ココア共和国2022年4月号雑記

傑作集Ⅰ

『誰も知らない』 高山京子
物語形式の詩は、すごく難しいです。この少ない文字数のなか、起承転結を組みこまなければならない。この詩はそれを見事に達成していて、そのうえ孤独が、一瞬ですがはっきりとした煌めきがあります。

まったく隙がありません。この記事を書くうえで、全文を引用しないように気をつけているのですが(販売されているものなので)、長時間悩み2行だけ省かせて頂きました。そして、救いようのない詩です。この詩の読者だけがすべて知っていますが、現実はそんなものではありません。私は、この詩を簡単に読むことができません。読みやすくはありますが、胸が苦しくなってしまいます。そして、読者として申し訳なくなってしまう。あまりに美しく、孤独にすぎる。「夥しい数の水彩画が遺された/それらは彼女の死とともに/ひとつ残らず空へと舞い上がった」これは葬式で、一緒に焼いてもらえたということなのでしょうか。メタになりますが、この主人公はどういう間柄なのか。神としての視点であってほしいし、あってほしくない。誰か連れ添う人がいてほしい気持ちもありながら、貫いて孤独であってもほしい。たぶん神視点なのでしょう。胸の奥にずっと、この娼婦が離れません。力強い詩です。


『会いたい』 風 守
昭和の歌が好きです。マニアというほどではないのだけれど、60歳にさしかかろうとしている父母と、さほど変わらない知識くらいはあります。「最近の〜は」という小言は1000年以上前から続いているらしいですが、それは1000年以上前から人々は変化し続けているということなのでしょう。最近のJPOPと、「ニューミュージック」と呼ばれた世代の方々の歌は、違います。それは誰の目にも明らかでしょう。良い悪いではないのですが。
それで言うと、この詩は昭和のにおいがします。メールが出てきますし、古い単語は何ひとつ使われていません。が、それでもやはり、私には到底書けないし思いつきもしないものです。主人公の年齢がそのにおいをさせるのでしょうか。

昭和のにおいは、どこからなのでしょう。マンションを見上げる主人公、嫁いでゆく彼女、海に消えてしまう2人。べつにいまの時代にもありえるのですが、あまり描かれなくなったことを描いているからかもしれません。
そして、描くべきところを描いていません。主人公の、妻子との出会い、彼女との出会い。主人公を含め、登場人物誰もがどのような性格なのか、まったく描かれません。ひとつの詩の中で大きく時間が進みますが、ずっと静かなままです。満月にはじまり満月におわるこの詩は、何が起こるということでもないのですが、「私も会いたい」がすごく印象的です。しかし、それから一緒に暮らしました、とはならない。それとも、「深い深い海の底へ」は何かのメタファーなのでしょうか。美しいです。


『キラキラ』 佐藤咲生
私も先日、葬式に行きました。3年ほど前に初めて葬式に行ったときにもそうだったのですが、かなり近しい人だったのにも関わらず、うまく悲しむことが出来ませんでした。それからというもの、ずっと死について考えています。作者さんはこの詩で、死への姿勢として、ひとつの答えを出しています。

葬式は3行で終わってしまいます。でも、死についての詩です。日本では、死は荘厳なものと扱われます。何をしても品がないのではないか、その場にそぐわないのではないか、と思ってしまう。遠い国では、街なかを踊りながら弔うこともあると聞いたことがあります。それもまたひとつの答えなのでしょう。作者さんは、そこまではいかずとも、この独特の重々しさが窮屈です。どれほど悲しんでいたって、普段纏わない衣服に心弾むこともあるでしょう。「誰が死んでもそれは所詮、/私の感受性を超えられないのだ、」扱いにくいテーマを、キラキラした光を纏って振りかざしています。励まされるし、心が軽くなります。


『刃物』 ウロタンケツ・ケタ
おもしろいです。これを書いて、送ってしまえることがすごい。初心者にはなかなか出来ないのではないでしょうか。

詩は、脳内だけで展開してゆきます。何の含蓄も(たぶん)ない。でも、この試みは分かります。何も無いところからすべてを作ってしまう快感。たぶん、この詩は、展開を練ってから書き上げているのではないと思うんです。少なくとも、詳細には。でも、1行はじめると、すらすらと描かれてしまう。作者さん自身にもどうなるか分からなかったのではないでしょうか。読み手にもそれは伝わります。緩やかな緊張、爆発する自由。手の加えられていない隙を見せつけながら、この詩の着地はこうなりました。テーマも重要なのですが、馬鹿馬鹿しくてすっごくいいです。こういうと簡単に聞こえますが、やってみるとすごく難しいです。思いのままに(なにも思わずに)詩を完結させないといけない。豊富な経験と、卓越した胆力がないと描ききれません。
私がこの手の作品が好きなのは、なにより作者さんをあらわすからです。アドリブ1回きりのジャズ、落語。文章は好きなだけ推敲を出来ますが、それを極力抑えることで出来たものです。そしてこういった類のものは、飽きることがないです。何度も読みたくなってしまう。とはいえ、もしかすると、作者さんの練りに練ったものかもしれませんが……。

傑作集Ⅱ

『きみと約束』 猫月奏慧
何でしょう……。ごく個人的なことをいうと、私の好みのテーマではありません。でも、すごくいいです。胸が打たれました。ひとえに、作者さんの力によるものです。どうにも、まいってしまいます。

これ。きみは男の子なのでしょうか、女の子なのでしょうか。そんなこと考えるのも不粋ですが、やっぱりこの詩の魅力はそこだと思います。如何様にも受け取れる。主人公は女の子です。「母親になっても」を軽く言えることから、同性愛の女の子ではないのかな。
きみの姿は、はっきり見えてきます。この主人公も見えてくる。でも、きみの顔の部分だけが、もやもやとぼやけています。若くて青くて、でも、その青さを自分でも知っている主人公。だから「はかない約束かもしれないけど」と思ってしまう。青すぎないんです。そこがまたいい。
「私の親友よ」を最後に置いてくるところに複雑な感情を想像してしまいます。自分に、相手に言い聞かせている向きもあるんじゃないか。親友は親友に留まります。作者さんは、すべて分かって書いているのでしょうか。「きみのこと大好き」こんなことを詩に起こしてしまえるのってすごいです。何度読んでも、何度でも誰かを想起させてくれる詩です。


『十九歳』 塔いさな
19歳というのは、複雑な年齢です。20歳を、大人を目の前にしてしまう焦燥、死ねない絶望。20歳になったら死のうと決めるのは、なにか共通したものがあるのでしょうか。文学作品にも時々出てきますね。

19歳の彼女は、彼女を遺して逝ってしまいます。これは、絶望を越えた希望でしょうか。主人公自身でさえ、自分がどうなるのか分からない。嘆いても嘆いても死ねない。生きてしまう。すごく分かります。自意識の詩です。自分の顔さえ分からなくなる。自分のことが分からなくなる。それまでの自分が分からなくなるから。忘れてしまうから。それを「脊椎から枯れ生える生々しい無意識」としています。


『他人家族』まほろばしじみ
これは、何でしょう。何が描きたかったのかが分からない。『笑ゥせぇるすまん』を思い出しました。

うーん。むつかしい。面白いのは、みんな狂っているところです。主人公も、知らない家族も狂っている。太陽も狂っています。この詩は主人公によって書かれています。そこがすごいです。語り手を1人称にしている。狂った主人公というのは、語らせると、あざとく見えてしまいます。それを書いているのは主人公ではなく、作者さんなのですから、すべてわかって書いているはずなのです。でも、そんなこともーー作者さんの正常性もーー感じさせないところが凄まじいです。
哲学を感じるとすれば、家族についてでしょう。血の繋がりというものの信ぴょう性。そこに疑問を抱いているのではないでしょうか。自と他、とは何なのか。ここで主人公が住みつき、帰ってきた主が拒否されたら、何が正しいのでしょう。「おかえりなさい」「いってきます」も印象的な、すごく面白い詩です。


『気づき』芋幹
不思議なことに、似たテーマの詩が同じ月に寄せられることがあると、いつか何かに書いてありましたが、今月は若い恋愛が多いのでしょうか。でも、すべて、毛色も角度もちがうから面白いです。

とても可愛い詩です。私はいつも、引用しながらその詩の完全性を考えます。なるだけ不要(と思える部分)は省きたい。この詩たちは売られているものですから。でも、無理でした。この詩はすべて必要でした。この詩は完全でした。のどがかわいて地面が遠くなる主人公。ここ、面白いですよね。「浮き足立つ」を具現化しているのでしょうか。「ピアノみたいな声」もすごくいいです。単純だけれど出てこないことば。かっこつけようとすると出ません。こんなことを思いついてしまう、ことばにできてしまう感性が羨ましい。
構成、段わけのしかたが、詩に慣れている感じがします。「八月」と繰り返されるところなんて、姿勢を正してしまう。「暑いけど、暑苦しくない日」変にことばを覚えないでほしい、と思いました。この率直なことばたちが、心を打つから。世界観が少しふわふわしていて、現実とはちがう、ちがいすぎない、オリジナルなここを、保ち続けてほしい、私も読み続けたいです。



傑作集Ⅲ

『え』宮園伊雪
思考を詩にすることは、かなりむつかしいです。限られた文字数の中で、起承転結を作らないといけない、詩を組み入れなければならない、そしてその思考がおもしろいものでなければならない。「ならない」なんてないのですが、少なくとも、これらがないと、評価されにくいのではないでしょうか。そして何より、「これが詩でなければならなかった理由」がなければならない。ここにはそれがあります。

ここには作者さんの怒りがあります。疑問があります。芸術論をここで語るつもりはありませんが、人それぞれにあるというのが答えでしょう。岡本太郎が、「これはなんだ、が芸術だ」と言いましたが、「これはなんだ」も人の感性によるものです。何でもかんでも芸術だという向きがあり、高尚なもののみが芸術だという向きがある。後者に疑問を呈しています。「ノートで踊る神龍」「モールの壁に張り付く蜘蛛」このあたりの選び方がすごい。ぱっと出してしまえるところに、普段からどれほど芸術について考えているのかがうかがえます。バンクシーが最近とみに注目されていますが、あれは(たしか)落書きを発端にしていますよね。それもこの詩の説得力を増しています。「橋の下/声が聞こえる」「落書きと芸術を区別する/善悪を人に委ねる/そんな世界では生きられないってさ」そしてこの終わり方。かっこいい。これは詩でしかできないことでしょう。タイトルにもこだわりを感じます。作者さんの論をきちんと読んでみたい。


『悲しみ18号』 近藤太一
なにかにつけて思い出す言葉があります。きっと、心がそれに励まされたくて思い出しているのでしょう。私はこの詩が、誰かの(そしてもちろん私の)そういう存在になると思います。

すごくいいです。くどくどと説教を垂れることなく、読者を励ましてくれます。すべて台風であらわしてしまうのがすごい。「ニュースキャスターは口元がゆるみ/天気予報士の伝言は延期になった」ここがまたすごいです。読者の口元もゆるんでしまう。ほっと安心する。寓話というか、ひとつの現象であり、現実味を帯びているから説得力があります。台風が出来たり消えたり、と思えば晴れたり、ということってありますよね。それをただ描写することでこうも人を励ますことが出来るのか。作者さんのすごさは言うまでもなく、想像力、読むということの強さも感じさせます。オレンヂジュースとオレンヂの太陽も重なりあって印象深い。みんなきまぐれなんですよね。あたたかい詩です。

佳作集Ⅰ

『祝福』 真城六月
ううん??ぱっと読んで、分かった気になったのですが、いや、やっぱり難しいです。

ほっこりしました。あたたかくも、どこか寂しい詩だと思いました。1度読んだときには。
何度も読んでいると、不気味に思えてきます。この主人公は何者なんだ……?「君」のことを知りすぎている。わりに、現在の「君」のことを知らなさそうです。文学作品には、神の視点というものがあります。メタ視点といえばいいのかな。作品はすべて、作者さんの脳内で起こっていることですから、作者は(そして読者は)作品のなかと違う世界に住んでいますよね。映画やドラマでいう、カメラ視点。わくわくどきどきするけれど、じゃあ、これを写しているものは何なんだ……?という。鑑賞者的視点。それと、第二者の視点
、物語の登場人物の感情と、描写を混ぜてしまったような感覚。ここの中で語り手は、登場人物なわけです。電車に乗っているのだから。外を眺めているから。なのに、「君」しか知らないようなことを知っています。あるいは語り手は、「君」から色々と聞いたのかもしれない、家の中に入ったのかもしれない。もちろん、その線もあります。それが妥当なのかもしれない。でも、それは作者さんの思惑ではない気がするんです。
「君が閉じこもっていた家/洗濯物が干されていた/いまは誰が住んでいるんだろう」「まだ誰かいるんだろうか」ここ、間隔が空いて書かれているんですが、矛盾しています。洗濯物を見たなら、誰かいることに気づいていますよね。「かつての君の家」「君のいた家」「君がもう住んでいない家」と何度も言い回しを変えるのも……何度も同じ文章を繰り返すのが気持ち悪いという考えも充分分かるのですが、なんだか意味を探してしまいます。どんどん家を「君」から遠ざけた言い方をしていないか……?
じゃあ、何が正解なのかというと、分かりません。作者視点で、描いてしまった「君」のことを思っているのか、とか、あるいは「君」は死んでいる自分自身のことなのか、とか。閉じこもっていたのは、内なる自分なのか、とか。少なくとも、友人のような位置にこの語り手を置くよりは違和感がないのですが、「君がわたしに電話をかけた」だけがどうしても合いません。なら、やっぱり友人なのか。どの視点からとっても、まったく別の感情を抱くことができます。こんなもの、いままでにはちょっとなかったのではないでしょうか。作者さんは、狙って空白を作られているのでしょうか。あるいは偶然なのか、私の解釈違いなのか。分かりませんが、作品というものを広い視点で見直すことが出来ました。もちろんタイトル通り「祝福」という意味でとっても、素敵な詩です。


『牛乳配達と精液と宇宙人』 西川真周
これが詩なんだ!と思いました。もちろんさまざまなかたちがあって、たくさんのものを許す間口の広さが詩にはありますが、私の理想とするものは、これだ、と。

完全な詩、ということをさっきも書きました。引用の必要ない箇所がない詩です。隙のない詩。この詩も引用にかなり悩みましたし、ほとんどすべてが、この詩を語るうえで外せないものでした。そして、しかし、ほかの「完全な詩」とちがうのは、誤解を恐れずに言えば。すべていらないものでもある、ということです。そしてそれは、私にとって理想のものです。ココア共和国のものにかぎらず、ほとんどすべての詩は、動機があって書かれます。この恋の辛さを描きたい、あの花火の美しさを描きたい、こんな怒りをぶっつけたい、何らかの「その詩を書いた意図」が見え隠れし(あるいははっきりと描写され)ます。はっきりと描写されているものは、この記事ではあまり取り上げていません。というか、多くの感想書きには取り上げられない。だって、共感か反対かしかないから。そこに考察の要素がありません。もちろん一節一節の美しさ、技巧について語れますが、やはり、それらも、はっきりとした主張にはあまり使われないです。
話が逸れました。この詩は、前者ふたつどちらでもない、「意図がない」ものです。作者さんは、何か物語を描きたかったのではないでしょうか。牛乳配達、浪人生、くらいは頭にあったかもしれません。あるいは、「閑静な住宅街で変なことが起こる詩を書こう」くらいには考えられていたかもしれません。しかし、私には、とりあえずそこで筆を執り、なりゆきに任せて走らせたように見受けられます(ちがったら申し訳ありません)。だって、こんなもの、物語に身を置かないととても描けないです。
「それとね 閑静な住宅街っていう いかにも平和そうな場所ほどこういう変なことが平然と執り行われているものなのよ」「この世に何ひとつ無駄なことなんてないの この時間も/あなたが毎朝配ってくれる牛乳も そしてもちろんあなたのこの精液も」ここが、作品の肝です。作者さんは、これが言いたくてこの詩を書いたのでしょうか。いいや……ちがう、と私は判断して進みます。同じ言葉でも、ジャンプの主人公が「あきらめるな」というのと、村上春樹が演説でいうのでは受け取り方が異なります。何も無いところから何もかもを作る。それは、明確なメッセージを以て作られるものと毛色が違い、そしてだから、言葉の重みも変わります。この詩でなければ、この詩のこの展開でなければ、この言葉たちはこのように私たちに受け取られません。「書いていると、生まれてしまった」もの。それは作者さんの心の内にこびりついてとれないものです。教訓めいていない、説教臭くない、ばかばかしくて、でも、心に残ってしまう。こんなものを私は書きたいです。


『蛇と紐』 酒井 創
ううん、面白いです。こういうものもあるから、ココア共和国はすごいです。詩はすごいです。

サマセット・モームだったかが、「どんな髭剃りにも哲学はある」と言いましたが、これはその髭剃りを分かりやすいかたちで哲学にしたのではないでしょうか。捉えようはさまざまあります。蛇と紐は同じ場所から入ってこないし、去りません。紐は能動的に去るのか?あなたは私(読者)なのか?その空間はどこなのか、どうしてもう何も入ってこないのか、それまでに何か入ってきていたのか。何も説明がありません。蛇が先に入ってきたことには、理由があります。先に紐が入ってきたら、きっとあなたは動くことができたでしょう。なまじ、先に蛇が入ってきたものだから、似たかたちをしている紐にも触れられなかった。作家の名前ばかり出して申し訳ないのですが、村上春樹の文章を思い出しました。たしか『1973年のピンボール』のなかでだったか、「女の子が入ってきては出ていってしまう」というような文章。主人公はからっぽです。ただ入ってこられ、歓迎し、それでも出て行かれてしまう。ちがうのは、入ってくる場所と出ていく場所が女の子は同じですが、蛇と紐は異なるところです。蛇は事故でしょうか、紐は幸運でしょうか。色々な考え方ができます。この空白でシンプルな詩をつくれてしまう、送れてしまえる自信がすごい。そして、たしかに面白いんです。


『蛙』 Ikep
ただグロテスクなだけではありません。美が、苦悩が、矛盾が、純粋があります。

さまざまな解釈ができます。突然出てきた「僕」と蛙を殺した少年は同一人物でしょうか。あるいは、僕が殺したのが少年でしょうか。少年と僕はまったく関係ないのでしょうか。子供は2人ともどちらでもないのでしょうか。同じ詩の中に書かれているのですから、無関係ということはないのですが、正解はないと思います。
で、私の解釈なのですが、「僕」と少年は同一人物だと思います。残虐な事件を起こす少年が、それまでも様々な、人並み外れたことをしていたとマスコミに後から報道されることってありますよね。少年と僕は、描写がちがいます。少年は蛙を叩きつけ殺しているシーン。僕は逃げているシーン。どちらも、常人では考えられない行動をとっています。蛙も人も、普通の人には殺せません……が、本当にそうか?と。少年とちがい、僕の行動には親近感を覚えます。普通の人間のする行動です。でも、この僕は(少年は)人を、蛙を殺しています。僕が人を二階から落としたとき、笑顔だったのではないか。夢中だったのではないか。これらは、何もかも狂った人間が起こすことではなく、人を殺めてしまうと隠したくなる逃げたくなる、人らしい人がやったっておかしくないのではないか、私もあなたもそうなる可能性がないと言えないのではないか。夢中、のこわさをあらわしている、と思いました。
この詩のすごいのは、まったく逆の、つまり、少年と僕はちがう人間だという解釈でも成り立つ点です(その方が説得力はある)。そしてどちらも主張が違い、どちらも面白い。タイトルを『蛙』にしているところも深読みをさせます。

佳作集Ⅱ

『家庭内人体改造』 天原・落
これも、様々な読み方があります。難解な詩です。思うのだけれど、こういった詩で、作者さんの思いをまるまる受け止めることって、不可能なんじゃないか。

国語の問題の題材に小説を使われた作家が、伝えたいことと国語の答えが全然違っていた、というようなことはよく言われます。正解なんてないんですよね。きっと。私は私の受け取り方をしたので、作者さんに「ちがうよ」と言われても、受け入れるけれど納得はできないかもしれない。
言い訳はこれくらいにして。自分を信じて進んでみます。「必死な顔が居る」ここが重要です。この顔は誰のものなのか、なぜ必死なのかは、詩の中で語られません。そして、ガラス玉には顔は映りますが、あめ玉には映らないでしょう。「いる」ではなく「居る」にしています。これは、孤独をテーマにしているからではないかと思います。「不思議なおうち」に住んでいたころ、主人公はガラス玉を腹の底に入れることができました。なのに、一人暮らしになってから、あめ玉は口に入らない。どころか、ガラス玉になって「床の上にコロンと」してしまった。吐き出したのでしょうか。なにも居ない家で、主人公はひとり、あめ玉を飲もうとして吐き出し、ガラス玉にしてしまった。不思議なおうちでは、ガラス玉を飲みましたが、一人暮らしでは飲むことができません。そして、「哀れで必死な顔が居る」です。勝手に裏を作ってみると、主人公はこの「不思議なおうち」が嫌で仕方なかったのではないか。だって、不思議だから。何も言えないから。だからずっと「必死な顔」だった。出て行きたくて苦労した。やっと一人暮らしを始めることができた……ここで、「久しぶりにあめ玉を」口に入れた。この「久しぶりに」というのがミソです。それはガラス玉だったのではないか。「不思議なおうち」だったのではないか。不思議なおうちから出た主人公は、それをもう飲みこむことが出来ない。戻ることが出来ません。だから「哀れで必死な顔」を最後に置いたのではないでしょうか。
ううん。むつかしいです。タイトルの「人体改造」に沿って、文字通り主人公は人体改造されたのかもしれません。つまり、ガラス玉をあめ玉に、あめ玉をガラス玉に変えてしまえる身体に。異議を言えない主人公の哀れな結末……というのも解釈としては(たぶん)おかしくないのですが。どうでしょう。むつかしいですが、空恐ろしさがあって、単調なのに奥行きがあって。すごく好きです。


『なみだ』 おおたにあかり
不思議な詩です。物語的な詩ではないのに、そこに物語がみえる。語られないのに、想像してしまいます。できてしまいます。

「お風呂の中で」ここしか主人公を想像できる描写はありません。なのに、表情が浮かんでくる。悲壮感が伝わる。どうしてなのか。女の人の姿がみえます。「私」という一人称だからでしょうか、いや、ちがいます。言葉の端々がその姿を作っているのではないでしょうか。そしてこれは技巧的な試みではなく、熱から生まれていると思います。作者さんのどうしようもないほどの熱量が、作者さんのこの詩のイメージをこちらに伝えてきます。でも読んでいて苦しくならないのは、描写が心理に特化しているからです。なのに情景が伝わる……ちょっと、これまでにない詩です。
枯渇。枯渇を表現するのに、欲求を書き揃えているのに、独りよがりにならず、読者が置いてけぼりにされないのは、ここに優しさがあるから。共感があるから。タイトルを『なみだ』にするのもいいです。じわじわと来るものがあります。


『カラスの目の絵本』 沃野文音
綺麗。技術を感じます。推敲にかなり時間をかけたのではないかな、と思いました。

カラスの目の絵本。これは絵本なのでしょうか。私、絵本が大好きなのですが、たしかにそれぞれの描写の絵が浮かびます。最初はテンポが同じです。カラスの目が見つめてゆく景色。ここが……水たまりの出現によって物語が動きます。その違和感がありません。気づけば動いている。目にフィーチャーし続け、その目から涙が溢れる。この動作のスムーズさ。私の好みなのが、カラスの感情が描写されないところです。カラスはただ、じっと見ている。私たちに分かるのは、「ひとりぼっちをやめようと」したことだけです。涙に濡れ、目の前に集まったカラスたちを見て、黒く、強くなったカラス。ううん。いいです。動物をテーマに扱うと、画一的に、似たようなものになってしまいがちなのですが、特別にかっこよく、優しすぎない。この絵本が出版されたら、絶対に買いたい。

佳作集Ⅲ

『探しもの』 にごび
ほうぼうで使われ、もう尽きたと思われているテーマがあります。でも、だからこそ、こんな風におもしろくできます。

不穏な終わり方です。読みながら、ああ、どこかで居心地のいい再会をするんだろうな、とか、何か教訓めいたことを言い渡されて消えてしまうのかな、とか、そういうことを思ってしまいましたが。ちがいました。「どうかしら」です。そして、ベンチを探していた主人公。何かの隠喩でしょうか。「寂しい 会いたい」をそっと置くところが絶妙です。感情移入できなかった読者もそう思ってしまう。明かりに会いたい。明かりは人に替えることもできる気がします。突然消えてしまった恋人。だから、「たぶん おそらく きっと」なのでしょうか。私は希望に近いものをこの詩に感じました。


『明日晴れたら』 九条 輝
思わず声が出てしまいました。感嘆。シンプルな、でも想像の余白がある。こういうものに弱いです。

シンプルながら、こだわりを随所に感じます。「翼が濡れちゃうわ」から、語り手は人ではないことがわかります。そして……屋上にいたのは先客。「空が綺麗だ」とつぶやいている。彼(彼女)も人とかぎっていません。でも、人かもしれない。
そしてしかし、本題はそこではありません。本題はなに?「あの綺麗な空を/もう一度見たいわ」語り手のこれがすべてです。こんなことを言うと誤解されるかもしれないのですが、どうしてこれを聞かされなければ(読まされなければ)ならないのでしょう?詩みんながそうなのですが、でも、この詩にはことさらに感じました。なのに、あたたかいものを感じます。あまりにピュアだから。語り手はひとりです。「誰か」を避けます。でも、ひとりではありません。感情を同じくするひと(動物)がいる。少年少女のような詩です。なのに、いらないものがない。必要なものしかない。大好きです。


おわりに

この記事も4つめになり、たくさんの方の名前を覚えられるようになってきました。そして、だからこそ、いつも取り上げてしまう方の詩に、少し戸惑ってしまいます。私の好みに偏りすぎているんじゃないか。同じ方ばかり取り上げるのは良くないのではないか……。でも、やっぱり取り上げてしまいます。面白いから。広めたいから。深めたいから。逆に、いつも面白い、好きだな、と思っている方でも1度も取り上げていなかったりします。それは、私の、もう進めないところまで進み、深くにたどり着いてしまっているから。もっともっと掘っていけるように頑張ります。
Twitterにも書きましたが、今月中にもう一本出す(予定)です。2年ほど前のココア共和国。とても楽しみです。

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