庁博物館は、貝塚良雄(図1)(注1)により、「日本城郭風和様折衷式」の意匠で設計され、昭和12年(1937)に建築されました。

図1貝塚良雄肖像

図1 貝塚良雄

 貝塚は、明治33年(1900)横浜市に生まれ、大正6年(1917)年神奈川県立工業学校建築科を卒業後、清水組(現清水建設)を経て、翌年神奈川県庁に入庁します。県庁では、和風意匠の鎌倉師範学校(図2)(注1)の現場施工図を担当したことや、和風意匠の神奈川県庁(以下、県庁)を間近に見ていたことが、樺太庁博物館の設計のための貴重な経験になったと、指摘されています。

図2

図2 鎌倉師範学校

 この県庁は、以前の県庁(注2)が関東大震災に罹災したため、設計コンクール(以下、コンペ)1等に入選した小尾嘉郎の原案をもとに、昭和4年に新たに建築されたものです。「日本趣味」による外観意匠が話題になった作品です(図3)(注3)。これ以後、コンペでは「日本趣味」の設計案の入選が多くなります。

図3

図3 神奈川県庁コンペ1等入選作品(小尾嘉郎)

注1)井澗裕「貝塚良雄と樺太庁博物館」より転載。貝塚良雄・樺太庁博物館・次項の樺太庁中央試験所本館に関する事項で、断らない記述は、同論文と井澗裕他「樺太庁技師貝塚良雄1900-1974)の経歴と建築活動」による。
注2)大正2年9月竣工。48回目で紹介した建築家葛野壮一郎が現場監督を行った。
注3)井上章一『アートキッチュジャパネスク』(青土社、1987年)より転載。

●現況●
 城郭を模した外観は、基壇・腰部・壁部の三層に構成されており、西洋の古典様式を基本にしていることが分かります(図4)。玄関手前の車寄せの上部は、折上げ格天井に、鏡板は網代張り(図5)、内部も、折上げ格天井の室(図6)、梁端部の若葉文様や眉欠き(図7)など、当初の形態がよく残されています。また、随所にトップライトが設けられ、日照が少ない冬季における採光の工夫が感じられます(図8)。このような、外観正面や内部の保存状態の良さに対し、背面には傷みが目立ちます(図9)。

図4

図4 樺太庁博物館

図5 

図5 車寄せ上部

図6 

図6 折上げ格天井

図7 

図7 梁端部の若葉文様・眉欠き

図8 

図8 階段踊り場上部のトップライト

図9 

図9 背面

 玄関脇の狛犬は樺太神社のもので(図10)、ユーモラスな表情で、近代の特徴が窺えます。周辺には、家紋入りの手水鉢(図11)や豊原第四小学校の奉安殿(図12)(注4)が移されています。同小学校の跡地には、門柱と石段、奉安殿の基礎部分が残されていましたが(図13)、スーパーが建設されると聞きましたので、現在は景観が変わっていると思われます。

図10 

図10 玄関前の狛犬

図11 

図11 家紋入りの手水鉢

図12 

図12 豊原第四小学校の奉安殿

図13

図13 奉安殿の基礎部分

注4)奉安殿については、第25回「旧赤阪小学校講堂③」参照。

■樺太庁中央試験所本館(現警察学校)■
 樺太庁中央試験所本館(以下、試験所)(図14)は、豊原の郊外、旧豊北村(現ルゴヴォエ村)にありますが、車での移動したため、その位置は地理的に不明確です。やはり貝塚により、昭和3年に建築されました(図15)(注1)。

図14

図14 樺太庁中央試験所本館(見学時)

図15

図15 樺太庁中央試験所本館(建築当時)

 両図を比較すると、その意匠はインターナショナルスタイル風ですが、玄関の車寄せの柱下部にはアール・デコ風の装飾が施され、無装飾とはいえません。見学時には、玄関周辺が大きく改変されていましたが、背面は当時の様相が窺えました(図16)。

図16

図16 背面

■拓殖銀行豊原支点(現サハリン州立美術館)■
 角地に立地するため、低い基壇にフルーティングが施されたドリス式にオーダーの外観意匠がよく目立っています(図17)。

図17

図17 拓殖銀行豊原支店

 現在は美術館として使用されていますが、内部の吹き抜けや周囲の回廊や中央の柱など、戦前の銀行建築を思わせる要素がよく残されています(図18)。銀行の金庫の扉、柱のレリーフ(図19)など当時としてもレベルの高い建築であったことが窺えます。

図18

図18 同内部

図19

図19 柱上部の装飾

■豊原町役場(現警察)■
 外壁がピンクで驚きましたが、外観や正面の庇部分から戦前の建築であることが窺われます(図20)(注5)。外観に界壁が見られることから、木造を主体とした構造と思われます。

図20

図20 豊原町役場

 玄関を入ると、中央にある階段が踊り場から左右に分かれる形式で、昔の役場などに見られるものであることが窺えました。ただ、1階ホールに天井が張られ、吹き抜け部がつぶされていたのは残念なことでした。

注5)「南サハリンにおける日本統治期(1905~45)建築の現存状況」(『日本建築学会技術報告集第5号、1997年12月』)には、「サハリンビジネスセンター別館」とあるが、見学時には警察と聞いた。そのため撮影禁止であった。

図21

図21 豊原医院

 帰りのフェリーで一緒だった人が、戦前、この近所に下宿していたそうで、町の様子は変わったが、病院は当時と変わっていないと話されていました。

■閑話休題■
 町中から少し離れた所に、日本人墓地があり、墓標が建てられていました(図22)。その近くに人名が刻まれた石碑が残されていました(図23)。

図22

図22 日本人墓碑

図23

図23 墓標

 右から6行目、「和十年□月廿四日没 實哉日□居士 黒田貞吉 大正十□年四月廿七日没 黒田道子 享年十八才などと読めます。黒田家の墓標でしょう。
 日露戦争後の講和条約により、南樺太が日本に割譲されたのが明治38年ですから、黒田家は早い時期に南樺太に移住したと思われます。 
 異国の地に眠る人たちにせめてものお参りをさせて頂きました。

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