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ストーナー ジョン・ウイリアムズ

職場で定年退職する人が皆の前で挨拶をする。ありがとうございました。お世話になりましたと。心ばかりの拍手が送られて、花束を渡され、机を片付けて職場を去る。
あなたはその人にたくさんお世話になったし、いい思い出もたくさんある。しばらく感傷に浸り、また仕事を再開する。その人がいなくなって、あなたはしばらく仕事をうまく回す事ができず、その存在が大きかったことを知る。
しかししばらく経つと、仕事は上手く回るようになる。新しい社員の充填があったのかも知れないし、あなたがそもそもその仕事にうまく馴染んだのかも知れない。いずれにせよ、忙しい毎日を過ごす中で、あなたはだんだんその人の事を、思い出さなくなってゆく。

何を期待していたのか、ともう一度問う。

『ストーナー』はミズーリ大学に勤める一サラリーマンの物語である。
もともとストーナーはミズーリ大の農学専攻の学生だったが、アーチャー・スローンという師に導かれ文学者を志す。そこで友を得、職を得、妻を得る。それだけ聞くと順風満帆な人生に聞こえるが、万人の人生と同様、蓋を開けてじっくり見ればうまくいかないことだらけ、挫折と妥協の総合商社であった。

例えば同僚の一人は最後まで敵だった。明らかに相手が悪いのに、筋を通そうとしたストーナーは結局惨めに敗北することになった。そこにヒーローはいない。悪いことをしてる奴がそれにより罰せられる事はないし、いい行いをしたからと言って、報われるわけではない。

私生活でもそうだった。心から愛したかった妻とのドラマチックな愛は存在せず、諦めと疲労ばかりがあった。子供とは唯一分かり合える気配があったが、結局その関係も妻によって台無しにされた。ストーナーはいっときのアバンチュールを経験するが、それも社会に許されることはなかった。



これを読んだ者は戦慄するだろう。これはストーナーの人生であり、同時にあなたの人生でもあるからだ。性悪な同僚が成敗されることなく平然と出世してゆき、あなたがいい行いをしたからと言って、特に報われるわけでもない。妻と合わなくたって、なんとか折り合いをつけて一緒に生きていくしかない。『ストーナー』に半沢直樹は存在しない。胸のすくような展開や、どんでん返し、ディズニー的なラブストーリーは存在しない。ストーナーは文学的探究と教育に心血を注いだが(実績も相当残したが)、退官した後ストーナーの事をはっきり記憶している人はいない。ストーナーは死の間際、自分が書いた本を手に取り眺めるも、自分が書いた事を理解することができない。

冒頭に定年退職について言及した。あなたは定年退職した上司や同僚の事をどれだけ記憶しているだろうか。大事なのは、いつかあなたも定年退職し、多くの者から忘れ去られるという事実である。そしていつか死ぬ時、あなたが今心血を注いでいる仕事の内容は理解できないものとなっている。

末期のストーナーはベッドの上で人生について回想する。友人や仕事、家族や愛人について。そこで得られた物はなんだったのか。ほかには?ほかには何もなかったのか。自分は人生に何を期待していたのか。
ジョン・ウイリアムズが淡々とした筆致で連ねる物語は、ストーナーと共に、読んでいる者をこれでもか、これでもかとグサグサ刺し貫ぬいてゆく。