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[#2]“少女☆歌劇 レヴュースタァライト”のキリンについての考察 ─何故レヴュー主催者はキリンの姿をしているのか─

キリンは何の象徴か?

 “少女☆歌劇 レヴュースタァライト”における謎の1つと言ってもよい、「キリン」の正体。レヴューの主催者にして、観客。キリンでありながら人語を解し非常に渋い声で話す。舞台少女達を観測する不可思議な存在であるキリンの正体については多くのファンが考察を繰り広げていることだろう。筆者はキリンの正体を、舞台で巻き起こる物語に惹かれる人々の象徴だと考えている。

何故私が見ているだけなのか 分からない?
わかります
舞台とは 演じる者と観る者が揃って成り立つもの
演者が立ち 観客が望む限り続くのです
そう 貴方が彼女達を見守り続けてきたように
私は途切れさせたくない 舞台を愛する観客にして 運命の舞台の主催者
舞台少女達の永遠の一瞬!
迸(ほとばし)るキラめき!
私はそれが見たいのです!

そう 貴方と一緒 わかります

 これは最終話の劇中にて「星罪のレヴュー」を鑑賞するキリンが視聴者に向けて語った言葉である。キリンの指摘通り我々視聴者はこの12話を通じて、舞台少女達の想いの衝突、そしてそこから生まれる数々のドラマに釘付けになってきた。これらのドラマをキリンは「舞台少女達の永遠の一瞬、迸るキラめき」と表現したうえで、それらを求めるのは我々視聴者と一緒だと主張している。なるほど。劇場の客席から舞台少女達を見ているキリンと画面越しにそれぞれの客席から舞台少女達を見ている我々は確かにイコールだと言えよう。

レヴュー主催者がキリンである理由は?

 キリンが何を象徴する存在なのかについては自分なりに答えを出せた。しかし、どうしても残る疑問がある。どうしてレヴューの主催者はキリンの姿をしているのか。何故キリンの姿でなくてはならないのか。どうして人やライオンなどでは駄目なのか。一体何が主催者の姿をキリンにさせるのか。

 8話辺りからこの事について考え始め、最終話のとある台詞によってついに筆者は1つの仮説に行き着いた。以下、再び最終話の劇中にて「星罪のレヴュー」を鑑賞するキリンの台詞を記す。

何故私が見ているだけなのか 分からない?
わかります
舞台とは 演じる者と観る者が揃って成り立つもの
演者が立ち 観客が望む限り続くのです
そう 貴方が彼女達を見守り続けてきたように
私は途切れさせたくない 舞台を愛する観客にして 運命の舞台の主催者
舞台少女達の永遠の一瞬!
迸(ほとばし)るキラめき!
私はそれが見たいのです!
そう 貴方と一緒 わかります

 レヴューの主催者は、舞台を「演じる者と観る者が揃って成り立つもの」と捉えている。演者がいても観客がいなければ舞台は成り立たない。舞台を途切れさせないために、キリンは常に観客兼主催者として舞台を鑑賞し続ける。さて、突然だが少し生物としてのキリンの特徴に焦点を当ててみる。そして舞台の幕間の長さについて話す。

 生物としてのキリンは哺乳類の中で断トツに睡眠時間が短い。どれくらい短いかというと、何と1日辺りたった20分。そして舞台の幕間(休憩)はだいたいの場合20分らしい。ここで1つ仮定をしてみよう。─もしも「キリンの睡眠時間」と「幕間の長さ」が対応するとしたら?─

 「キリンの起床時間」と「理論上舞台に演者が立っていられる時間」も対応するではないか。

 演者がいても観客がいなければ舞台は成り立たない。舞台を途切れさせないために、キリンは常に観客兼主催者として舞台を鑑賞し続ける。舞台を愛する主催者は、自らの望む舞台を決して途切れさせず、極限まで長く続けようという意志の下に、あえてキリンの姿をとっているのではないか。舞台を愛し、どこまでも舞台を続けるために、演者の立つ様を決して見逃さないと言わんばかりの凄まじい執念の体現こそが、「キリン」という姿なのではないか。

おわりに

 “少女☆歌劇 レヴュースタァライト”。以前から作品自体は知っていたが、こうして最後まで視聴したのは初めてだった。様々な想いが衝突することで生まれた様々なドラマは間違いなく筆者を魅了した。今ならキリンの言っていたことがよく分かる、そんな気がする。

Fin.

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