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中学の頃から遺書に惹かれているので遺書について書きました・・・

ども!りょーやです!
タップしていただきありがとうございます!

タイトルの通り遺書の話をします。
人生最後に書く大切な人一人一人に当てた文章を、僕は最高のものにしたいんだ、聞いてくれ!という独りよがりな話です。

最初の3章は前置きです。そもそも僕にとって書くことがどんなものかを書きました。それ以降から遺書について語り尽くします。

暗い内容ではなく温かい内容になっているので、安心して先へお進みください笑 ※面白がりながら見てくださいね


僕にとって書くことは

中学の時、心療内科の先生に日記を書くのを勧められことから、書きたいことを書きたいように書くことが始まりました。
同じ時期に推理小説にハマりだしていて、自分も推理小説を書こうとノートにいろんなプロットを書き込んでいました。
とにかくプロットだけが増え、学校のお知らせプリントの裏面にぎっしり汚い字を詰めたものが部屋に散乱していました。結局、一つショートショートみたいな作品ができただけだったのが懐かしいです。

あれから時は流れ、二十歳になったわけですが、僕の文章はまだお世辞にもうまいとは言えません。文章は書けるけど、優しい知り合いかすごく優しい誰か以外には読まれないだろうというレベルです。
はまのりさんのライターもさせていただいていますが、まだまだ伸び代を感じています。はまのりさんに初歩的な間違いを指摘させる手間をかけてしまったりしてしまいます。

ただ、そうであったとしても僕は折れずに書き続けることができます。

僕にとって書くことは今日まで続けてしまえたことであり、30年後もニヤニヤしながら続けているんだろうなと思えることなんですね。

もちろん、今の自分の書く力の無さをひしひしと感じることはしょっちゅうあります。最近noteを始めた友人たちの文章に打ちのめされることもしばしばです。

でも、少しずつ書ける量が増えてるのも、読んで感想をもらうことが増えているのも事実です。

少しずつできることは増えているという事実と、30年後もニヤニヤ書き続けているんだろうなという妙にリアルな感覚があるので、今下手かどうかで書くのをやめることはありません。そういう感じです。


僕の我儘

書くことは、僕にとっては我儘です。好きなことをして自分を表現したり、シェアしたいことを説明したりするのが最高に楽しいのです。「誰かの心に届け〜」と思いながら投稿ボタンを押すのが嬉しくてたまりません。

だけれど、文章はまだ拙い。
そんな今みたいな内容でも、受け取ってくれる人が少なからずいます。感想をくれる人もいます。

だからせめて誠実に、読んだ人の中にある優しさや楽しさや賢さの木に水を与えられるようにと願いながら書いています。

拙くても、誰かの心にある優しさを刺激したり笑いを誘ったりする文章があることを僕は知っています。だから、今文章が拙いことで人に見せるのをやめる必要はないと思っています。きっとどこかに受け取ってくれる人がいると思って書き続けたらいいと思います。書き続ければ刃は研がれていくはずです。


どうにか届くように届くようにと綴る

いつもnoteを書いた後で「誰かの心に届け〜、届け〜」「誰かの心に響け〜、響け〜」と念じながら投稿しています。誰か一人でも読んでよかったと思ってくれたら嬉しいけど、直接感想をもらえると昇天しかけます。

そんな気持ちで今日も書いていきます。

最初に言った通り、ここまでの章すべては前置きです。

ここからが本筋で、遺書について書いていきます。
人に向けて書く文章の最終形が遺書です。人生でたった一度しか書くことができず、フィードバックが確実にいただけない手紙です。

そんな遺書を、書くことだけは続けられる僕はどう考え、そしてどんな遺書を残したいのかなど、自分の美学みたいなのを語ってみようかと思います。

誰かの心に届け〜、届け〜
誰かの心に響け〜、響け〜

それでは行ってみよう!


弔辞か遺書か

あなたの葬式で、いったい誰が、どんな弔辞を読むのだろうか?

自己啓発本で、よくこのような問いかけを見かけます。少なくとも『7つの習慣』にあったことは覚えています。

でも、正直僕にはこの問いはあまり響いて来ませんでした。自分の葬式にだれがやってくるとか、そこでどんな弔辞を読むとか、そんなことは気にしても仕方がないと思えるし、死後にまで誰かに何かを期待したりはしていないからです。

高校生の頃くらいから、どんなに考えてみても、この問いかけに自分が納得するような回答を見いだすことはできませんでした。そもそもこの問い自体に違和感を持っていたからです。

今の僕からすれば、これは、問いが逆に思えます。その方がしっくりくる、ということです。未来の僕がどう思うかはわかりませんけど。

死後に自分が何を受け取れるか想像するのは、今の僕の感覚では美しくないと感じてしまいます。自分の美学(のようなもの)として、与える人として死にたいのです。最後まで表現者側でありたいというのもあるかもしれません。

とすると、考えるべきは弔辞ではなく遺書の方なんじゃないか?

これが今回考えるたった一つの問題です。


遺書を書きたい

不思議な感覚、なのかもしれませんが、僕は中学生くらいの頃から遺書に惹かれてきました。僕の中で「遺書」は「遺書!!」と書いた方がしっくりくるような代物です。それくらい興奮します。

だって、自分の大切な人への人生最後の贈り物ですよ?その人の死ぬまでにあった出来事とか想いが凝縮されたもんだと思うんです。興奮しませんか?

ちょっと落ち着きます。

僕には、あまり物とか地位への執着がありません。大学も納得するならやめてもいいかなと思ってます。ほしいものはぼんやりとしていて、体を動かすのが億劫です。

自分がこの社会で生きていくにはあまりに考えが甘くて、脆いこともわかっています。あまりに不器用なことも。大学生になっても、バイトの一つもろくにできやしないし、気分にムラがあって、いろんなことをいいタイミングでよく台無しにしてきました。

本を読んだり、文章を書いたりするのは心を落ち着ける行為だし、楽しいものなのですが、本当には自分が何を書きたいのかずっと分からずにいました。

直感的に心を許せると分かる人達との関係性を育むことも大好きで大切な時間だけれど、同時に時折そのことについて虚無感を感じたりもしていました。
時々どうしようもなく胸が苦しくなるんです。

でも、その苦しさは捉えてる世界が狭いからなんじゃないかと考えたんです。もっと長期的に、視野を広げたほうが充実できるんじゃないかと思っています。

どんな遺書を残して死ぬかを軸に生き方を考えると、僕はすごく生きやすいと感じるんです。


本のような遺書を書きたい

どんな遺書を残すか考えるとワクワクします。
だって、遺言ほど人の心をつかむ形態のメッセージがあるでしょうか?

遺言と言ったって財産分与の話を書くわけじゃないですよ。そんな財産は今の所ないですし。
そうではなく、いわば人生最後の手紙としての遺書です。若くして死ぬ父が息子に残す手紙やビデオレターみたいなイメージです。

大切な人からの人生最後の贈り物。

話し手や書き手がプロでなくても、最後のメッセージは必ず人の心に届きます。一生に渡って何度も読んでもらえるかもしれません。そんな幸せなことってあるでしょうか?

あなたが生きている間にもっとも大切にしてきた人たちが、心で受け取ってくれる一世一代のメッセージです。

あなたは、どんな最後のメッセージを残して死にたいですか?

僕は、本のような遺書を残したいです。心で受け取ってもらえる可能性が高いからこそ、読んだ相手の人生を豊かにするような、想いがたっぷり詰め込まれた少し長めの遺書を残したいんです。

好きが高じて、誰かが僕の遺書を題材に書いた文章まで考えてみたので、まえがきだけちょっと読んでやってください。


僕の遺書を題材にした誰かの文章のまえがき

二十歳の誕生日を迎える一週間前、彼は自分の価値観の軸を見つけた。
それは、遺書を書くことを想定してこそ体現できるものだった。
だから彼は遺書を残した。遺書を書くことを中心に生活をした。他の人から見れば、おかしな趣味だったかもしれない。自己紹介で「趣味は遺書を書くことです」と述べなかったのは賢明だったと思う。

数十年をかけて練り上げられた彼のたくさんの遺書は、多くの人を笑わせたし、泣かせた。誰であろうと、彼から遺書を受け取った者はそれを一生の宝物とし、人生の節目ごとにこれを読み返した。

その多大なる影響を本人が目の当たりにすることがないのは少しばかり残念なことだが、贈り物の主というものは得てして受け取ってもらえるまでが至福なのである。
死後受け取られるであろう、まさに魂を込めた贈り物を日々準備しながら、彼は幸せだったのに違いない。
というのも、実はこれは僕の空想の話というだけではないのだ。
彼の死後、僕宛に数冊のノートが届いた。中身は彼の直筆だった。思わず笑ってしまった。表紙に独り言と書いてある。僕に送る予定だったくせに。
これの意味するところはもちろん、僕に伝記を書けというメッセージなのだろう。そう受け取ることにした。生前にさりげなく頼まれていたことでもある。冗談言うなよと返事したのだがまさか真剣だったとはね。

僕は、彼の仰せの通りにすることにした。幸い生活に余裕はあるし、何よりこのミッションをやり遂げずには死ねないと思えるものだからだ。私の誇るべき仕事になるだろう。

彼は、誰より人に惜しみなく与えることのできる人だった。彼に言わせれば、もっと気持ちよく遺書を書くため、最高の遺書として相手に届けるため、生前の見返りをほとんど気にしていなかったのだ。
あなたも一年後に死ぬと宣告されて、遺書を書こうと意識し出せば彼の気持ちがわかるかもしれない。いや、わからないかもしれない・・・

彼の記録を元に、僕は彼の真の人生を描写しようと思う。これは、遺書を書く男の物語だ。


何処かで報われた気がして過ごせています

僕の遺書への情熱、あるいは我儘っぷりは伝わったでしょうか?笑

本当にこんなことになるかはともかく、これくらい人に力や希望やエンタメを与えることができる文章を残したいという感じです。そういう文章を残せるような人生を送りたいという方が近いかもしれません。

もちろん、どんなに空想したところで死んだらそれを見たり感じたりできません。でもそれでいいんですよね。いつか遠くで、人から人へと渡った自分のメッセージを誰かが受け取って「これは私に当てられたものだ」と勘違いしてくれて、その誰かがちょっと豊かに生きられたらいいと思います。

そんな空想を広げて「届け〜」という願いとともに誰かに書いたり話せたりするだけで、もう報われているように感じられます。

というのは少しだけ嘘で、やっぱり生きられる分くらいには(金銭的な面とか、精神的な面で)生きているうちに報われたらいいなとも思います。

いつか誰かに届く空想だけで報われたように思えるなら、生きている間恩着せがましくならず人に与え続けることができます。僕はゆっくりゆっくりと人が変わるのを優しく眺めていられるような人になりたいんです。

僕のこのような気持ちについてなかなか共感してもらえないので、どうにか解像度高く言語化してみます。与えることの話からさせてください。


勘違いと空想の成せる技

与えるという行為は、無からは発生しません。何かを受け取ったと感じた者が開始するのが与えるという行為だからです。

受け取ったというのは勘違いのこともあるし、受け取ったのが何十年も前ということもあるかもしれません。それはあまり問題ではないです。

たとえば僕は、書いたり考えたり歩いたりできることについて、無条件に、不当に与えられたという感覚がけっこうリアルにあります。これが受け取りの感覚です。
とはいえ、実際にはこれは別に誰かから与えられたというわけではないかもしれません。
でもそう実感できることで僕は幸せに過ごせるし、人に何か与えようと純粋に思えることが増えているからいいんです。それが正しいかはともかく、楽しいし、豊かだと感じます。(同時に人生の無意味さや偶然性も承知しています)

このように考えると、誰でも受け取り手になれます。勘違い力の問題です。
大いに勘違いして、想像をたくましくして、何かを受け取ったことを自覚できる人が増えた方がむしろ温かい社会になるんだと思っています。

そして、受け取った自覚から人に与えることができれば、与え手は余裕を持てると思います。子育てはそういう感覚なのかな。子育てしながら自分も昔いろんな人に細かいところで支えられてきたのかなと気づいて、それで子どもに無償で与えることができる、みたいな。
受け取りの感覚から与える時は余裕があるので、大いに空想を広げて、すごく遠いところで、遠い未来に、誰かが受け取ったと感じることを空想して満足できるようになり、恩着せがましくならずに済むでしょう。

こういう考えの延長として、僕の感覚では、弔辞から想定するのは与える人のやり方ではないと捉えています。なんとなく伝わるでしょうか。

あくまで僕が、弔辞から考えると純粋に与えたい感覚を下げてしまう感じがするってだけです。


俺の財宝か? 欲しけりゃくれてやるぜ

もう我儘極まりないですが、ここまで目を通している知り合いはいないと踏んで、お節介な妄想を続けます。(少なくとも友人たちはみなテスト期間なはず)

最高の遺書を書くために僕はどう生きるのか!

さっきは書きませんでしたが、僕は残すなら読んだ人が宝探しに出られるような遺書にしたいんです。そのために僕はこの人生を通して宝を埋めてくる、そんな妄想をしています。

どういうことかというと・・・


遺書の中に
「僕には〇〇という友人がいてね、彼は・・・な人なんだ。もしよければ君に会ってみてほしいな」とか
「僕が生涯読んできた本のなかで君にも読んでみてほしい本がたった一冊ある。ちょっと読みにくいかもしれないけど・・・」とか
「君がもし望むなら僕の2025〜2026年の雑記帳をもらってくれないか?字は汚いけど、もしかしたら君の力になるかもしれない」とか
「君がいつか孫にプレゼントする物語を書いたんだ。よければもらってくれ。主人公は君にしてある」とか
「もし余裕があって面白がれそうならでいい、僕の代わりに僕のフリしてnoteを書いてくれないか?」とか

そんなことを書いておきたいんです。これが「宝」です。
で、その宝という名のお節介を「はいはい」と受け取ってくれた人同士がつながったり、稼げたり、何かを生み出したりして、そっから面白い話が紡がれて、さらにそのストーリーが自分の知らない誰かに伝わっていく・・・これを考えるのがたまらないんですよね。

最高の遺書を書くために僕はどう生きるのか?

に対する答えは当然、遺書に埋め込む宝をなるべく素敵なものにするよう生きる、です。具体的にどんなことをするかまでは書かないでおきます。僕がどんな宝を人生に埋めてきたかも、宝探しとしてエンタメになったらいいなと思うからです。ガンジーくらいわかりやすく宝を残せたらもっといいかもしれませんけど。

俺の財宝か? 欲しけりゃくれてやるぜ…… 探してみろ この世の全てをそこに置いてきた。       “海賊王・ゴールド・ロジャー”


おしまいに

今日の話は僕の思ってることの純度が高かったかと思います。本や事実を根拠に話していない分、あまりに幼稚だったりずれていたりしてやいないかとめちゃめちゃ怖いです笑

ただ、今の僕がだいたいこのように考えて充実しているのも事実だし、どうせ少しずつ考え方も変わりながら30年後にも何かわがままなことを書いていると思うので大丈夫です(何が大丈夫なんだ?)。

いずれにしろ、僕は読者のみなさんに対して誠実にこの記事を書いていることを疑っていません。

「誰かの心に届け〜、届け〜」「誰かの心に響け〜、響け〜」と願いながら今日も投稿しようと思います。

ではでは〜

今回も最後までお付き合いいただきありがとうございました!!


追記

最近長文の記事が多いですが、実は長文のものほど下書きをしていたり、事前に何人かに話していることなのでオススメしやすいです。

そういえば、自分的にも気に入っていて読者の方からもスキ率の高い記事をまとめましたのでよければどうぞ。



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