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『ハーフ・オブ・イット』がとんでもない青春映画の傑作だったのであれこれと書きたい

学校の中で異なるカーストのキャラクターたちが、些細な出来事をきっかけに交流をはじめ、友情をはぐくんでいく、そんな話が好きだ。『ブレックファースト・クラブ』でもいいし、『13の理由』、『セックス・エデュケーション』なんかも良い。『桐島、部活やめるってよ』もそうだ。

考え方が違うキャラクターたち共通点を見出し、それでもぶつかってしまい、それぞれがコミュニティの中で"気づかないふりをしてきた違和感"を自覚する。ビルディングスロマンに要請される乗り越えるべき躓きは、同じ顏をした他者からもたらされる。そんな他者とは、スクールカーストという見えない壁の向こうにいる、自分とよく似た誰かである。

『ハーフ・オブ・イット』の主人公エリーはスクアミッシュというアメリカの田舎街に暮らす中国系移民だ。エンジニアである父親の仕事の都合で中国から移民し、この街で暮らし始めたが、Ph.D.を持つ父親は"英語力"が理由でコミュニティになじめず、仕事も芳しくない。娘のエリーは担任の教師から私立大学への進学をすすめられるほど頭脳明晰だが、父親と同様にコミュニティになじめず、学校でも孤立している。

エリーには秘密がある。学校でも評判の美少女アスターのことを愛しているのだ。自分のセクシュアリティが同性に向いていることを、友達はもちろん(そもそも友達がいない)父親にも話せていない。学校でアスターの姿を見つけ、彼女を観察することで、自分の恋心を満たしているに過ぎない。

ある日、エリーが学校から自宅に帰る際に同級生のポールから声をかけられる。「ラブレターの代筆をしてほしい」今まで幾度となくクラスメイトのレポートの代筆をこなしてきたエリーだったが、ラブレター?しかも、その宛先はアスター。断りたい気持ちはやまやまだが、実家の電気代の支払いが滞っており、高額の報酬につられて止む無く代筆を引き受けるエリー。

手紙とチャットを介したエリー、ポール、アスターの奇妙な三角関係が始まってしまい…。

アメリカ人に英語を教える

劇中で幾度となく名言が引用される。プラトン、オスカー・ワイルド、ヴィム・ヴェンダース。エリーは頭脳明晰で教養がある。実存主義について一家言もっている。彼女が書く英語は誌的で美しい。

彼女が愛するアスターも同じだ。絵を描くのが好きで、豊かな感性を持ち合わせている。

"美しいということ"をいくつもの言い方で表す二人の女性の言葉の繊細さはスクアミッシュで暮らす同級生や家族たちからは理解されない。だから、孤独な二人はひかれていく。(アスターはポールが書いている、と思っているのだが)

エリーの父親は"英語"が理由で人生を失敗した。エンジニアになることを夢見て移住してきたが、思うように職を得られず、通過点だと思っていた田舎街の駅長になり、平凡な毎日を暮らしている。

エリーと父親には日課がある。それは古い映画を観ること。英語を勉強するために、親子二人で食事をしながら映画を観る。エリーは映画から英語とともに教養を学んだ。空しいのは、親子にとって映画は現実世界からの逃避になってしまっていることだ。映し出される世界に一方的に恋い焦がれるだけ。移民である自分たちと画面の中の世界には深い溝がある。

手紙の代筆という作業を通じて、移民のエリーは白人のポールに対して英語を教える。白人でアメフト選手で学校の"ジョック"だったポールは、エリーが書いた言葉を通じて、心の繊細さや相手を慮る作法を学び、「愛する」という、言葉にすればちっぽけだが、心と体を支配するどうしようもなく複雑な感情と向き合っていく。

エリーは英語を教えるという行為によって、分かり合えないと思っていた他者と通じ合い、孤独から抜け出していく。

鉄道とアジア人、そして差別

父親が駅長であり、エリーが毎日駅の小さな小屋に閉じこもっているのだが、これには訳がある。中国系の移民とアメリカの鉄道は切っても切れない関係があるのだ。

19世紀にゴールドラッシュの仕事を見込んで移民してきた中国人たちは、ゴールドラッシュの狂乱が終息したあと、国の一大事業であったセントラル・パシフィック鉄道の建設に携わることになる。アメリカ西部と東部を結ぶ鉄道の西側の起点として、カルフォルニアからユタを結ぶこの鉄道は人口・物流に革命をおこし、巨大な経済発展をもたらした。この鉄道の建設に携わった労働力の大半が中国系移民だった。

建設は過酷で薄給だった。ヨーロッパ移民の代替として採用され、奴隷のように扱われた。ニトログリセリンを使った工法で大量の死者が出た。そのうえ、白人の労働力を奪っているとして、黄禍論が巻き起こった。命を懸けてアメリカの礎を築いてきたにも拘わらず、不当な差別によって虐げられた。

エリーは毎日同じ時間に駅から電車を送り出している。誰にも見られず、誰にも気づかれず。コミュニティから疎外されてなお、鉄道という街にとって不可欠な機能を支えている。

描いた絵を一度台無しにして、新しい絵を描く

アジア系移民への差別、セクシュアリティの問題、スクールカースト、それに貧困の問題も。何度も何度も聞いてきた社会問題が、「はい、皆さん襟を正して一緒に考えましょう」と杓子定規に織り込まれていたら、とてつもなくつまらない映画になるだろう。物語という媒体はそこまで万能ではない。

脚本・監督をつとめたアリス・ウーの画面構成力とストーリーテリングの巧みさがあってこそ、この作品のメッセージは心を揺さぶる。エリーが自転車に乗って家に帰る、それをポールが追いかける。このシーンが何度も繰り返されるのだが、繰り返しの中でエリーとポールが互いに心を開いていくさまを表現する。二人の関係という私的な問題は、あらゆる問題の輪郭を捉えるためのメタファーだから。

エリーの父親は口癖のように「どんな映画にも山場がある」という。この映画の山場はエリーがポール、アスター(とその恋人トリッグ)と向き合うシーン。そこで(色んな意味を込めて)エリーは言う。

「愛とは描いた絵を一度台無しにして、新しい絵を描くこと」

解釈にとらわれる必要はないのだけれど、アリス・ウーが表現したいと思った、台無しにした絵と新しい絵とはなんだろうか、と考える。

映画史において素晴らしい青春映画がたくさんあって、それでもこの作品にある新しさ。主人公が女性だから、ゲイだから、アジア人だから。それらの要素を並べても、素晴らしい絵にはならない。そして言葉にしてしまうと、たいていの思想はちっぽけに聞こえるものだ。

『ハーフ・オブ・イット』は間違いなく傑作なのだけれど、日本で絶対流行らねぇだろうし、英語圏でもアジア人主役の映画は流行らねぇだろうなと思ったのでnoteにつらつら書いた。

この映画を観て、新しい絵を描きはじめる人が少しでも増えますように。

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