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マクミランエステートの化け物

目を覚ましたのは、すぐ近くで人の気配がしたから。ねっとりとした湿度の高い霧と、木々の間からわずかに差す月光が、メグ・トーマスの意識が浮上するのに一役買ったと言っていい。

メグがかすかに目を覚ますと、すぐ傍から女の声がした。

「ねえ、目が覚めたわ」

彼女はメグが目を開けたことにすぐ気付いて、顔を覗き込んできた。眼鏡をかけたその女性は、安堵の表情を浮かべている。メグが気を失っている間、よほど気を揉んだに違いない。彼女の声に振り向いたのは、同じく眼鏡をかけ、場にふさわしくないネクタイをつけた男だった。

「お、本当だ」
「よかった、気付いて。このまま目が覚めなかったらどうしようかと……。ここ、痛くない? 怪我してたのよ」

彼女は眉尻を下げ、内側に溜まった不安を吐き出すようなため息をつくと、それからメグの右腕を指差した。そこには確かに、包帯が巻いてある。しかし、彼女の言うような痛みは感じなかった。

「あの、ここは……」

不快な霧がメグの肌を撫でていく。明らかに人間のいる場所ではなかった。メグは直前の記憶を辿る。確か、いつものようにランニングをしていたら――。

「ここは、試練の地よ。初めてかしら」
「ここに来てしまったからには、もう戻れないよ。もし君が、ここに居たくないと願ってもね」

そう男は言った。メグはその男の表情を見て、諦観を見た。男の内側には、何かの不条理に対する怒りと、同時に諦めが共存しているように見える。
その理由を尋ねる前に、近くに茂みが揺れた。その音のする方を見ると、大柄の男が出てきた。

「もしかしたら、近くまでヤツが来ているかも知れん」

男は警官の服装で、首から警察バッジをかけている。
メグが驚いてそちらを見ていると、その男と目があった。

「おお、起きたのか」

そう声をかけられ、メグは挨拶がわりに頭を下げる。

「俺はタップだ。見た目でわかる通り、警官だな。よろしく」
「そういえば、私たちまだ自己紹介をしてないわ。私は、クローデット・モレル」
「僕は、ドワイトだよ。なんとでも呼んで」

そう言われ、メグも何か言わなければならないと言う気になった。

「私は、メグ・トーマス。さっきの話の続きなんだけど……」
「この場所のことだよね。僕たちは、生きるために死に、死ぬために生きなきゃならないんだ」
「ドワイト。そんな言い方よくないわ。きちんと伝わらないじゃない。あのね、メグちゃん。よく聞いて。これから話すことは、このに来た以上とても大事なことよ」

ドワイトの発言をたしなめ、クローデットがメグの手を握る。初対面の人間にそれほどまでされる意味がわからなかった。しかし、今のメグはその手を振りほどくよりも、話しの続きを知りたいという気持ちが勝っている。

「ここにいると、私たちは恐ろしい者に追われるわ。人を殺すことを快感だと感じ、残忍にも私たちを手にかける奴らよ。さっきドワイトも言ったことだけど、最悪の場合、……殺されてしまうの。だから、私たち4人は、ここから協力して逃げなきゃいけないのよ」

人を殺すことを快感だと感じ、自分の命を奪いに来る奴ら……。その存在を頭の中で具現化してみようとしても、恐ろしく得体の知れない何かにしかならなかった。クローデットがメグに語りかけるのをそばで聞いていたタップが、口を開いた。

「いいかい、嬢ちゃん。とにかく、相手は恐ろしい化けもんだ。見つかるまでは隠れ、見つかったら全力で逃げろ。近くにいくつかジェネレーターがあるから、それをみんなで協力して5つ点けるんだ。そうすりゃ、俺たちはみんな出られる。死にたくなきゃ、そうするんだな」

メグは黙って頷いた。この世界のルールは単純だ。死なないように生きること。ハイスクールという逆境を生き抜き、人気者にまで駆け上がった頃から、サバイバルは得意だ。メグの心に火がついた。自慢の脚もある。

「……わかった」

メグのその言葉を聞いて、タップは頷き、ドワイトは疑いの目を向けた。クローデットは心配そうに、唇を震わせたが、メグにはここで生き抜く自信があった。

「とにかく、ここは危ない。向こうへ行こう。コール・タワーが見える」

タップの先導により、4人は深い霧の奥へと向かった。



タップの言っていたタワーが見えると、辺りの空気が変わった。少なくともメグの中の動物的嗅覚は、それを察知した。

タップ「相手は、トラッパーの野郎だな」

タップの声で、他の人間の気が引き締まるのがわかる。タップが足元を見ろと言うように視線をやると、トラバサミが投げ捨てられていた。

「これは?」
「今回の殺人鬼が、トラッパーって奴なんだ。このトラバサミを至る所に仕掛けて、俺たちを捕らえようとしてくる。いいか? この罠には決してかかるんじゃねえぞ」

メグの問いかけに答えたタップの言葉に、一同が固唾を呑む。
その時、周囲にピリッとした緊張感が漂うのが分かった。

「ここから離れて、すぐに隠れろ!」

タップは吐息に圧をかけてそう言い、4人は方々に散らばる。
メグが駆け出した方向は、クローデットと同じだった。小さな石の陰に、2人で隠れる。

どくん、どくん、どくん、――。

緊張によるものか、それとも恐怖によるものか……。メグは、自分自身の心臓に手をかざした。大きく高鳴っている。しかし、恐怖よりもサバイバルに対する興奮が高鳴った。アドレナリンが内側から湧き出てくるのがわかる。

コール・タワーから出てきたのは、仮面をつけた、大柄の男だった。タップやドワイトよりも一回り大きい。その周囲に漂う尋常でない殺気は、近くにいるだけで痛いほどだった。メグは歯を噛み締め、その大男が去るのを待つ。
少しして、脅威は去った。やや遠ざかると、心音は元に戻っていく。

「メグちゃん、行こう。今のうちにジェネレーターを回さないと」

クローデットが隣から、メグの服を引きながら言う。メグもそれに頷き、クローデットの後について歩いていく。

「さっきの男が、その、化け物なの?」
「そうよ。あれはトラッパー。私はあまり走るのが得意じゃないから、隠れてやり過ごすつもりよ。あの人は罠をあちこちに仕掛けるから、引っかからないように逃げるのはすごく大変だし」

メグの中に、1つの疑問が浮かんだ。

(あの男をどこかで私は、見たことがあるような……)

「ほら、あれがジェネレーターよ。一緒に回しましょう」

クローデットに促され、ジェネレーターに近寄ると、遠くの方で1つ明かりが灯った。

「きっと、タップさんだわ。ジェネレーターをつけてくれたのよ。私たちも――」

クローデットがそう言った瞬間、静かな森の中に、罠が閉じる音と男の悲鳴が響いた。

「あれは、ドワイト君の声……! まずいわ、罠に引っかかっちゃったのよ、早くジェネレーターを回さないと!」

クローデットはそう言って、急いでジェネレーターの修理に取り掛かった。メグは、ここでも既視感を覚えた。どう修理すればこのジェネレーターが電源を取り戻し、明かりを灯すのか、知っている気がしたのだ。この古いオイルの匂いを嗅ぐのも、初めてではない。

「ねえ、クローデット」
「なぁに?」
「私、前にここへ来たことがあるかな」

クローデットに問うと、彼女は少しの間悩んでから口を開いた。

「……実のところ、私たちみんなまだよく分かってないの。でも、私やドワイト君、タップさんは何度も来たことがあって、お互いのこともよく知ってる。だけど、私たちは何度もこんなことを繰り返してるの。どうしてかしらね。ここを出た後のことは、覚えていないの。そして気がついたらまた、ここに来ているのよ。前のことを覚えてる人もいれば、そうでない人もいる。だから、メグちゃんももしかしたら、初めてじゃないのかもしれないわね」

クローデットの言葉は、メグに新たな衝撃を持って受け止められた。それと同時に、不可解にも捉えられた。

「ここを出たあとのこと、覚えてないの?」
「そう。私が覚えてるのは、ここを出るための方法と、仲間の顔だけ。きっと私も、何度もここで殺されたり、逃げ延びたりを繰り返してるんだわ」

そう言ったクローデットの横顔には、はじめにドワイトの表情から読み取った諦観と同じものが見えた。ドワイトの諦観の奥には、まだ諦められない気持ちがくすぶっていたが、クローデットの中にそれは見えない。ただ諦めて、自分の運命を受け入れているようだった。

「そんな……」

メグが言いかけたその時、遠くでドワイトがもう一度叫んだ。苦痛に歪んだ声は、虚空の空を切り裂くように響く。

「ドワイト君が、吊るされたんだわ。私、助けに行かないと。ここのジェネレーター、修理しておいてね」

クローデットは修理の手を止めて、ドワイトの声がした方へ向かって行った。メグはその足を止めるすべを知らず、ただ1人黙々と修理を続ける。

(何度も、何度もここへ来て、殺されたり、生き延びたり……)

クローデットの言葉を反芻する。この言葉の意味をそのまま受け止めるのならば、円に終わりがないように、この運命にも終わりはない――。

(私はそんなの、嫌だ……)

記憶の奥に霞むのは、誰かの笑顔と病院のベッド。ここよりももっと清潔で、消毒の匂いのする空間。そして、灼熱の太陽を真上に感じながら校庭を走る自分、靴の裏で感じた砂利の感覚……。

(この記憶は、一体……)

どくり、どくり、――。

記憶の中に飛び込もうとしていたメグの思考は、一瞬にして霧の深い現実へと引き戻された。大きく鼓動が高鳴る。ぴりりとした殺気も、感じる。メグはそれでもジェネレーターの修理を止めなかった。脚力には自信がある。見つかった瞬間飛び出せば、大きく距離を離せるはず……。

その瞬間、ジェネレーターの向かいにマスクをした大男が姿を現した。彼に近づいたら、まずい、本能がそう告げる。メグはその刹那、大きく地面を蹴って飛び出した。
振り向いてみると、その化け物は冷静に、こちらへ大股で歩いてくるようだった。しかしそれは、メグが走るよりもわずかに速い。駆け出した直後は大きく距離を離すことができたものの、今はただ距離が縮まるのを待つだけ。

(どうにか、逃げなきゃ)

窓枠を飛び越え、距離を稼ぐ。そのうちに遠くで1つ、ジェネレーターが命を得た。そしてメグは走る。すぐ後ろまで来ている。刃物を振りかざす音がして――。

「くっ……はッ!」

背中が切りつけられると、ひどく痛んだ。メグの視界が滲む。とにかく近くにある窓を超えるか、もしくは隠れるかして追跡を逃れたい、そう思った。近くにあった窓枠を飛び越えて距離を離そう、メグの中には、その思いしかなかった。しかし、飛び越え着地した瞬間……足首に激痛が走った。あまりの痛みにメグの顔が歪む。すぐ背後まで近づいていた化け物の気配は、一旦窓枠を優雅に避け、回り道をしてからメグの隣に立った。未だメグの脚は罠から抜けない。
隣に立った化け物は、しゃがみこんでメグの腹部に腕を回した。そのまま勢いよく担ぎ上げられる。

「い、やだッ……! やめて……!」

メグは力の限りもがいた。それでも化け物の腕は屈強で、振りほどくことはできない。

「なんでッ、こんなことを……! 痛い! やめて……ッ!」

メグは大きな声で叫んだ。見えるのは化け物の後頭部が精一杯。それでも、思い切り化け物の背中を殴り、言葉を投げつけた。

「……」

化け物は何も言わない。ただメグという獲物を捕まえ、吊るす場所を探している。
メグはフックに吊るされた。肩をえぐるような痛み、それでも意識はあった。その時初めて、正面から化け物を見た。

(こいつ、やっぱりどこかで……)

傷だらけの身体、仮面の下に隠れて表情は読み取れない。それでも、クローデットから聞いていた「人を殺すことを快感だと感じ、残忍にも私たちを手にかける奴ら」とは違うように見えた。

「……痛い思いしたくないなら、もう捕まるな」
「え……? ちょっと、待って……! くッ……」

化け物の口から、仮面にこもったそんな声が聞こえた気がしてメグは声をあげた。しかしその衝撃で傷口が抉られる。メグは口から漏れる嗚咽を、口の中で噛み殺した。

それから化け物が去ると、しばしの静寂が訪れる。その間にまた1つ、ジェネレーターが命を吹き返し、暗闇は次第に明るくなっていく。

「いいか、もう捕まるんじゃないぞ」

タップにそう声をかけられ、メグは気を失う直前でフックから下ろされた。近くにはクローデットも来ていて、2人から傷の手当てを受ける。その間に、もう一度ドワイトが倒れた。

「まずいわ。もしかしたら……」

クローデットはそう言いながら、ドワイトの悲鳴がする方を見る。それからすぐにドワイトの絶叫が聞こえて、森はいつもの静寂に戻った。

「メメント・モリよ。メグちゃんは気をつけて。絶対に、捕まってはダメよ! ダメだからね!」

クローデットはメグの両手を握り、そう念を押す。メグには、クローデットの言葉の意味が分からなかった。

「おい、来るぞ。散らばれ」

タップにそう言われ、それぞれの方角へ逃げた。振り返った瞬間、確実に化け物はメグを見ていた。それに気づいたタップが、メグの方へ駆けてくる。そしてメグのすぐ後ろに入った。

「俺が代わりになる! お前はとにかく走れ!」

タップの叫びが耳にこだまする。メグは地面を蹴って走り出した。速く、速く、誰よりも速く……あの頃は毎日のように思っていたことだった。校庭のトラックを走りながら、隣の走者を追い抜き、1番にゴールへ駆け込む自分を思い描いた。

「ぐあ……ッ!」

後ろからタップの悲痛な叫びが聞こえる。それでもメグは走った。そしてタワーの中に逃げ込むと、ジェネレーターの近くにドワイトの抜け殻が落ちていた。さっきまで話をしていた相手の亡骸が、ここにある。

「嘘……どう、して……」

正直に言うと、メグはドワイトの死体を目の前にして可哀想と言うより恐怖が勝った。生きていたものから命を抜き取ると、これほど恐ろしいものかと思った。後ずさりをして、ジェネレーターの方を振り返ると、遠くでタップの叫び声がした。おそらく、この後あのフックに吊るされるところだろう。恐ろしく痛くて、苦しい時間が来る。
メグは震える自分の手を握りしめ、自分を鼓舞した。タップから言われた通り、ジェネレーターを修理する。そうすれば、全員でここから逃げ出せる。今のメグにできることといえば、それしかなかい。メグは奥歯を噛み締め、ただ黙々と修理に集中した――。



(もうこれ以上、……私1人の力じゃ……)

メグは感覚を研ぎ澄まし、化け物が近くに来たらすぐに隠れた。そしてやり過ごし、ジェネレーターの修理を再開する。しかし、良くしてくれたクローデットも、タップも、みな亡骸となった。この試練の地に残るのは、メグと、そして化け物の2人だけ。

(死ぬのって、こんなに怖いんだ……)

メグは次々溢れる涙を拭い、震える自分の身体を抱きしめた。温く湿度の高い霧、その中で走り続けたメグは汗だくだったはずなのに、今はすっかり身体が冷えてしまった。化け物がどこにいるかもわからない。
少しずつ、化け物の気配が近づいてくる。それでも今のメグは、もう動くことすらできなかった。

目を閉じ、ただその時を待つ。死んだら何もなくなるのだから、痛くても構わない。ただこの時が、早く終わればいいと思った。
そうしている間に、化け物の気配がすぐそこまで来て……。

「……最後に残ったのは、お前か」

化け物の掠れた声で、メグは顔を上げた。目の前には、あの不気味な仮面の男が立っている。

「……どうして、こんなことするの」

がくがくと戦慄する唇から、溢れた言葉。それを化け物は聞いているのかどうか分からない。

「タップさんも、クローデットも、ドワイトさんも、みんないい人だった……」

「……」

目の前に膝をつき、化け物がメグの腕を取る。そしておもむろに引かれ、メグはそのまま地面にうつ伏せに投げられる格好となった。メグを、再び言い表せぬ恐怖が襲う。化け物の気配が、すぐ耳の後ろまで近づいて――。

「……おれだって、できれば手にかけたくない。見つかった自分を恨め」

「な、んて……」

「いくぞ」

そのあとすぐに、後頭部に強烈な衝撃が走り、メグの記憶は無くなった。何度も打ち付けられた身体は、決して綺麗なものとは言えないが――。

亡骸となったメグの手を掬い上げ、口元に寄せる悲しい化け物の姿を知るのは、暗い霧闇だけだった。


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