🖌️まーちゃん
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猫を飼っていた。ヒマラヤンだと聞かされてたけど、たぶん雑種の猫。
彼女は私が生まれる前からうちにいて、気づいたら傍にいた。
名前はてんてん。テン、という動物に色が似ているから、てんてん。
動物に動物の名前を付けるセンス、ヤバイと思う。
てんてんは飼い主に似てかかなりどんくさく、階段で躓いたり、窓のふちに飛び乗ろうとして失敗したりとなんともかわいらしさ満点の猫だったのだが、やはり飼い主に似て、めちゃくちゃな人見知りだった。
誰彼構わず威嚇し、触ろうとすると怒り、甘えたりなんかせず素早く逃げていく暴君ぶり。
うちに遊びに来てくれた友達はみんな彼女に怯えていて、猫なのに全く子供から人気が無かった。
「猫がみな、かわいいと思うなよ」と言わんばかりの顔で廊下を闊歩する彼女のことをたまに思い出す。
めっちゃ私に似ている。ごめんね、てんてん。
そんなつっけんどんなてんてんだったが、私にはかなり優しかった。
別にめちゃくちゃ甘えてくるわけではなかったけど、なんとなく傍にいた。触ろうとしても怒られなかったけれど、抱きしめようとすると逃げられた。
時間になったら小さく鳴いて、ごはんを出せ、とねだった。にゃーって言えなくて「ゃっ」と鳴くところが好きだった。
ごはんを出して水を換えて、しばらく食べるのを見ていると、ふわふわの毛をゆらして膝に擦り寄ってくる。めちゃくちゃ猫だ。
食べ終わったら自分勝手にぴゃっとどこかに行ってしまう。猫過ぎて嘘みたいだ。
猫過ぎるてんてんのことが、私は好きだった。
てんてんは、母のことが一番好きだった。ごはんの時間じゃ無くても、自分から擦り寄って、ツンとしながらも甘えていた。
母もてんてんをとにかくかわいがり、「これしか食べへんねん」と高いキャットフードを与えて、私たちが寝静まった後、夜な夜な頭や背中を撫でていた。
寝室で堂本兄弟を観ながら。私のピアノの発表会を観ながら。たまに、テレビを消して、静かに泣きながら。
撫でられている時のてんてんは、じっと、おとなしく、身を委ねていた。
てんてんはいつだって、やりすぎなくらい猫だった。
てんてんを最後に見た日のことは、映画みたいに、他人事みたいにきれいに覚えている。
夏のお昼間で、記憶に脈絡はないけど、とにかくめちゃくちゃ晴れていた。
トラックに最低限の荷物を積み込んだ。セミが嫌になるくらい哭いていた。母はみんなでお鍋を囲んだり、お寿司を食べたりした机の上をきれいに片付けて、半分だけ記入してある、緑色で印字された冷たい紙をそっと置いた。
かなりすっからかんになった家にてんてんを残して、母は申し訳なさそうに、でも絶対に譲らない顔をして私を急かす。
私は枯れてしまうくらいに泣いていて、なにもなくなってしまった、自室だった場所に籠城している。
となりには猫過ぎる猫が座っている。
いつもみたいに、媚びずに、じっと座っている。
枯れてしまうくらいに泣きながら、なにかの、全部の終わりを憂いた。
猫が隣で座っている、それだけでいいのに。
この部屋を出て車に乗ったらどうなってしまうのか、私は知っていた。
いつもどおりが、当たり前が今日で終わってしまうことも、なぜ終わってしまうかも、私にはどうすることもできないことも全部知っていた。
知っていたけれど、幼いふりを、ものわかりの悪いふりをして、エアコンもない部屋で、汗まみれでひたすら泣いた。
いつのまにか疲れて眠ってしまっていて、起きたらてんてんを抱きしめていた。
長い毛足が、涙で少し濡れている。
てんてんは、母に撫でられているときみたいに、じっとおとなしく、私に身を委ねていた。
逃げずにいてくれたてんてんの呼吸は穏やかで、やっぱり、嘘みたいに猫だった。
数年経ったある日の夜、玄関で物音がした。
その日はたぶん金曜日で、テレビで映画が放映されていた。学校で豚を飼っていて、それを食べるか食べないかみたいな有名なやつ。母と弟と三人で、感想を言い合いながら、多分、鍋を食べていた。
インターフォンが鳴った気がして玄関に向かうと、ポストに封筒が入っていた。こういうことってうちでは良くあって、大抵は10万ほど現金が入っている。
養育費を払わない父からの、罪滅ぼしの、たった10万。
こんなときはいつも、3人とも気にとめていないふりをして、明るく振る舞うのが常だった。今回も例に漏れず、「ラッキー!」と口にして封筒の中身を覗くと、現金以外に、小さい写真が入っていた。
そこには、ごはんをたべる猫が写っていた。
てんてんだ、と思った。
てんてんだ、と思って、しばらく眺めて、何の気なしに裏を見た。
写真の裏には先週の日付と、冷たい2文字。
私は写真をさっとポケットに隠して、母に封筒を渡した。
母は封筒のなかをチラッとみて、そっと引き出しに仕舞って、映画の続きを観に居間に戻っていった。
安堵と、そうじゃない気持ちが混ざったため息をついて、わたしもあとに続いた。
好きだったな、てんてんのこと。
今思うと、あのとき知らせなかったことってあんまり良くなかったかもなと思う。
でも、知らないでいれば、生きていると思ってくれると信じたかった。
行き場のない許せない思いも、申し訳なさも、苦しさも、全部私のなかに閉じ込めておきたかった。
これ以上は、もう勘弁してほしかった。
愛おしくてたまらない猫を、私たちを守るために大嫌いな父に託すしかなかった母も、訳も分からず小さな友達と引き離された弟も、愛すべき存在が目の前からいきなり消えたのに、それでもきっと、猫を愛し続けてくれた父も、全部分かって、抱きしめさせてくれた猫も。みんな愛し合っていた、もう充分、悲しかった。
写真をポケットから出して、そっと机に仕舞う。あの引き出しはもう、私の手ではその日から開けていない。私が仕舞って、そこでおしまい。
終わりかけていた家族は、猫が死んで、父が看取って、きっとあそこで、全て終わったんだ。
無償の愛の話をしていたら朝になってしまった日、てんてんの夢を見た。
いつもみたいに媚びずにそこにいて、やっぱり、やりすぎなくらい猫だった。
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