不登校という枠組み

おはようございます。
不登校について昨日書くって言っておいて今日になってます。
と、いうか、昨日書いたんですよね。でも相変わらずどんくさくて、書いた直後に全部消してしまったんです。そうなるともう、そのときの勢いは再現できない。同じような内容を綴っても死んだ文になることは目に見えています。なので、仕切り直して、今日は今日の勢いで書いてみようと思います。

おととい書いていたのは誰にでも思考の枠組みってあるよねっていうことでした。みんなが同じ枠組みを強制されるいわれはないし、一度はめた枠組みを一生背負う必要もない。

そして「不登校」っていうのもひとつの枠組みなんじゃなかろうか、というのが私の考えです。そこにはまっていったのか、はめられたのか、はまらざるをえなかったのか。全部いっしょくたに「不登校」としてしまうことにちょっと違和感を感じるのです。

そもそも学校って「行くべき場所」なんかじゃまったくないです。行きたかったら行ったらいい、そのくらいの場所。なのに行かないと「不登校」と、さも問題のような扱いが待っています。そして大人たちがちょっかいを出してきます。

「みんなで戻ってくるのを待ってるよ」とか「居場所を作るね」とか「不登校を決断したことはすごい」とか。否定するにも肯定するにもなんだかおせっかい感が尋常じゃないのです。なぜなんでしょう。教育の機会が用意されているのはいいことですが、それを強制されるのは意味がわかりません。「子どもはひとりでは学べない」とでも思っているのでしょうか。

人間は生まれたときから学習を勝手に始めます。生きていくってそういうことだから。たとえば不登校、という状態でも何かは学習しているのです。

そういう意味で一番切ない不登校は「行きたいのに行けない」という状況に置かれたもの。ただ、ここでも思うのは「本当に行きたいのか?」ということです。「行かなくちゃいけない」と、勘違いしてない?って聞きたいのです。

名前は変更の余地あり、ですが不登校という枠組みにはめられているのか、自らはまって今安定を得ているのか、この枠組みを外せるっていうことを知っているのか、一緒に考えたり、見守ったりしか、周囲の人間にはできないのかもなぁと思ったりしています。

とりとめがないな(笑)

そのうちもう少し整理したいです。

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