老いという名の幻肢痛

執筆時点で34歳。まだまだこれからだといわれる一方で、老いの足音も少しずつ聞こえている。肩や腰がミシミシと鳴る。頭は冴えているほうだと思うが、寝不足の時などは言葉に戸が立つことがたまにある。老いというものについて考えることも増えた。

少し前に若年の落語家さんたちと一緒にお笑いライブをした際に、桂源太さんが噺の中で演じていた女性が妙に艶やかで、なんなら少しHな気持ちになった。対して高齢の落語家さんが演じる遊女なんかにも妙にリアリティを感じることがあるが、これは一概に演技力に依存した話ではない気がしている。ここには、「女性に見えないがゆえに、女性に見える」というオクシモロンが隠れているようだ。男性が老いてゆくと、これは生物学上の必然として、男性性と活力を失っていく。テストステロンが減少し、性機能や肌のハリが失われ、おばあさんだかおじいさんだか分からない見た目になってゆく。だが、中性的な見た目になっていくから女性の演技がリアルになるという話ではない。

若さを用いて演技をするとき、その活力によって演じられる主体は演じられるまさに「そこ」に表出する。しかし中年のお笑い芸人がランドセルを背負って小学生を演じているとき、演じられている小学生はそこには到底存在しない。青ひげを生やし身長も高いその人物が小学生には到底見えないのだが、しかし小学生は確かにいて、その場所は見る者の脳内である。最近そうしたある種の共犯関係のなかに、「老い」のヒントがあるように感じている。

能力、つまり何かができることや何かを生み出すことに価値を置く社会では老いは言い訳のしようもない害であるが、そうはいっても人はみな老いてゆくのだし、この日本を含めた先進国で老人の割合はいったん増え続ける。不可逆的に老いてゆく我々が「老害」という言葉を使うのはどうなのだろうと若いころは思っていたが、芸歴も10年になろうという自分はまさに老害になろうとしていて、老いるということを自分の中できちんと再定義しようと考えていたところだった。

これはまさしく言葉遊びに過ぎないのだが、老いることは何かができなくなってゆくことではなく、「他者が介在する余白を獲得していくこと」なのだと思う。他人の助けが必要になるというのは、「他者が介在する余白」のあくまで一つにすぎない。

冒頭で話した落語家や芸人の話でいうと、老いによって演技の中に「どれだけ他者の想像力が入る余地があるか」という点が変化してゆく。若い人の演技は想像の入る余地がないほどに豊かでみずみずしいが、老いた人の演技には想像力で補わなければならない余白が生まれる。リアルを追求する場合、この点はネックになる。例えば学園物のドラマに20代後半の俳優が出ているとさすがにちぐはぐな印象を受けるが、それは「リアル」が直接的なものだからだ。対して「リアリティ」とは、見る者の脳内にあるものである。その意味において、落語とはリアリティの芸であるとも言えるだろう。扇子はキセルではないのだが、それゆえにキセルになる。ならば若くないからこそ若く見えるものだし、女性でないから女性に見えることもあるというものだ。老いは単なる喪失だとわかっているのだが、それはレトリックの舞台の上で獲得のプロセスへと明暗を反転させる。

鷲田清一がかつて書いた本の中で、同じように老いについて書いていたのを覚えている。私が受験生だったころ(今もそうなのかもしれないが)鷲田清和はよく入試問題に使われていたので、何冊か読んでおこうと本屋で立ち読みした記憶がある。彼は、老いてからの人生や老いた者の位置づけが完了していないままなのに日本は高齢化社会に突入したと書いており、ホスピスや介護施設での経験から相互ケアの重要性を説いていた。書名は『老いの空白』。若かった私にはピンとこない話だった。タイトルの「空白」は”老いてからの人生や老いた者の位置づけが完了していない”部分を意味しているのだが、意味は違えどまさに空白を獲得していくことが老いの本質なのではないかと、老い始めた今になって噛みしめることができるようになった。

最近は男性差別になるので使われなくなったが、平成元年の流行語になった言葉に「濡れ落ち葉」というものがある。

「払っても払ってもなかなか離れない」様子から転じて、主に定年退職後の夫が、特に趣味もないために、妻が出かけようとすると必ず「ワシも(付いて行く)」と言って、どこにでも付いて来る様子を指すようになった。
(中略)
働いている間は仕事に追われるあまり趣味を持つことはおろか、家庭を顧みることも、地域での活動に参加することもなかったため、退職後いざ何かを始めようと思ってもそのために必要な人間関係もなければノウハウもなく、またそれらを得るために努力しようという意欲もエネルギーもない状態である。
このような状態に陥るのは男性が多いとされ、その原因の1つには男性ホルモンの低下があると言われている[5]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%A1%E3%82%8C%E8%90%BD%E3%81%A1%E8%91%89

これは、老いによる空白の大きさとその埋め方の差によって生じるどさくさなのだと思う。多くの他人と接する仕事をし、それを退職したとしても、若ければ自分でその空白をいくらでも埋められる。しかし老いる中で大きくなった実存の空白を知らず知らずのうちに他者に埋めてもらっていた人が、急に更地に放り出されることで濡れ落ち葉症候群が起きるのだろう。いわゆる「中年の危機」にも同じ根があるように思う。

かつて「長老」に地位があったのはその共同体の中で最も知を蓄えた人物だったからだ。しかし長老の価値は情報技術の発展と、どこからでも人を引っ張って来れるグローバル化によって解体されてしまった。老いによって機能が衰えていくのは事実なのだから、何らかの機能を担わせる形で老いを再定義していくと、いずれいたちごっこに陥る。助け合いやケアの文脈で老いを語ろうとしても、それは何かができる側ができない側にリソースを割くという、またしても能力の文脈からの話になる。「助ける側にも学びがあるから」といった価値の創出もまた同じだ。十全たる理性を人間性の根拠とするような哲学の派において、意識のない人間の尊厳死を論じることができない問題と似ている。老化、事故、病気によって何かができなくなっていく人間の価値をどうするのかという問題に、社会的な価値を再定義してやるというソリューションをぶつけるのは悪手だ。格闘ゲームみたいに運営から定期的なナーフとバフが繰り返されるならまだしも、個別の人生はそうならない。私の「運営」は私しかいないのだから。

切断して存在しないはずの手や足に痛みを感じる症状を幻肢痛といい、心身症に分類される。つまり麻酔や鎮痛薬が効かない。この幻肢痛の治療法の一つにミラーセラピーというものがあり、体の真ん中に鏡を立て、存在しない側の腕や足があるように見せかけることで痛みが軽減することがあるのだという。また義肢を装着することで痛みが和らぐ場合があるのだそうだ。体(からだ)がある体(てい)を演じることで痛みが軽減するのは、非常に面白い。喪失の痛みは騙されることによって相殺されるのだ。

漫才の中でスーツを着たままデートに行く漫才師。コントの中で学ランを着るコント師。お笑い芸人は、よく見た目が若いといわれる。社会経験が少ないから、という身も蓋もない理由もあるが、老いの鎮痛剤というのはこうした「虚の授受」という形の共犯関係の中にしか存在しないのかもしれない。

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