書くことと〈文体〉1 大江健三郎

文芸において私がもっとも関心を寄せるのは〈文体〉です。〈文体〉という言葉には通常いくつかの用法がありますが、私はここで〈文体〉という言葉を作者の私的な記憶と公的な言語空間との接合面、あるいは、その上で文芸活動が展開される平面という意味で用いています。内容以上に配慮すべきはその形式、〈文体〉であるということをつねづね思います。なぜなら、いかなる言語的活動も〈文体〉なしにはありえないからです。〈文体〉の選別から文芸活動がはじまります。(自分でも自覚してはいますが、この意見はやや形式偏重かもしれません。)

私にとって衝撃的だった最初の〈文体〉は大江健三郎のそれでした。はじめて『飼育』を読んだとき、その日本語に異様さを感じました。美しい日本語、平易な日本語、気どった日本語、……、そういうものを感じることはあるとしても、日本語に異様さを感じたことはそれまでにありませんでした。大江健三郎が実存主義(とりわけサルトル)から思想にもヨーロッパ諸語の翻訳調にも影響を受けているということを聞いたことがあります。大江健三郎の〈文体〉の喚起した異様さをいま考えるに、まずは修飾の長さが挙げられるでしょう。ヨーロッパ諸語の関係詞による修飾のように、一つの語にそれを説明する長い修飾がつけられます。

「僕と弟は、谷底の仮設火葬場、潅木の茂みを伐り開いて浅く土を掘りおこしただけの簡潔な火葬場の、脂と灰の臭う柔らかい表面を木片でかきまわしていた。」
大江健三郎『飼育』冒頭

驚くべきことに、これだけの情報を伝えつつも内容はすべて単文に収められています。「僕と弟は、谷底の仮設火葬場の表面を木片でかきまわしていた。」という文の骨格に豊かな装飾がつけられています。私ははじめてこれを読んだとき魔法にかかったように夢中になりました。それは、いわゆる美文でもなく平易でもないこの〈文体〉がまだ知られていない日本語の平面を織りなしていたからです。概して日本語は連用中止法が頻発します。連用中止法が使いやすくそれによっていくらでも文章を滑らかに続けられるからでしょう。(余談ですが、連用中止法の名手は太宰治ではないかと思います。)しかし、大江健三郎の〈文体〉はたいていこの日本語的感覚を逸脱しています。それだからこそ大江健三郎の修飾の長い単文は、人工的な、革命的な、新しい日本語の感覚を私に与えてくれました。また、この体験が〈文体〉というものを意識する契機にもなりました。

今回は大江健三郎とその文体について書きました。ところで、芥川龍之介も大江健三郎に並んで〈文体〉の特異な作家であるように思います。次回は気が向いたら芥川龍之介の〈文体〉についてなにか書きます。

(橘さつき)

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