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甲斐宗摂 其の2

主君である三田井親武を討った不忠者である甲斐宗摂。

いろいろな説があるが、「高千穂治乱記」には

「もしそなたが協力してくれたら、私が太閤殿下に御とりなししましょう」

と言い、利を求め元種の策に同意した。

宗摂は三田井家の中でも重臣であり、城の中も知り尽くしている。

夜中に三田井親武公の御寝所へ忍び込み、手槍にて一突き、御首を討った。その後火を放ち、「三田井親武が首、高橋が軍兵討ち取ったり」と呼ばわった。

三田井家家臣有藤玄蕃頭信久も奮戦するも討ち死にした。享年28歳であった。今もその子孫は河内におられる。

親武の子、重信が三田井家を継ぐこととなった。

高千穂領民に対し、三田井家を廃絶することはどんな影響を与えてしまうか計り知れず、元種は断絶する処置は取らなかった。

しかし、その4年後「主君を裏切るものは、またいつ裏切るか分からない」とされ、宗摂が今度は元種より攻められることとなる。

いくら主君を裏切ったとはいえ、領内に旧勢力も残っており、いつ自分が攻められるか心配したうえでのことであろうが、記録は残されておらず事実は分からない。

元種方の指揮者は同じ甲斐氏で重経という人の子孫で水清谷四郎という。

居城は日之影町にある中崎城。

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宗摂方の甲斐又蔵は水清谷四郎を射止めるなど、奮戦するも支えきれず、鶴の平で死去した。

この場所(鶴の平)には恩恵を受けた里人がその死を偲び、五輪塔を建て経塚とした。

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また、大人へその亡骸を持ち帰り、埋葬したと伝えられる。

大人神社のすぐ近くに地蔵堂があり、宗摂の一族の墓ではないかと思われる石塔がいくつも並んでいて、甲斐一族の繁栄を知ることができる。

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いかに里から大切に慕われていたのかが、大人神社に合祀されたことや、歌舞伎が残されていることからも想像できる。

ところで、近くに「おひや様」という宗摂の奥方の墓地がある。

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土地の人はおひや様というが、「お部屋様」の転訛ではないかと西川功氏の著者には書かれている。

余談だが、宗摂は始め諸塚村の家代に居住しており、そこの平田組というところの女の所に通っており、この女に与えた田を『化粧田』と言い、中間に与えた田を『茶田』と言い、今でも残っているという。大人に移ってからも追川の尾平というところに、『梅が枝』という女を置いて峠を越していたということで、ある時梅が枝が所用にて大人へ来た帰り、家来に弓で射させたところ、一の矢は右手で受け止め、二の矢は左手で、三の矢は口で受けたが、四の矢で射止められてしまったとあう伝説があり、梅が枝の墓地もあり、女性の恐さを思い知らされるのであった。

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ここは諸塚村家代にある玉鳳山金鶏寺。

宗摂は天正8年(1580)東蔵寺を創建。文禄元年(1592)に金鶏寺とし、笈櫃や仏像を納めている。

笈櫃は写真はないが今でも保存されていた。


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依然まとめた同時期の強かった武将甲斐秋政にも書いたが、この写真の向かって右側『當寺開闢江月院殿大清宗説大居士』と書かれている位牌がある。

宗摂は秋政を弔う為に開基したという説もあり、この笈の金メッキ金具に金の鶏がつけてあった為に『金鶏寺』と命名したと言われている。

宗摂は入道名であり、笈とは経典などを入れる箱のことからも、鶴の平にある経塚はその経典を土中に埋めたということにもつながってくる。

修験者のような恰好をしていたのだろう。

さて、主君を裏切った不忠者でありながらも、土地の人に伝わっている話は別である。

元種は宗摂を勧誘する際、「この大事な話をしたからには、お前が同意しなければお前の領民を皆殺しにしたうえで三田井に進撃する」と脅迫したという。

宗摂は迷った末、裏切る道を取ったという。

いかに里人といい関係が築かれていたか。

宗摂が行った政策で大きなものとして。

1、主井出(おもいで)という用水を開削し、開田を奨励した。

2、高千穂神社の祭りの中で鬼八の霊を鎮める為に人身御供を行っていたものを廃し、ししかけ祭りとして猪に変えた。

など、大きな改革も行なったようだ。

ここからは私の勝手な考察になるが、まずは三田井氏を裏切ったという点に関して。

宗摂は大友と島津の争いの中、大友方から島津方に乗り換えた事も考慮すると、この時代地主階級の将としてどちらにつくかによって、自分たちが生き延びるか、其の判断が大事だった時代、宗摂としては元種方に寝返る事も仕方のない事だったのだと思う。

人身御供も、一説には天正年間に宗摂の娘がその役になってしまった為に廃止したという説もあるほどで、この人身御供とは少し前に書いた『采女』制度が未だにあったのだと思われる。


三田井氏は三毛入野命の子孫としての誇りもあり、神域でもあり、まさか責められるとは思っていなかったと思われる。現に戦国の世においても、周りは攻め滅ぼされる中、高千穂は攻められる話はないと思われる。(もしかしたらあるのかもしれないが)

その中で、采女制度をまだ続けていた三田井氏。

侍女として、奉仕させていたのではないかと考える。

人身御供が天正年間まで続いているとは考え難いし、阿蘇の火焚き神事のように女の子が奉仕する為に選ばれていたのだと考えるからだ。

その代々続いていた風習を廃止した宗摂は三田井氏に対しても少しずつ不信感を抱いていたという事も、無きにしも非ずではないだろうか?

確執が少なからずあり、元種から攻められるとあれば、大切な領民をとったという事も納得できる。

三田井氏は子孫が滅んだのに対し、宗摂の子孫は森田氏として今もいるという事も里人との関係性を知ることができる。

なお、元種の支配下になった後も臣従する者と反抗する者があったが、元種も幕府に罪を得て移封されることとなった。

そのため、殆どが百姓になって各地に住み着いたという。これが現在の高千穂地方の甲斐氏であると言われている。元種の次に延岡藩に来たのが有馬氏で越後へ移る際、有馬氏と共に越後は行った甲斐氏もいるようで、新潟県にも高千穂系の甲斐氏がいるとのことである。

最後に、前回書いた中に出てくる甲斐宗運。

その息子は甲斐宗立。

宗立は戦に敗れ、嘉島町に逃げてきたところ、追手の捜索が厳しい中、この里人は罪を恐れず匿ったということから、「私が死んでもその魂はいつまでも其方たちを救いましょう」と言い、この地に亡くなった。今は足手荒神として父宗運とともにお祭りされている。

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さて、この宗立と宗摂は兄弟という説もあり、甲斐宗運の義のためなら親族でも殺すほどの父であったのと対照的に、子供たちは里人達とも優しくされる、そんな優しい人物だったのかもしれないという思いに締め括らせて頂こうと思う。

【参考文献】

甲斐党戦記 荒木栄司著 1999年 第2刷

高千穂太平記 増補版 西川功著 1987年発行

高千穂村々探訪 甲斐畩常著 1992年発行

伝承あまのいわと 伝承天の岩戸編さん委員会発行 1989年発行

まんがのべおかの歴史物語 漫画しいやみつのり 企画監修延岡史談会 2020年発行

郷土の自然と文化財 日之影町文化財調査委員会発行 1983年発行

日之影町史 四 資料編2 村の歴史 日之影町編集発行 1999年発行

采女 献上された豪族の娘たち 門脇禎ニ著 昭和49年版

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