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言葉の不感症

とあるシットコムを見ていた時 "It's relatable!" というフレーズに出くわした。

コンパクトにまとまる訳がパッと浮かばず、《relatable》をググってみたところ、「関わりを持ち得る / その経験などに類似性を見出し、理解や共感を催し得る」という定義が記されていた。しっくりこない。
日本語字幕を見てみると、『それ分かる〜!』とだけ訳されていた。

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じつに4年ぶりに一人暮らしを始めてから、はや1ヶ月が経った。
家にいる面々でがちゃがちゃしながら囲っていたリビングも、誰かが意気揚々と食材を詰めた買い物袋をキッチンに撒き散らしながら始める晩餐も、深夜に帰宅した酔いどれたちが騒ぎ立てる声も、もう何もかもが無くなった。

シットコムを見ていて理解できない言い回しをみたとき、よく質問をぶつけていたアメリカ留学経験のある住人がいた。"It's relatable!" を見た時、まだシェアハウスに居たならきっと彼に聞いていたと思う。

一人暮らしで陥りがちなのは運動不足や食生活の偏りだろうけど、
幸いなことに、シェアハウスのランニング好きの住人のおかげで回避できているし、食トレ好きの住人から教わった赤・黄・緑の3色食品群をそろえる大切さが習慣づいていて、そこにもさして不安はない。

人に教わるより自分で調べて手に入れた知識の方がよくよく頭に残るというけれど、それよりもうんと早いのは、やっているに聞いたりその人の真似をすることだと思った。

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自分でない誰かにあらゆることを期待しようとするのは、他力本願と言われてしまうだろうか。

実際に自分一人で何か問題を解決したり、目標達成を目指したり、新たなものをつくり上げたり、という行いを考えて見た時、そこに必ず限度はあるとおもう。

一人でぼんやりと『ポツンと一軒家』を見ていて、畑を耕し野菜や果物を育て、水道設備まで完全に自給自足してひっそりと山奥で暮らす人がこの国のどこかにもいることを知った。
でもその人も、先人が培った作物の耕作技術や自然水の引水手法を、知識として活用している。狩猟農耕の時代を遥か昔においてきた今の私たちからすれば、生きているだけで知識や文化というかたちで他力を被いている。

ともするとそれは単なるアウトソースに過ぎず、どれだけ一人暮らしをコンプリートしようとも、その行い全てと他者は《relatable》なのだ。どういう形態かはさておき。

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『言葉の不感症なんです』というと意味分からないかもしれないが、なんでだか今そんな言い回しが一番あってる心地がする。

一人暮らしを始めてから、英語とフランス語の勉強にいっそう身が入った。
職場と自宅までドア・ドア1分とかだし、帰って速攻で勉強をスタートしている中、リビングで横槍を入れてくる人もいないし。

そんな具合にも関わらず、目標や目的に対する熱感、その実体がつかみにくくなっているのは1,2年くらい前からで、なんとなくその要因はわかっている。
そのウイルスが言葉に伝染してか、放たれる言葉・口にする言葉・目にする言葉すべてが単なる音やデザインとしか思えないようになった。言わずもがな音は言葉を構成する要素一つに過ぎないが、それがいくつもの連なりを成し節を成し文を成す。そこから文意を掴むまでが、できない。

筒井康隆の『残像に口紅を』は、徐々に五十音ひとつ一つが消えていく実験的小説だった。筆者はこの小説を購入する読者を不憫に思ってか、使える五十音がかなり少なくなってきた頃に注釈を差し入れて、 ”内容として破綻していると見做される可能性がある、返品の対応はもちろん受け付ける” との断りを記していた。
が、最後に残った数文字で会話する中でも(もちろんそれは物語なのだから)なんとなく意味は掴めてしまうのだった。

これは、私のそれとは本質的に異なって、車や列車が走り去る音、赤ん坊の喃語、ジャズボーカルのスキャットなんかと同じくして、言語表現としての深長な意味が存在しない空白な音声なのだ。

『私の友達が君を見た時、とっても良い印象を受けたみたい。私の知っているそれとあまりに乖離していたけど。』

そう言われて、気がついたことがある。
言葉を使って自分を言い表したり、意思疎通ひいては関係の樹立を図ることにあんまりにも躍起になっていたのかもしれない。それが故にこうも言葉に信頼を置かなくなって、不感にすら陥っているのかもしれない。

言葉には魂が宿る。

その魂はあくまで自分自身をリフレクションしたもので、決して偽造・改変・捏造された魂であってはならない。そいう種の言葉なら、単なる音と言われても仕方のないことかもしれない。
実体もなく頼りなさそうでふわふわしたこの言葉という概念を以って、人は人と意思疎通を図り関わりを持ち、そして何かを成し遂げる。もちろん全部全部に魂を込めるのは一生懸命が過ぎて何にも口をついて出てきてくれないだろうから、自分のことを話す時だけは、このことを思い返しておきたい。

私たちは皆みなが《relatable》なのだから。

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