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かのえさる

道端に石で出来た塚が建っているのをよく見かける。


そこには庚申塚とか、猿田彦と書かれているものや、鬼の上に立つ青面金剛像がある。


そもそも、庚申とは何なのか?

1年1年干支があるのはご存知の事と思う。

干支は2種類の要素から構成されている。

その一つが十干。

十干は中国の陰陽道の木、火、土、金、水の五行説に基づき、更にこの五気に優勢に分けられる。

剛強な方を兄、劣勢を弟とする。

つまり、木の兄は甲(きのえ)、木の弟は乙(きのと)となる。

兄は【え】、弟は【と】と考えると分かりやすい。

次は火の兄で丙(ひのえ)、弟は丁(ひのと)。

土の兄は戊(つちのえ)、弟は己(つちのと)。

金の兄は庚(かのえ)、弟は辛(かのと)。

水の兄は壬(みずのえ)、弟は癸(みずのと)となる。

これに順番に干支をくっつけていく。

甲子(きのえね)、乙丑(きのとうし)…とつづく。

庚申というのは、(かのえさる)という事になる。

これは60でひと回り。

日数で60日、年数で60年。

還暦が60というのは、また再び生まれ変わるという意味から赤いチャンチャンコを着るという習慣である。

この庚申日に人間が生まれると同時にその体内に入ると信じられている3匹の虫、三尸(さんし)『三彭』と言われる彭琚(ほうきょ)、彭質(ほうしつ)、彭矯(ほうきょう)が、当人が寝ている間に上天し、天帝にその人の行状を上告し、その内容が如何によって、寿命が縮められる事もあることから、警戒すべき日として古くから徹宵の風習が継承されてきた。

これが、守庚申とか、庚申待、庚申講などと言われた行事の所以である。

三田井地区、浅ヶ部集落の山川(やまごう)にある庚申塚。

ここでは旧暦の10月14日の夜に朝までお日待ちの行事がある。

庚申信仰は平安朝期においては、主に宮中、宮廷貴族間で守庚申が行われていた。

鎌倉時代には、「吾妻鏡」に行われていたことが記されている。

宮崎においては、最も古い文献は島津義久の老中職だった上井覚兼日記である。

天正5年(1577年)に行われたと記されている。

高千穂では、万治3年(1660年)の向山庄屋の矢野源左エ門の書いたものや、田原正念寺の天明4年(1784年)、慶應2年(1866年)の押方清兵衛が記した記録が残されている。

岩戸黒原地区

岩戸大猿渡地区

岩戸五ヶ村地区

上野柚木野地区

日之影町波瀬地区


守庚申は年に6回。

これを3年計18回行った記念に塔を造立される事が多い。

庚申塚は青面金剛像が本体であるが、″かのえさる〃の日を供養、守庚申をすることから、猿田彦大神を庚猿の権現の姿として塚としたものが多い。

田原、北地区

諸塚村七つ山地区

三面六臂(ろっぴ)高千穂では一面、三面の六臂が多い。

その怖い形相で悪魔を威嚇し、救済することを目的としている。

〃身は青色で四臂または二臂・六臂に造り、目は赤くて三眼、頭髪は火のようにさかだち、身には蛇をまとい、足下には二匹の鬼を踏みつけた怒りの形相をとる。日本では道教の説と結びついて、青面金剛の法は伝尸(でんし)病を除く法で、この伝尸を体内の三尸虫(さんしちゅう)とするところから、庚申の本尊としてまつられるが、庚申には帝釈天を本尊とすることもあり、見ざる、言わざる、聞かざるの三猿神も本尊とされる。〃

※日本国語大辞典より

今日は庚申の日

普段気にも止めない庚申塚等を気にしてみるのもいいかもしれない。

参考文献

田中茂著  宮崎の庚申塔
甲斐畩常著 高千穂村々探訪

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