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NVCとキリスト教(5つのyoutube素材をもとに)④

第1章 RadioActive Radio extra 05「非暴力コミュニケーション~つながりを取り戻す」を聞く(後編)

 このyoutube動画(音声)からNVC(非暴力コミュニケーション)を学びながらキリスト教的な解説をしています。

■社会システムの中、従順に生きるのか(38分40秒~54分10秒)

「長いこと考えてきたのだが、破壊するためのテクニックがますます向上し、いつの日かついに人類が地上から姿を消すことになったとしたら、わたしたちの消滅は、非情さが招いた結果ではないはずだ。そしてまた、非情さが引き起こした憤慨や報復のせいでもなく、それに対する報復のせいでもない……それよりも、現代人の従順さ、責任感の欠如、あらゆるつまらない決まりをたいていはおとなしく受け入れるところに原因があるのだ。わたしたちがこれまでに見た恐ろしい出来事、もうまもなく目の当たりにするであろうさらに恐ろしい出来事は、世界中で反逆者が増えているからでも、反抗的で扱いにくい人々が増えているからでもなく、従順で御しやすい人間が着実に増えているしるしなのだ」(マーシャル・B・ローゼンバーグ著『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』日本経済新聞社、50頁)

 上述が、安納献さんがNVCの本の冒頭に書かれていると紹介しているフランス人の詩です。たとえるなら、いじめっ子といじめられっ子がいるだけでは陰湿ないじめは基本的には成立しないということに近いのかもしれません。いじめっ子がしていることを現場にいる大半が傍観したり、そのいじめの流れに従順であることがいじめを継続させ、悪化させる、ということだと思います。

 ナチスのヒトラーの存在自体が危険だし問題と言うこともできますが、ヒトラーに従順な人が誰一人いなければ、ユダヤ人の大量虐殺も行われませんでした。核兵器が存在すること自体が危機的かもしれませんが、そのことを問題視せずに従順であることのほうが危険だというわけです。

 ヒトラーの部下アイヒマンも含めナチスの軍人たちに対し大量殺戮させることについて「大変なことをしている」と意識させないまま実行させる…それは従順の産物であることを告げます。このラジオが伝えるように、そうした従順を学校や家庭や政府が強いているんじゃないか、社会人という言葉そのものがそういう従順を背負わされているのかもしれません。

 キリスト教会において、従順は大切なこととして解かれます。使徒パウロも「わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。」ローマ1・6と書いているくらいですから。

 ただ改めて考えたいのは旧約聖書において神が立てた王であっても、貧富の差を拡大させたり、弱者の人権が軽んじられたりすると、「神の律法を大切にしていない!」と預言者は身の危険を顧みず王を糾弾するのです。信仰の従順とは王や上司の言いなりになることではありません。社会システムに無批判に従うことではありません。隣人愛がなければ、おかしいと思うことを告げる…それが神に対する従順なのです。いじめられっ子がいていじめられている現実を傍観する従順ではなく、そのいじめをなくそうと努力することが神に対する従順、信仰の従順と言えます。

 アルノ・グリューン著『従順という心の病 私たちはすでに従順になっている』はこの問題について取り扱っています。

■NVCの伝わりにくさ、伝わりやすさ(54分11秒~56分33秒) 

 「トルコに行かないとトルコの文化風習はわからない。聴いただけではわからないように、NVCや非暴力運動の世界はそこに入らない限りわからない」

「すごく仲が悪くてケンカしていたのに、仲直りしたこともあるはずで、NVCの世界は体験済み」

 というある意味、NVCの「伝わりにくさ」と「伝わりやすさ」の両方が語られています。私自身、NVCを学びながら、この両方を感じてきました。なので一つ言えるのは、NVCは文章だけで知るのでなく、実際にNVCを実践している人に触れて体験してほしいと思っています。そうやってNVCを実体験する中で、「あぁ、自分の中ですでに体験済みのことでもあるんだなぁ~」と気づいていくでしょう。

 ネットで検索してみて、出席できそうなワークショップに参加してみてもいいですし、わたしでよければ、声をおかけください(sjy0323jp*yahoo.co.jpまでメール下さい。*は@に変え、「NVCとキリスト教を読んで」みたいな何かしら日本語でのタイトルを必ずつけてください)。遠隔地でもzoomなどのビデオチャットを使って、語り合う中で、NVCを体感覚で受け止めていくことができるかと思います。

■感謝とお祝い、自然からのエネルギーを(56分34秒~67分14秒)

 社会の問題と向き合ったり、人間関係のトラブルに向き合ったりする際に「てめえ、よくも!」という思いからエネルギーで行くよりも、感謝とお祝い、自然からのエネルギーを大切にすることが語られています。

 お祝いは英語だとcelebrationで、礼拝の意味で使われることもある単語です。神に感謝する、神を礼拝し与えられた人生を祝うことをエネルギー源とする、とキリスト教的には言い換えることもできるでしょう。それに対して「てめえ、よくも!」では復讐心がエネルギー源となる、と言えるでしょうし、それではトゲのある言動となって相手は心を閉ざしてしまうかもしれません。

「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」ネヘミヤ8・10とある通りです。

 また主イエスは「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」(マタイ6・26、28)と語っています。神の作品である自然から気づきが与えられ、エネルギーを受けていくことができます。

 神学的にいうなら、聖書という特別啓示から生まれる感謝や礼拝(お祝い)もあり、自然という一般啓示から受ける恵みもあり、それぞれの啓示から受けたエネルギーをもって隣人を愛していくことにわたしたちは招かれている、ということができます。

 感謝やお祝い、自然に触れることを通して、まずは自分自身が平和であるエネルギーを受けていきたいのです。そこから始まって、相手につながろうとしていくと、双方が妥協しないまま、わくわくする関係性が築かれ、問題が解決してしまうことになるのです。

■感謝と次章予告

第1章の最後までお読みくださり、ありがとうございます。第2章以降はマーシャル・ローゼンバーグによるワークショップの吹替動画を観ていくことにしています。第1章ではざっくりとNVCの概要を見てきましたが、これを掘り下げながらより詳しく学んでいくことができます。続けてお読みくださるとうれしいです。


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