見出し画像

皮肉の責任は誰にあるか

ここはとあるレストラン。テーブルにはメニューもなく、値段もわからない。客はその場に運ばれてきた料理を食べ、請求された金額を支払って出ていくシステムになっている。

あなたは初めてその店に来て席に着いた。周りを見ると、黙って食べている人もいれば、困惑している人や、顔を真っ赤にしている人もいる。しばらくして運ばれてきたのは、高級そうな皿に、見慣れた食パンがひときれと、およそ食べ物とは思えない見慣れない物体。店主はそれが何なのか説明もせず、ぶっきらぼうな態度で厨房へ帰っていった。それを見たあなたは「こんなものに金は払えない」と店員を一喝して店を出た。さて、悪いのは誰なのだろうか?

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」

ツービートの漫才に出てくるギャグである。まるで交通標語のような五七五の中に社会通念を逸脱する行為が述べられているが、これを当時の人々はおおいに楽しんだ。もちろん、教育に悪い不道徳なものとして眉をひそめた人もいたのだろう。しかし統計的には一世を風靡したといえる。

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」は逆説である。社会の最下層にいて、でたらめを並べ立てる職業としてのお笑い芸人が言うことなのだから、その裏にあるメッセージは「集団心理にまかせて赤信号を渡ることなど言語道断(なんてことは皆さんお分かりですね)」なのだ。

こうした逆説や皮肉が誤解を呼び、炎上することがある。少し前だと小林賢太郎が五輪の開会式演出から外された件が記憶に新しいし、現在進行形でゆかいな議事録のM-1三回戦の動画が批判されている。これらが受けた批判が妥当なのかは置いておくとして、(道徳的に)悪いのは誰なのだろう?逆説を理解できなかった受け手なのか。それとも逆説を逆説だと上手に伝えられなかった作り手なのか。

コストと満足度

居酒屋で飲んだ後、お会計が予想より安かったらとてもうれしいし、予想よりも高かったらげんなりする。満足度というのは、実際に受けたサービスの内容と、コストの差で決まる。むかし大学の近くに、店員の態度が終わってるけど値段が安いので繁盛している定食屋があってよく行ったものだが、メニューがあと200円高かったらキレていたと思う。そういうもんだ。

じゃあお笑いでお客様が支払っている「コスト」とは何なのかというと、チケット代金=金銭的コストと、もう一つは「認知コスト」である。もっと広く「頭のコスト」と言ってもいい。さらにいうと、これはお笑いに限らずほとんどの知的エンタメに共通する性質だ。操作が難しいくせに爽快感がないゲームはやる気が起きない。酔っぱらう楽しさは同じでも、頭痛や二日酔いが激しい人は飲み会が億劫になる。支払うコストがデカいと「割に合わない」と思うのが人間というもの。だからコストなんてものは、何につけても低い方がいい。

じゃあコストを上げることはデメリットばかりかというとそういうわけでもない。料金を高めに設定すると、身も蓋もない言い方だが貧乏人が来なくなる。喫茶店やバーにおける「格」はここで調節されていて、コーヒーが300円だと売れない芸人がネタを書くために居座る店になるが、600円を超えたあたりから来なくなる。あと、化粧品は安すぎると売れないらしい。ある程度の値段がないと品質が担保されていないと感じるわけだ。我々は常にコストから効用を見積もり、期待し、パフォーマンスが妥当であることを能動的に理解しようとする。

コスト論を軸にお笑いの話をすると、例えば「強いボケが来るならフリが長くてもいい」とか「やたらと声がでかい人はなぜ面白くないのか」みたいな話に通じるのだろうけど、本筋から離れるのでやらない。今日は皮肉・逆説の話だ。

コストによるゾーニング

先の話でいうと、皮肉や逆説というのは受け手に非常に高いコストの支払いを要求する表現法だと言える。だって頭の中で一度「額面通りの意味」をかみくだいたうえで、その正誤を発言者の人格や文脈と比較して楽しむ必要がある。めちゃくちゃ面倒くさい。ハイコンテクストな上に変換作業が要る。おまけに内容が過激だと、それをいったん受け止める作業にも心理的負荷がかかる。

ただ、喫茶店の例でもあったように、コストの大きい表現というのはそれだけ高尚とされやすいのも事実だ。たとえば狂言を見るにはかなりのコストを要求される。値段も高いし、理解しておくべき前提知識もあり、おまけに現代語では喋ってくれない。もし狂言を見に行って「全然面白くなかった」という人がいたとしよう。「面白く感じる努力をしなかった人」と「面白さを伝えられなかった狂言」のどちらが悪いのかアンケートをとったら、結果は明白だと思う。このたとえは狂言を「クラシックの演奏会」や「茶の湯」に替えてもいい。楽しめなかった人間はまだまだ未熟で不勉強だったと、言い換えれば「まだまだコストを払い足りない」ということにされるのがオチだ。

では皮肉や逆説も同じかというと、少し旗色が悪い。高いコストを払うに値するものと認識してくれるとは限らない。茂木健一郎のように「政治批判や諷刺こそが高尚な笑いだ」とコストを礼賛する者もいる一方で、皮肉が分からない人、皮肉だと分かっていても善悪に敏感な人というのが一定数いる。そして彼らは冷酷で、「笑えない皮肉を言った方が悪い」という態度を向ける。

誤解しないで頂きたいのは、皮肉を解さない人を理解力がないだとか、冗談が通じないというような貶め方をしたいのではない。価値を理解しようとしない人がいるのは皮肉に限ったことではないのだ。皮肉や逆説がたびたび引き起こす問題点は、その多くが適切にフィルタリングされないことにある。

映画やゲームが年齢によってゾーニングがなされ、スポーツチームに細かいリーグが存在するのは、そうすることが社会のためにも、それを楽しむ人のためにも有効であるからだ。また狂言や茶の湯といった趣味は、札束を握りしめて都会に来たら参加できるというものではなく、様々なコストを高く設定することで参加者をしぼっている。コストの支払い能力によって区分を設けるのは普通のことだ。

皮肉も同様に、本来人を選ぶ表現なのだろう。にも関わらず、現代では無差別にまき散らされ、全方位から批判される。これからは茶道教室みたいに「皮肉クラブ」を作り、倫理性で階級を分けておのおので楽しめばいいのだ。もっとも極端な階級の部屋を開けるとシャルリー・エブド並みの露悪的アイロニーが飛び交っていて、あまりの酷さに「何だこの部屋は!俺は帰るぞ」と言う人は山科区民が経営するぶぶ漬け専門店に案内される。こうすれば何のトラブルも起きない。

表現の責任と公共性の責任

冒頭にあったレストランの話は、ランダムなコースが値段の説明なく不特定多数に提供されるからダメなのだ。入口に「ゲテモノコース 50,000円」「通常コース 4,000円」「ワンコイン定食 500円」と書かれたメニューがあり、客が選ぶスタイルならば全く問題はない。価格やサービス内容に理解を示さない客が入ってきてしまうのは、ドアを開けっぱなしにしている店側が悪い。料理に罪はなく、興行主のデザインによってコントロールできるはずのトラブルだった。

似たような構造で、たびたび公共の場での性的広告が問題になる。大阪駅にスマホゲーム『雀魂』の広告が掲示されて炎上。日経新聞に『月曜日のたわわ』の全面広告が掲載されて炎上。いずれも露出が多かったり乳房が強調された二次元キャラクターが描かれているものだ。憲法で表現の自由が保障されている以上、いかに「道徳的に悪い」ものであってもその表現を殺すことはできない。ただ、それを公共の場に引っ張り出してきた企業・自治体・興行主の責任は問われる。

皮肉もおなじことだ。切れ味の鋭い皮肉は狭いところに隔離しておくべきで、そんな代物を誰でも見える場所に引っ張り出してきたやつが悪い、というのが今後の落とし所になっていくと思う。というか、シャルリー・エブドがそうだったんだろう。「皮肉が分からない奴は放っておこう」という方向へ進み、人が死んだ。だけどこの結末は宗教が絡む複雑な場合だったからで、きっと他のパターンならうまくいくはずだ。ソ連が崩壊したのは共産主義がダメだったからじゃない。「ダメな共産主義」だったから崩壊したんだ。次こそはうまくやってみせる。

現状のお笑いは劇場という物理的な制約があるため、内容を限定したライブは集客が難しいように思える。となると、例えばDiscordやテレグラムだけで限定公開されるめちゃくちゃ過激なライブとかが今後流行りだすんじゃないかな?もう流行ってる?

最後に好きな動画を載せておこう。脱原発に関する講演会で、ザ・ニュースペーパーの松下アキラ氏が披露した漫談(演説)だ。

別に政治的なネタが好きなわけじゃない。彼は適切な場所で、適切なテーマで、適切な切れ味で全員に斬りかかっている。でも「あいつにいきなり斬られた」と言って、誰が信じるだろう?こんなにいい加減なやつが、刃物をもっているわけないじゃないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?