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醜さを、愛せなくても。

(🖌まーちゃん)


春、久しぶりにネイルをする気になった。
越したばかりの片付いていない部屋で、持ってきたはずの爪磨きを探す。
こうしている間にも、やらなきゃいけないことは積みあがっていくばかりだけれど、まずは自分の機嫌をとらないと。

私にとって24回目の春は、思っていたよりさらっとやってきた。
せっかく少しだけ暖かくなったのに、ひなたぼっこもせずにせっせと仕事をしたり、人を檻に閉じ込めたり、文化財が失恋したりと慌ただしくしているあいだに、家の近くの桜は満開に花開いてしまった。
ゆっくり花見もしないまま春が終わってしまいそうなので、せめて指先に桜咲かせとくかと、夜な夜な爪を磨いている。
自分の爪、指、手。
手入れがなってなくて、色黒で、女性らしくない、私の手。
久しぶりに間近でじっと見つめながら、「ほんとに好きじゃないな」と、小さく声が漏れてしまった。

自分の容姿に自信がなくなってしまったのはいつからだろう。

分厚い手のひら、低い身長、変な形の眉、片方だけ奥二重の離れた目、低くて丸い鼻、大きい前歯、腫れぼったい唇。

私に備わるその全てが、あの子にも、その子にも負けている気がする。
幼い頃からうっすらあった、“理想とかけはなれた自分の姿”への失望。
その悲しい思いは、学生時代、確かに存在したヒエラルキーの中を生き抜き、他者からの評価の目にさらされ続けているうちに、自分の中で確固たるものになっていった。

「美しくないから、少しでもマシにならないと」。
あまりにありふれていて、あまりに最悪のこの呪いは、長い間私を苦しめた。
覚えたてのメイクでいくら装っても、あの子みたいに可愛くなれない。
どれだけネイルに時間をかけても、あの人みたいに美しい指先は手に入らない。
努力すればするほど、まざまざと見せつけられる現実に失望は大きくなるばかりで、光が見えることはなかった。
冗談で放たれた「笑ったらブスやな」の一言に傷ついて、うまく笑えなくなってしまったときもあった。
どうしても髪型がまとまらなくて、洗面所でうずくまってしまう日もあった。
毎日鏡をみるのが嫌でも、朝は必ずやってくる。
醜さを認められなくても、受け入れたふりをして折り合いをつけることが、若い私にとっての最善策だった。

「美人」だとか、「可愛い」だとか。そういう“美醜のものさし”の外側で生きられたら、きっともっと楽だと思う。
当然、美しくいようと努力する人はかっこいいし、美しくなりたいと願う姿は麗しい。
それでも、「美しくない」自分に苦しめられずに済むような、数あるコンプレックスがさみしい夜を加速させる材料にならないような、そんな生き方が出来ればいいのに、と思う。
もしそれが叶うなら、あの夜、心ない言葉に傷ついた15歳の私も、少し、ほんの少しだけ救われる気がするから。

いつのまにか美しく生きることを諦めて、容姿以外で他人から求められるように人生を選んできた。
陽気な振る舞い、できることを引き受ける柔軟さ、傷つかないための自虐、泣き出しそうになるのを必死に堪えて捻り出す悲しい嘘、誰にも見せたくなかった小さな努力。
そんな、容姿を変えずとも選ばれるための行動は少しずつ実になって、私に自信と居場所を作ってくれた。

私は、私のままで、私らしく生きられる。
普段はそう信じているのに、ふとしたとき、本当に些細なことで、自分の醜さをどうしようもなく憎んでしまう夜がある。

そんな夜は、自分で自分を救うために、たくさん仕事をして、少し本を読んで、気が向いたらネイルをする。
綺麗にネイルが施された爪にミスマッチな、もったりした手のひらを見つめながら、私は大丈夫だと言い聞かせる。

己の醜さをどうしても愛せなかったとしても、私を私にしてくれたのは、紛れもなく私自身だから。
認めてあげないと、明日の私が可哀想だ。

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