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弟子生活半年を経て、ぼやく


”つくる”

”つくる”ことが好きな人はたくさんいるんじゃないか
でも”つくる”ことにハードルの高さを感じている人もいるんじゃないか

私自身もその一人で
生産手段がないことがすごくコンプレックスだった
もっとクリエイティブに生きたいと思った
だから、今ここ非電化工房で修行をしている。

非電化工房に来て、「自分の暮らしを自分でつくる技術」を学ぶなかで色々なことに気づき始めた。

「誰でもつくり手になれる」

1つは、「誰でもつくり手になれる」ってこと。
今までの私は、つくり手というと職人さんとかクリエイターさんとかすぐ浮かんで
つくることは専門的に技術を鍛錬をした人、一握りの人じゃないとできないと思っていたし、私は違うんだろうな〜なんて諦めもしていた


でもいざつくりはじめてしまえば案外色々つくれるんだってことに気づき始めた。

もちろん、ここでやることは初めてのことばかりで、分からないし失敗しまくるし怒られることも多々ある。
でもなぜが全然嫌ではなくて、なんかワクワクする。課題がどんどん出てくることが純粋に嬉しい。だって、今までの漠然として不安にかられたりやる前に諦めていただけだったから。
うまくはいかなくても、少しづつでも、それでも進んでいる。そういう実感を持つことができて少し自信が湧いてきた。

また、無意識だったけれど今までも生活の中で”つくる”ことに関わっていたことにも気づいた。
普通の大学生活の中でも、朝ごはん作ったり、発酵食作ったり、場づくりをしたり、なんだかんだ”つくる”ことに関わってきてだな〜って気づくことができて、少し自分が誇らしくなった

「つくるはたのしい」

2つ目は、「つくるはたのしい」ってこと
私にとって”つくる”とは、自然と自己との融合を表現すること
それは自然と自己に耳を傾け、繋がることなしにはできないことだと思うし
自然と自分、自己と自分が繋がった時、私は大きな快感をえる

”つくる”を通して自然法則を垣間みた(気がする)あの瞬間

自然物の美しさ、寛大さ、尊さをつくづく実感する。
だからもちろんそんな自然を大切にしたいし共に生きていきたい、できるだけ環境負荷はかけない生き方をしたいという思いが湧き上がる。

”つくる”を通して新たな自分を発見した時

心が動くこと、嫌なこと許せないこと大好きなこと、苦手なこと
色々な自分に出会った。できない自分も受け入れた上で成長したいと思うようになった。自然に対する想いと同じように、自分自身も大切にしたいと思えるようになった。

生きることが愉しくなった

つくることを始めてわたしは生きやすくなっている。
というか生きることが愉しくなっている。
つくること自体も、つくった先にあるものも、全部が愛おしい。
今までも人に喜ばれることは好きだったけれど
自分が試行錯誤してつくったもので人に喜んでもらえた時の、あの大きな感動は、言葉にできないものだと知った。

つくることを通じて、少しでも救われる人がいるんじゃないかな?
少しでも生きることが愉しくなる人がいるんじゃないかな?

なんて思ったりして
私みたいな、専門性なんてなくても、ごりごり文系でも
「お金をかけず、たのしく、だれもがつくり手になれるんだよ」
ってそんな生き方の選択肢をみせられたらいいな〜なんて感じたこの頃。


ぼやき

2,3年前の自分は”環境破壊””搾取ばかりの社会構造”がもう許せなくて、この世の中を変えたい変えたいって必死だった。

でも、休学する前あたりから最近の私は欲とかエゴが薄くなったなあと思うんだ。
これがいいのか悪いのかはわからないけど
でも、変える変えないとか、良い悪いとかそういう二元論で考えること自体がすごく青かったなあと思う。

今は私はこの社会を変えてやろうなんて気はない。
ただ、この社会に自分の人生を任せられるほど社会はいいものじゃないと思う。この世には苦しんでいる人が多すぎる。

だからこそ私は自分が生きたいように自由に生きたい、自分のふるまいひとつひとつに責任を持ちたいし、全力で愉しみたい。
そして様々な生き方の選択肢があって、それを選べる状況であることが一番幸せなんじゃないかと思うのだ。

私は自分の生涯を通じて、そんな生き方の選択肢をみせられるような人間になりたいなあ〜

なんてね。







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