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私は私で、私以外は私ではない

「関ヶ原合戦は西軍が勝ったはずだ」

かつて東と西、関ヶ原両軍の布陣を見たプロイセンのメッケル大佐はそう言ったという。名参謀の目は間違っていたのか、実際には東軍が勝った。

では、後世の戦略家は関ヶ原軍の東軍を倣って布陣を敷くべきか?

第二次大戦の日本軍や現在の歴史学者たちはそう考えたらしい。

しかし、海上知明氏は言う。そういった態度は「すべての勝利を『戦略が正しかったとしてしまう愚」であると。

現実には、戦いに勝った方が優れた戦略を用いていたとは限らない。1%の確率で勝てる戦い方の1%がたまたまその時だったのかもしれない。

そんなわけだから、過去の戦を分析するときには「勝った側の戦略を正解として正解である理由を後付けする」のではなく、「戦略(理論)はこの合戦に当てはまるのか」と考えなくてはならない。

生き残った者は、生き残った者

海上先生が愚と評した「勝った戦が良い戦略を用いた戦」の説明は、「適者生存」の理屈を思い起こさせる。

適者生存とは「環境に適した者が生き残り、適さなかった者は死に絶えた」という明快な理論だ。

これだけで、人間の行動や社会・自然の進化を説明できるように見える。たしかに、すべて今生き残っているもの(生物・ビジネス・思想)は、環境に上手く適応したものだと言えそうだ。

しかし、この理屈には問題がある。反証不可能なのだ。

つまり、検証する余地がない。

どういうことか。

まず、適者生存をかんたんに言うとこうなる。

生き残ったのは、生き残れるようになっていたからだし、生き残れなかったのは、生き残れないようになっていたからだ。

ついでに冒頭の話にも当てはめるなら「勝った戦いは勝てるようになっていたはずだし、負けた戦いは負けるようになっていたに違いない」となるだろうか。

一目見てばかげたことを言っているのがわかる。

これらは「自明の理」と呼ばれており、反論のしようがない。なぜならトートロジー(同語反復)だからだ。

科学には、実証的観測により反証可能と考えられる命題とそうでない命題が含まれている。反証可能でない命題はトートロジーであり、したがって実証的な内容を持たない。『実証主義を越えて』
トートロジーは意味不明ではないが、意味がなく内容もない。
『善と悪の経済学』

もう一つ例を見てみよう。

人間はみな人間

人はみな罪人であり、誰も他者を裁くことはできない。誰にも(神や運命にしか)悪の責任はなく、すべては許される。

この理屈を考えてみる。

この理屈を素直に受け止めるなら「いずれにしろ俺はもう罪人なんだし、しかも何をしても許されるのだからやりたい放題やろう」と考える人がたくさん現れてもおかしくはない。

とびきり治安が荒れそうだ。

この解釈の問題点の一つは、筋の悪いトートロジーであることだと思う。

人=まったく差異のない絶対的な罪人
とするなら(だからどんな罪も等しく許されると展開される)、「人はみな罪人だ」というのは、要するに「人はみな人だ」と言っているのに等しい。

これはたとえば「未成年の中学生です」「男性で父親です」と言うようなもので、合ってはいるが中身がない。反証不可能な自明の理だ。

ただし、トートロジーだから即無意味かといえばそうではない。「うちはうち、よそはよそ」は、単に自明のことを言っているだけだが、我が子に諦めを持たせるには良いセリフだったりする。

そういう意味で、驕り高ぶる見物人に対して「この中で罪を犯さぬもののみ石を投げよ」と言うのは有効だと思える。ハッとさせ、考える隙間を作り、対話の余地を生むから。

逆に言えば、人の気力を削いだり、考える余地を奪って自暴自棄にさせたりするなら、その同語反復は筋が悪いと言えるのではないか。



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