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「理解」は最大級の安心材料

妊娠中、周囲の人々に育児はもちろん大変だけれど生後3ヶ月を過ぎた頃から楽になってくるという話をよく耳にした。しかし、実際のところ生後3〜4ヶ月はワタシにとって苦行でしかなかったように思う。新生児期は実家に帰省していたこともあり、割とのびのび生活を送れたし、正直なところ我が子に対して「かわいい」という感情が明確には見えてこなかった。多分、これは可愛い?という気持ちで合っているのだろうかと、疑問ばかりが頭の中をぐるぐる巡る。あまりにも小さくてか細い赤子に対して、かわいいという感情よりも守らなければならない存在という義務感が大きく押し寄せていた。

生後2〜3ヶ月を向けた頃、もちろん少しずつ育児には慣れてつつあった。しかし、日々成長を遂げる赤子は徐々に意思を持ち始め、その対応に戸惑うことが度々増える。4ヶ月を迎える頃には夜中に起こされることも増え、寝不足も相まって気持ちの余裕が少しずつ削がれていく。両手で数え切れないほどには『育児向いていないんじゃないか?』と感じることも。生後3ヶ月ころには育児が楽になるという魔法の言葉は、もはや恐怖でしかなかった。その頃は赤子の笑顔を伺える機会も少なかったためか、怒る、泣く、真顔、などを繰り返す我が子に戸惑うばかり。どこかに逃げてしまいとさえ感じることもあったように思う。

そして、あと2日で迎えるハーフバースデー。赤子はこの世に生を受けて半年の月日を迎えようとしている。いつだって目まぐるしく成長を遂げる赤子は、たった1〜2ヶ月の間にいろんな表情を見せてくれるように。怪訝な顔、不安な顔、悲しい顔、怒った顔、恥ずかしい顔、びっくりした嬉しい顔、まるで万華鏡を覗いているかのようにコロコロと変わる表情たち。それらを見届ける中で、少しずつ赤子が何を要求しているのか理解できるようになってきた。言葉が話せいないぶん、その自己表現はまだまだ至らない点もたくさんあるけれど、少しずつ子の意思表示を汲み取ることができたことによって視界がクリアになってくる。人間にとって『わからない』という状況は一種の恐怖に近い。育児においてこうした状況は常にぴったりと寄り添ってくるもので、その結果恐怖から逃れるための術として苛立ちを感じることも0ではない。いまとなっては、1〜2ヶ月前よりもずっと『わかる』ことが増えてたので不安や恐怖も少しずつ取り除かれており、鈴を転がすように笑う赤子を心の底から愛おしいと思える。守りたいと愛しいが本当の意味で共存に成功したような。

遠くから名前を呼べば、母であるワタシの姿を探してじーっとつぶらな瞳で見つめたあと、目がなくなってしまうくらいクシャクシャの笑顔を見せてくれる。夜もまとまって眠る時間が増え、睡眠時間もある程度確保できるようになってきた。昼間は眠くなると多少グズグズしはじめるものの、ナチューのベビージムへ移動させると一人でいつの間にか寝ている。5ヶ月過ぎたころからは離乳食もはじまり、ワタシたちと同じものを食べられるようになった。はじめのうちは慣れない離乳食にお互い戸惑っていたけれど、徐々に自ら口を開けて食べてくれるようになってきてる。これまでよりもずっと瑞々しく成長を遂げる赤子は、24時間365日一緒にいるはずなのに、そのスピードに追いつけないほど変化を遂げ。昨日と今日、たった数時間・数秒、一瞬一瞬でさえ彼女たちはいろんなものを吸収し続けてる。ワタシが赤子の気持ちをわかってきのと同じように、赤子もまたいろんなものがどんどん鮮明になってわかってきているのだろうな…。

こうした背景の積み重ねを経て、ワタシはやっと赤子のことを心底可愛いと感じることができる。


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先日、久しぶりに独身時代から繋がりのある友人と会ってきた。彼女は3歳の娘を育てるいわば母の先輩だ。育児経験者であり、独身時代の過去を知っている人間と話すのはとても楽しくて、瑞々しい刺激をたくさんもらえた。ワタシはいつだって他者に与えてもらってばかりで、同時に何もできない自分を不甲斐なく感じることも。

彼女と会った時間の中には、モヤモヤした自分の気持ちが腑に落ちるような発見がたくさんあった。ワタシの育児は「一人目だからこそ丁寧に育てたい」という意思が根強くある反面、気張ってしまうあまりに自身や子への比重を感じることが多い。どこかで『丁寧に育てる=手を掛ける、過干渉になる』という一面もあり、その結果自分が思うように物事が進まないと打ち砕かれたように疲弊してしまうことも。一生懸命やることは決して悪いことじゃないはずなのに、その中には親自身の都合を幼き子に押し付けている部分が0ではなくて。育児をしていく上で一番大切なのは、親も子も双方がストレスフリーでいられること。そのためには、手を抜くことも時には必要だと気付かされた。頑張っている自分はもちろん可愛いけれど、無理をするあまりにイライラが募ってはそれこそ本末転倒だろう。先日あった友人との時間で、やっと気付かされることができた。子どもが成長する力を見守ることも親としての大きな役目の一つ。ただ、思わず手を出してしまいたくなるときもあって、どう折り合いをつけながら見届けるかは一種の課題だ。

同じく乳児を育てる母と繋がりがために、出来心でママ垢なるツイッターのアカウントを作成した。しかし、そこに広がっていた世界は一人目育児に気合を入れて奮闘する母親たちの姿ばかりで、果たして自分はいまのままで大丈夫なのだろうか?と不安に感じることもたくさんあった。世の中の親はこんなにも子のために誠心誠意を込めて育児に奮闘する一方、ワタシは頑張らない育児を目標にしている始末。でも、子育てにおいて「正解・不正解」なんてものは存在。多分、手を掛けれるほどにいい子が育つわけでもなくて、親自身はどうしたいのか?子ども自身はどうありたいのか?など、お互いの意思を尊重しながらやりたいようにやるのが一番なんじゃないかと思えた。

どちらかというと自分はあまりきちんとしていない質で。しっかりとした親の管理化で育児をしている人を見ると、特にこだわりを持たずに子と接している自分は『母親失格』なのではないか?と不安になることがあった。でも、友人の言葉にあったとおり、上をみればキリはないだろう。ワタシの性格上、きちんとすることに執着しすぎてしうまうため、多少は抜きどころを見つけないと自分が崩壊する。そうなれば自ずと、赤子に対してもいい影響を及ぼさないことは確かだ。そもそも、何を基準として「きちんと」すればよいのだろう?その曖昧さに揺さぶられてるがあまり、子を愛することを疎かにしては元も子もない。だったら手を抜けるところは抜いて、その分の余力でたくさんの愛情を注いであげたいと思う。自分のこだわりをぶつけても、赤子には赤子の都合がある。お互いに一人の人間であることを忘れず、無理のない程度に自分がしたいように子育てをしていこう、と改めて確信させられた1日だった。

気張らなくても大丈夫、きっと君は一人でも大きくなれる、ワタシはそのお手伝いをさせてほしい。人間一人きりでは生きていけないものだから、どんなときでも貴女にはワタシという存在がいることを頭の片隅に置いてもらえるような、そんな丁度いい距離感で我が子を向き合っていきたい。

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