音楽と自分のこと

大学を卒業する。社会人として働く。明らかに人生で1番大きな転換期である。「仕事嫌だー!」とか「大学生でいたいー!」みたいな気持ちよりも、なんだか「寂しい」という気持ちがとにかくデカイような気がしている。それもきっと、学生という身分で楽しく音楽をやらせてもらっていたから、というのが大きいと思う。とにかく今は、寂しい。

先日、所属していたサークルの卒業ライブが終わった。悔いなくやりたいことは全部やれたし、まだまだ足りないけれどたくさんの後輩ともコミュニケーションをとれた。本当は全後輩に感謝のメッセージを送ろうとしたが、流石に気持ち悪いのでやめた。笑

そして昨日は卒業式があった。

色んな喪失感もありつつ、ふと学生として音楽をやってきた自分を総括したくなった。ただの痛すぎる自分語りではあるが、少しでも僕と音楽で関わってくれた人には面白がってくれる部分もあるのではないかと思っている。

楽器を始めた中学生

楽器を始めたのは12歳の時である。よく「楽器はいつから?」と訊かれるが、正確に答えると2012年の3月26日。(確かこの日)そもそも2011年の後半にBUMP OF CHICKENが好きになったことから音楽の道が開いたわけだが、ギターに興味を持ったのはそれから少し経ってからであった。なんとなく曲を聴きながらギターの弾き真似をしたりしていた。使い古して薄くなった円形状の消しゴムをピックに見立てて、机の縁で『オンリーロンリーグローリー』のイントロを弾く想像をしていたのを覚えている。そんな中、父が昔から所有していたテレキャスターを手にした。初めてコードを覚えて弾けるようになったのは『車輪の唄』だった。

中学生。部活はパソコン部だった。とにかく運動したくないからである。(なぜ吹奏楽部ではなかったのかは分からない。何となく女子ばかりの空間が嫌だったのかね・・・?)夏休みも休日もほとんど部活はなく、そのおかげで家でギターを練習していたな、と今は思う。バンドスコアを買ってもらい、とにかく猛練習したASIAN KUNG-FU GENERATIONの『BEST HIT AKG』やBase Ball Bearの『(WHAT IS THE)LOVE&POP?』、SEKAI NO OWARIの『ENTERTAINMENT』もたくさん練習した。

こんな感じでギターを1年以上続けていると、誰かに「披露」したくなるようになった。しかし、当然バンドができるわけがなく、ライブがやれるわけでも無いので、僕はある発明をした。「演奏会」である。好きな曲で10曲から20曲弱のセットリストを組み、それを流しながら自分がギターを演奏、その様子を音楽好きの友人(主にBremensドラムの彼)に延々見せつけるというものである。(中1の冬に初めてやった時の相手は弟だったことを覚えています)何とも酷い自分勝手な遊びである。もちろん、客はずっと集中して盛り上がるわけもなく、数曲真面目に盛り上がってくれた後は僕の演奏をBGMにゲームをしていた。今考えるとわけがわからない遊びだが、その頃から「ライブ願望」みたいなものはあったんだな〜と思う。

中学生で「まあまあギターが弾ける」って結構目立ちポイントだとは思うのだが、どう頑張っても中学生活で「ギターが弾けることをアピールできる場面」はほとんどなかった。(母校に文化祭はなかった)その頃はよくLINEのタイムライン機能に演奏動画などを挙げて周りに認知してもらっていたが、それだけでヒーローになれたかというと全くそんなことはなく、「そういえば大稀くんはギターを弾けるらしい」「上手いらしい」みたいな雰囲気で終わった。

だからこそ、中学校を卒業し、愛すべきあの高校に入学する前に「どうやら軽音サークルがあるらしい」という話を知った時は胸がときめいた。入学前、通っていた塾の春期講習でたまたま隣だった女の子が斜め前の女の子と部活をどうするかという話をしていた。斜め前の子は「管弦楽部」と言い、隣の子は「軽音サークルがあるらしいんだよね」みたいな話をしていたのだ。塾に中学の知り合いが誰もおらず常に1人で、シンプルにシャイな僕はそこに「え、そうなの?」と会話に入っていけるわけでもなく、ただ無言で「え、そうなの?」と思っていただけだった。ちなみに塾にいたこの2人は後に一緒にバンドもやったり、部活等々で大変お世話になる大切な友人となる。また、塾で唯一できた友人は、後にBremensのギターとなった。巡り合わせとはまさにこのことである。てか塾での巡り合わせがすごいな。

高校時代

高校に入学した。最初は部活に入らず自由に音楽をやっていればそれでいいな、と思っていたが、クラスで初めにできた友達が「管弦楽部を見る」というのでついていったところ、何だか面白そうだったので入ることにした。この友人が後のBremensキーボードである。当時常に一緒にいたBremensのドラムも管弦楽部に入ることになった。しかし、軽音サークルも忘れてはいない。昼休みに宣伝しにきた先輩2人の情報を頼りに放課後ある教室に向かって説明会を聞きに行った日を覚えている。

そこから少し時間が経って、軽音サークルの仲間が僕のところに「文化祭でバンドをやろう」と言ってくれた。(どうでもいいが、初期の軽音サークルメンバーで男は僕とBremensドラムしかおらず、他の5人が女の子だった。母校の男女比率、おそるべし。)曲は簡単かつ有名という理由で『小さな恋のうた』と『ないものねだり』になった。マジであからさまな選曲である。

とにかくバンド練習全てが楽しかった。これまで1人で演奏するしかなかった自分にとって、3年待ってようやくできたバンド演奏である。しかも、周りはだいたい初心者の子が多く、僕の楽器の腕も認めてくれた。自己肯定感がグッと高まった瞬間かもしれない。しかし、同時に「極めて尖っていた自分」もいた。これは黒歴史である。「ギターが上手い自分」に酔い、演奏が下手な初心者に対して「聴いてられない」と感じていた。人間の屑である。流石にサークルの同期に対してそんなことは思っていなかったが、夏休みに見にいったコピーバンドライブの感想を「みんなの演奏下手すぎて終わったわ」みたいな感じで家で喋ったのを覚えている。ゴミカス野郎である笑

とにかく、この頃は非常に尖っていた。

そんな僕の初ライブは高校1年の公開文化祭であった。登場SEをアジカンの『エントランス』にして、前述した2曲を演奏した。今でも友達がたくさん見てくれている中で演奏した風景は覚えている。久しぶりに映像を見返したが、正直初心者ばかりの高校1年生バンドとしては普通に演奏できていて感動した。その後、サークルのメンバーを2つに分割し(人数も多くパートが被っていたので)僕は「The Fine Split」というバンドを組んだ。年度末の卒業ライブに出るため、秋頃は僕の家で練習していた。僕がボーカルギターを務め、フジファブリックの『夜明けのBEAT』やthe pillowsの『Funny Bunny』を練習した。ちなみに、僕がリーダーを務めているバンド「Bremens」を結成したのはこの頃。2016年の1月である。なぜ組むことになったかは定かではないが、おそらく「男だけでバンドがやりたい」と思ったからだと思う。サークルの仲間の伝手でボーカルとベースを見つけて結成した。(ちなみにそもそもベースはギター担当として加入したし、ボーカルは坊主だった。)

高校2年生。2つのバンド合わせて月に1本くらいのペースでライブをやった。中でも大きな転換点になったのが2016年7月にやったライブである。そこまではKANA-BOONのコピーをやっていたが、ベースが「好きなレッチリをやりたい」と言ってくれた。こうしてやり始めたのが『Dani California』である。ここから自分の音楽の幅も一気に広がった。初めてのオリジナル曲『Bremensのテーマ』を作曲したのも夏休みで、この曲はあからさまにレッチリの影響でつくった曲だった。

高2の夏といえば、演劇に出演した。役者ではなく「ギター演奏」としてである。高校の演劇部の公演にギターでのBGM演奏として参加した。本当にガタガタの現場で、脚本も全く完成しないし練習も追っつかない状況だったが、本当に感動したし面白い経験だった。「舞台の場面に曲をつける」というこの経験は何と5年後、2021年から2022年にかけて行った劇団120○ENの劇伴制作に活きることになる。(ちなみに高校時代を通してこのあと2度ほど舞台でのギター演奏を行った。)

2016年の末、サークル主催のライブを行うことになり、Bremensがトリで1時間のライブをすることになった。今では考えられないが、余裕でやってしまった。ちなみにセットリストが以下の通りである。
1 : Can't Stop ~ Give It Away
2 : Dark Necessities
3 : ないものねだり
4 : シルエット
5 : Bremensのテーマ
6 : となりのトトロ
7 : キラーボール
8 : ドレスを脱げ
9 : By The Way
10 : Dani California

尖りすぎである笑
カナブーンとレッチリとゲスの極み乙女。がごちゃまぜになっている高校生バンド、幾ら何でも面白すぎるだろ。

高校3年生。大きな体験をした。当時開催されていた音楽イベント『無限フェスティバル』にオープニングアクトとして出演したのである。このイベントには音速ラインやアンテナ、そして片平里菜が居た。閃光ライオットから花開いた福島の大スターである。デビュー時にはライブに行き、CDにサインをもらったほどのファンだった。正直ライブでの演奏はそこそこに終わってしまったが、舞台袖で片平里菜と話した瞬間は忘れられない。高校生バンドとはいえ、音楽続けてるとこんなことがあるのか。。。。と本当に感動した。

しかし、何と言っても2017年8月11日、Bremensワンマンライブの大成功が一番の思い出である。あのライブハウスに100人以上集め、2時間半も演奏した。ある意味この「高3の夏」が人生で1番最強だった時期かもしれない。部活を3年間やりきって涙の引退、ワンマンライブを成功させ、文化祭では1000人の前で友人と共に2日間司会をやりきった。思えば、この最強の時期を通じて人前に出ることへの恐怖はなくなって、みんなの前で堂々とできるようになったような気がする。そして「自分本位」よりも「みんなに楽しんでもらいたい」という思いも強くなったのである。多分、この頃には尖りもなくなっていた。笑

受験期に入り、ライブもしなくなった。しょうがないことではあるが、「いやいや、正直ライブできないほど勉強なんてしないだろ」と思っていた僕は、年末のサークル主催ライブに出演することにした。センター試験2週間前である。頭がおかしい。しかしBremensやサークルの仲間を引っ張り出してくるのは流石に申し訳ないので、賛同してくれたBremensのベースと他高校のドラマーをメンバーに加え、歌ウマ後輩3人をボーカルに据えて「The Halley」を結成した。初めて「誰かに曲を書く」ことを経験し、色々なボーカルと色々な曲をやる楽しさを覚えた。これがのちに始動する「Project Halley」の原型となった。

受験も無事に終わり、卒業ライブの時期になった。久しぶりにやる仲間と久しぶりのライブは本当に楽しかった。また、この時期に初ライブを行ったのが僕が主宰する音楽プロジェクト「Project Halley」である。メンバーを固定せず、色々なミュージシャンと色々な曲を演奏するというオモロコンセプトで始まったこのバンドだが、中でも1番大きな出会いは我らがスーパーシンガーちゃんみゆ氏である。当時、僕はBase Ball Bearの『クチビル・ディテクティブ』という曲を演奏したくてたまらなかったのだが、この曲にはゲストボーカリストが必要であった。(原曲はラッパーの呂布と元チャットモンチーの福岡晃子が参加している)そこに名乗りを上げてくれたのがちゃんみゆだった。正直ほとんど面識がなかったので「嬉しいけどどんな人・・・?」と思いながら、当時アップしていた歌の音源を聴いて「え、こんな人いるの・・・・;;」と大歓喜した。今でも音楽仲間として、メンバーとして大切な存在であるが、本当にこの時の出会いに感謝している。

こうして高校を卒業した。

ギターを始めた12歳から高校生バンドをやりきった18歳までを振り返った。ギターを一生懸命練習して、ある程度上手くなったのは自分を褒めたいが、何はともあれとにかく周りの仲間に感謝しかないな、と改めて思う。とにかく僕のワガママに付いてきてくれていた仲間に感謝である。特に高校時代の仲間との縁はずっと続いているし、ライブハウスとの縁もこの頃から僕らの面倒を見てくれていたからこそである。

だいたい思い出話に花が咲くと高校時代の最強だった頃を振り返ってしまう。「ああ俺はこうやっていつまでも高校時代にすがってしまうんだな」と悲しくなるが、それは同時に「充実した高校生活を送っていた」という何よりの証拠である。

LandmarksとFolk&Rock研究会のこと

大学に入学した時から、バンドサークルに入ろうと決めていた。我が大学には2つバンドサークルがあるため、サークル勧誘ライブを見て決めよう、と考えていたのだが、いざ最初に僕が目にしたサークルの演奏が正直メタメタであった(実際そうだったんです、本当にごめんなさい)「え、こんなもんなの・・・・?」と思いながら野外ステージを後にし、室内でライブを行なっていたFolk&Rock研究会へと足を運んだ。

そこで演奏されていたのはnever young beach『明るい未来』だった。素敵な演奏だった。「あ、こっちにしよう」と即決したのであった。

初めての集会。
自己紹介を真剣に聴いていると、どうやらバンド経験がある人間がいるらしかった。集会を終え、真っ先に髪の赤い高身長男に話しかけた。その近くにはバンド経験のあるドラマーもいた。時間を潰すため3人でドラマーの家に向かい、ライブDVDなんかを観ながら好きな音楽の話をした。Landmarksボーカルの康平、ドラムの伸二である。

いざバンドを組む日。我々はベースを探していた。すると、以前の集会にはいなかった変な男が「バンド経験があるベーシスト」なことが発覚した。これはちょうど良い、と思い彼を誘った。Landmarksベースの大晟である。初ライブのために曲を決めたが、当然オリジナル曲をやるなんて想像していなかった。練習したのはTHE PINBOLLS、Base Ball Bear、ASIAN KUNG-FU GENERATION、andymoriだった。統一感がなさすぎる。いや、ある意味統一感あるのか・・・?しかし、流れでオリジナル曲もやることになった。康平が持ってきた曲を1年生の初ライブで披露した。『portrait』という曲で、Landmarksの最古の曲である。

その後秋に本格的な活動をスタート。康平のデモ音源をみんなで合わせながら曲を増やしていき、たくさんのライブをした。正直Landmarksの活動に関して、高校時代ほどエモいことはあまりないのだが、本当に貴重な出会いもあった。

なんと言ってもおと酔いウォーク2019への出演である。オーディションを勝ち抜き、バンドセットで出演することになった。僕らが出演したステージにはなんと向井秀徳が出演することになっていた。楽屋へと向かうとそこには「あの」向井秀徳が居るのである。中学生の時観たライジングサンでの透明少女の映像に衝撃を受けたことを今でも覚えている。NUMBER GIRLラストライブでのOMOIDE IN MY HEADは飽きるほど聴いた。そんな伝説のアーティストが目の前に居るのである。

「あ、すみません。この度オーディションを勝ち抜いて出演することになりました、福島のpillowtalkと申します、よろしくお願いします!」
と挨拶すると、一言。

「んあ、そうなの。」

緊張した。

この日は他にもリアクションザブッダや空想委員会の三浦委員長とお話ししたり、打ち上げでは石崎ひゅーいと交流できた。一生の思い出である。

Landmarksを4年間やってきて1番良かったことはとにかく沢山の出会いである。4年間のライブ活動を通じて、本当にたくさんの大人達と仲良くなれた。福島はもちろん、仙台や盛岡など、たくさんの大好きなバンドができた。仲良くなれた。企画の時には来てくれるようになった。幸せである。もちろん、4年という歳月を同じ仲間でずっと過ごし、音楽を続けたことで本当にそれぞれの腕も上がった。この縁と力を大切にこれからも音楽を続けたい。

ここまではF&R入部からLandmarksの活動を総括したが、1番喋りたかったのはなんといってもサークルの話である。

1年生の時はとにかく様子見であった。ライブに出たとしても2バンドくらいで、あまり他のサークル員とも交流していなかった。今思うと本当にもったいなかったと思う。また、単純に「会費が高い」という理由で打ち上げにも行かなかった、絶対に行っておいた方が仲良くなれたが、実際に高く感じていたし、ライブの出演料も高かったのでしょうがなかったと思う。

サークルの楽しさを覚え始めたのは2年のゴールデンウィークあたりで開催した同期飲みであった。これまで話したことのなかった同期とも仲良くなれたし、ただ音楽をやるだけじゃない「人に触れる」サークルの良さをちゃんと感じられるようになったのはこの頃からのような気がしている。次第に機材のことを覚え、学内ライブでは設営のノウハウを学び、ライブの出演バンド数も増えるようになった。秋の芋煮や冬コンの打ち上げに参加したり、とにかくサークルの仲間と触れ合う機会が増えていった。サークルの運営をもっと良くしていこう、という気持ちが芽生えたのもこの頃からだと思う。

そんな中コロナ禍に入ってしまう。

当時、まだ規制が緩かったため卒業ライブと打ち上げ、卒業式飲みは行うことができた。この時のライブは本当に楽しかった。卒業する先輩が踊る後ろで演奏するBiSH、ようやくできたレッチリ。サークルへの愛が強まった一方、コロナ禍でこのあと半年ライブがなかったのが本当に辛かった。

しかしここからの後半2年間は、とにかくサークル愛に溢れた2年間であった。まず3年次では僕らの代が運営であった。これ迄の2年間で感じていた運営上のモヤモヤを解決するため、結構色々なことを変えた。僕は技術班の班長だったので主にPA周りの長をやったが、後輩にしっかり受け継げて安心した。

また、我らの代の会長が本当に最強であったことが何といっても感謝である。正直会長でも何でもないのにも関わらず僕はサークル大好き度が有り余ってたくさん運営に携わってしまった。それを良しとし、協力してくれた会長には本当に感謝しかない。僕は臆病で実効性のない人間なので、色々思いついたところでそれを表立って色々実行する力が抜けている。そんな自分を補ってくれた彼には感謝しても仕切れない。コロナ禍からの2年間で我々F&Rが超大所帯になったのも、我々同期が超良い奴らだったからであり、何より会長のおかげである。

サークルには様々な人間がいて、音楽の趣味も、楽器の腕も、考え方も、皆違う。でも音楽が好き、というその一点だけで何十人もの人間が団結して楽しい空間が作れる。なんて幸せなのだろうか。また、幸いなことに本当に後輩に恵まれた。たくさんの後輩がサークルに入ってくれた(そして全然辞めずに残ってくれている)ことはもちろんのこと、いつも出しゃばりでふざけてばかりいる我々をこちらが申し訳なくなるくらいに尊敬してくれたことは感謝しても仕切れない。僕が1年の頃は、1年と4年でここまでの人数が仲良くなることはあまりなかったが、いまは全学年通してみんなが交流する本当に良い空間になった。とにかく素敵なサークルである。僕が就活で辛かった4年の春から秋にかけて、元気でいられたのはサークルの仲間がいたからである。本当は家で涙を流すほどキツイ時期もあった。それでも仲間の前では元気でいられた。

先日行った卒業ライブでは地震に見舞われたものの、電車が動かない中たくさんの仲間が車を出して協力してくれたことで何とか開催できた。地震の翌日、なんだかんだで寝れず、5時半くらいに誰よりも先に起床し、会議を始めた。おそらく全員が不安で「どうしよう」と思っていたと思うが、本当に僕が1番その気持ちだった自信がある(半分冗談)僕はまあまあ楽観的な人間なので、こういう大変な状況でも「まあ何とかやろうと思えばできるんじゃねえか」とは思っていた。ただ「現実的に考えたらキツイ」のは承知で「何とかやれないか頑張ってみよう」という結論を出した。結果、開催することができた。正直、朝ライブハウスでみんなの顔を見た瞬間から泣きそうになっていた。

2日目の最後、我らが会長が泣いていた。それを見て僕もフロアで泣いていた。3日目、東京事変で『群青日和』を弾いている時、ようやくできたという思いで泣きそうになった。サークルの仲間の前でLandmarksをやっている時、まじで泣きそうだった。The Beachで最後にやった『お別れの歌』ではとにかく涙をこらえるので必死だった。卒業式を終えて、みんなからもらった手紙や寄せ書きを見てやっぱり泣いた。

正直、毎度のライブで色々な曲をやりすぎ、PAを忙しく行っていたためみんなの演奏を全力で楽しめなかったのが悔しい。それでも自分の演奏を全力でやり、スタッフワークを忙しくしているのが僕は楽しかった。また、そうすることでみんながイベントを楽しんでくれるのが幸せであった。

先輩、同期、後輩、すべての仲間に感謝しても仕切れないほど、Folk&Rockでの4年間は楽しいものだった。悔いなく、去ろうと思う。


長々と書いてしまった。気づいたら約9000字。アホか。

こうやってみるとなんだかんだ高校時代って思い出深いのだな、と思う。おそらく卒業して時間が経っているから余計に感傷的に振り借りたくなるのだろう。あと数年すると大学時代の思い出が愛おしくてたまらなくなるのだと思う。とにかく、こうやって文章化することでひとつ自分の中で整理がついた。

これまで僕と関わってきてくれたすべての皆様に感謝をしながら。これからも頑張って生きていきましょう。

ご静聴ありがとうございました。

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