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日記

虐待の定義一覧みたいなのを読んだ。親が該当してなかった。全くしてない。かすってもない。それであれはなんだったんだろうと思ってしまう。親が喧嘩してつらいとか、親が辛そうでつらいとか、出ていってしまうとか、皿が投げられるとか、そもそも片方の訴えが全然もう片方に響かないとか、愚痴を聞かないといけなくて元気づけないといけないとか、予期しないところで急に怒られるから緊張が抜けないとか、一度怒るとずっと怒鳴られるから辛いとか、あれには名前はないんだろうか。私が小さい種を勝手に倍増させて勝手に苦しんでいるだけなのだろうか、それとも今が辛くてその解釈としてありもしない歴史を作ってしまっているのだろうか。私が社交的で外に救いがあったら全然つらくなかったんだろうか、そしたら責任は私にあるのだろうか。幼少期のつらかったことっていじめられたとか友達とうまくいかないとか他の子とうまく喋れないとかいっぱいあったのに一番記憶が多いのが親のことだから親のことばかり考えてしまう。考えるというよりか自動でバックグラウンドでチリチリ回ってる感じ。ずっと流している。ときどき何かが更新される。
最近で一番しんどかったときに書いたメモを見返した。淡々とした箇条書きが並んでいて面食らってしまった。そのときの強い強い負の勢いを体は覚えているのにそのメモからは微塵も漂ってこない。拍子抜けしてしまった。
どうして躍起になってストレス解消を調べてしまうのだろう。ストレスを感じる前からストレス解消について調べていて罪悪感からそれがストレスになっている。蛇が自分を噛むようなもので本当に不毛。
自分の中で無理だと思ったものを本当に無理にしてしまう怠惰さがあって良くない。いっとき無理と思っても意思で上書きしてやっていくのが普通なのに無理と思ったが最後諦めてしまうようなところがある。
自分の意思みたいなのがないな〜と思う。あれしたいとかこれ食べたいとかはあるけど良い意思、高度な意思がない。持ててない。これはきっと逆で自分の中にあるものは程度が低いという定義が自分の中に存在している。自分を否定しつづける自分がいてその機能のうちの一つである。もちろん自分が程度が低い欲求しか持ててないという事実も事実である。
私に足りないのは知識だから知識をもっと入れないといけない。


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