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遺書

"忘れもしない今年の5月18日。"

この一節からはじまる遺書が、ネット上に公開されている。

アニメ監督の今敏氏の遺書だ。享年46歳。亡くなってからもう10年経つのだけれど、僕は折に触れてこの遺書を定期的に読み返している。

そこには死に至るまでの過程が克明に記録されていて、それ自体が一つの作品となっているからだ。

この遺書について、だれかが今敏の事実上最後の作品だ、と、書いていたことがあるのだけれど、まさにその通りだと思う。

だけど、素直にはそう認めたくない気持ちもある。

全体的に見て、彼の遺書はちょっと綺麗すぎるのだ。

死の受容過程における否認や孤立、怒りなどがほとんど記述されておらず、オブラートに包まれている。

もしも遺書が彼の作品だとするならば、その点も含めて表現していたはずである。今敏はそういう作家だった。

もっとも、この遺書が彼のファンはもちろんのこと、彼の作品を見たこともないような人々の目にも触れるであろうことを考えると、それも仕方がないのかもしれない。

そもそも彼は、小説家でもなければ、エッセイストではない。アニメ作家なのだから。

当然のことではあるが、文章は言葉で表せる範囲のことしか表現できない。また、アニメは映像で表せる範囲のことしか表現できない。

その中で彼はアニメの道を選んだ。

今敏は、宮崎駿や細田守のような作家とは違った。彼は大衆受けするような作品は作らなかった。そして作中にメタファーを多用するような作家でもあった。だから初見では分かりづらいかもしれない。

それでも彼はアニメ監督として、さまざまな人の評価を勝ち取ってきた。

メタファーに関しては、たとえばパプリカという作品で多用されていた。

パプリカは筒井康隆の小説を元に作られたアニメ映画で、"DCミニ"という、他人の夢に入り込むことができる装置をめぐる話を描いた作品だ。

そしてパプリカには、映画独自の設定として、映画監督にまつわるエピソードが多数盛り込まれていた。

その意図は、個人的には明確だと思う。

つまり、パプリカにおけるDCミニこそが、われわれの世界における映画館なのだ、と、表現したいのだと思う。

そう、映画のパプリカにおいて、DCミニは映画館のメタファーとして機能しているのだ。

この映画には、とある科学者が「素敵ですよね。友達の夢を自分の夢みたいに見られるのって、同じ夢を一緒に」と、口走るシーンがでてくる。これは完全に、映画館で作品を鑑賞している観客に向けられた言葉だろう。

今敏にとって、映画は夢そのものだった。そして、その夢を共有する場所こそが、映画館だった。だからこそ、原作にない設定を盛り込んでまで、それを表現しようとしたのだと思う。

そんな挑戦的な表現を多数してきた作家が亡くなって、もう10年にもなる。

彼にとっては、遺書が事実上最後の作品となってしまうような状況は不本意だったろうし、まだまだアニメを作っていきたかったろう。

だけど、アニメに対する思いだとか、悔しい気持ちだとか、そういったものの残滓は確かにそこに表現されている。だから、ぜひ読んでみて欲しい。

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