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自分に向き直ってみた話(読んだ本のはなし)



 たまたまなんてことない一枚の写真を見て、ずるずると過去の記憶が引き摺り出されてしまい、でもいまならもしかしたらこの気持ちを言葉にして型をつけられるかもしれない、と思ったので筆をとります。

 今もまだ全然、傷が昇華できずに青いままなんだなと思った。人よりだいぶふくよかだった学生の頃の話を、何歳まで拗らせてんのって話だし、ルッキズムに拘り続けてしまうのもどうかと思うけど、ふとした瞬間に思い出しては落ち込んでしまう。ありがたいことに友達が周りにいてくれて、いじめられていた、という感覚は薄かったけれど、電車で隠し撮りされていたこと、友人から名前くらいしか知らない他クラスの人間に「写真欲しいって言われたんだけど断った」といわれたこと、すれ違い様に暴言を吐かれたこと笑われたこと。やった方は覚えていないかもしれませんが、やられた方は何歳になってもいつまでも覚えているんだよな。この人は絶対安全だというラインに辿り着くまで、私は人間に心を開くことができないのかもしれない。

 それなのに、いっぱしにドラマや漫画みたいなキラキラした生活や異性との交際に憧れだけは持っていて、トラウマを抱えている自分と、理想を描く自分のと間でずっと地団駄を踏んでいる。いっそどちらかをはっきり切り捨てられたらきっと楽になれるのにと思いながら。

 誰かに求められている、誰かに好かれているという感覚を疑ってしまうのだ。うっすらと「嫌われているかもしれないな」と思うことが初期設定だから、私が与え続けることでしか求められないし自分を満足させられないと思っているから、わたし「なんか」のことが、どうして好きなんだろうと思ってしまう。(友達でいてくれる各位に対し大変失礼な思考だと重々承知しております、いつもありがとうございます)

 そのうえエラーすることを死ぬほど怖がってしまう無駄に完璧主義の自分がいるから、前進できずに二の足を踏んでいる。人生一度きりなんだから思い切りやれ!なんていうけれど、人生一度きりだから、エラーしたくないんでしょう。

 世間でよくいう自己肯定感の低さをずっと悩んでいて、ことあるごとに「私自己肯定感低くて〜」って保身のように言ってしまって、なんとかしたいな〜って気持ちだけはあるんだけど、どうしたらいいかもわかんないし、どうにもなんないかもなもうっていう諦めも感じていて。

 正直さ、そんなに気にすることでもないっていうのは、もちろんわかってもいるんだよね。大人だし、人と話すことはそんなに嫌いじゃないし、飲み会で普段関わりのない上司と話しするのも好きだし、それなりに誰とでも喋れるし、ダイエットしたし。でもその全てに「ほんとに?」って聞いちゃう自分がいて、そこでまた振り出しに戻っちゃって、ずっとその繰り返しで、堂々巡りをしていて。むかしから起きてもいないことで眠れないほど不安になったりする人間で、不安ばかりに苛まれて、不安のタネは変われど、何歳になっても子どもみたいに変わらなくて、いつまでもず〜〜っと動けずにいるんですよね。


 さて、話は変わるんですが先日『暇と退屈の倫理学』という本を読みました。普段読むのは小説ばかりでこの手の本は苦手意識を持っていたんですけど、テーマが面白そうだったのと、オードリーの若林さんが帯を描いていたというだけの理由で。今まで自分が漠然と考えていたこと、モヤモヤと考えていたことについて、言語が与えられ、系譜や理論が説明されていくというのは、散らかった頭や心の中をスッキリと整理してくれる感覚があって、あまりにも面白かったです。(もちろん本自体がとても読みやすく描いていただいていたためでもある)知的好奇心がバチバチに刺激されて、知識を得て学ぶ楽しさと快感って、ここにあるんだよな〜!!!とゾクゾクしてたまらなくなる気持ち。

 だからいつもの私だったらこうして自分の内面について思い悩む時、「まあ今後もご自愛でのんびり頑張りましょうね…」みたいなぼやっとしたまとめをし、春のせいだ天気のせいだと、また次の日からもボヤッと生きていっていたわけですが、今回はこの自分の内面について、どうせ悩み考えるんであれば、感情論に終始せず、論理的に説明することができるようになったら、また違った方向に向かえるのではないか?と思ったんですよ。すみません、変なやつで。感情論に対して感情論で話をするから本来の私の感情とぶつかるわけで、論理立てて考えたらどっちに転ぶにしても新しい見方ができるんじゃないかと思ったんです。何に対しても、知識という事実が勝つんですよ。自己の内面に目を向ける作業はとても苦手で避け続けてきたわけですが、大前進。


 選書、結構これがキモ。近年自己肯定感に関する本にありふれていて、ただ正直私はありふれた本のありふれたアドバイスでふわりと背中を押されても、「それができたら苦労してないわ〜〜」になってしまうので。自己啓発本の類に苦手意識が強いのは、根っからの疑り深さと頑固さのせいだと思う。今回はできるだけ冷静かつ客観的に、自己肯定感や自分が今抱えるものについて言語化し理解し納得した上で、できるなら次の手立てを自分で考えられるような本を選ばねばならない。心理学とか哲学とか専攻しとけばよかった〜!と思うけど根っからの考えすぎ性格に拍車をかけるでしかないのでよかったと思う。『アドラー心理学』とか『自分らしさとは…』みたいな本も読んだんですが、今の私の中に即していたのは『ストレス脳』という本でした、タイトルだけでちょっと腰が引けるやつですが、面白くてぐいぐい読み切ることができました。過去ベストセラーになっていたのも知らない世間知らず〜。個人的に心にしっかり留めておきたいことまとめ。


・人類の脳みそは狩猟採集を行なっていた時代から大きく進化してはおらず、そもそもが「幸福になるため」とか「健康でいるため」以前に「生き延びるため」に作られている

・感情というのは脳みそが莫大な情報量を処理した結果の一部であり、決してそのままのものではなく選び取られたものである。

・幸福感、はそもそも消えて然るべきものであり、だからこそ幸福感を得たいというモチベーションが生まれる、キリがないもの。
 →昨今は常に幸せであること、幸せとは自分で選択するもの、「幸せでなければいけない」イメージが蔓延し、幸せでないこと=おかしいことという印象が生まれる。SNSや周囲に、みんな常に幸せであるような切り取られた投稿が目につく。自分の主観的経験を世の中の実現不可能な水準の幸せと比較してしまうことで落胆する。

・不安を感じることは、個人の人格の問題ではなく、脳みそが人間を「生き延びさせるため」に発している危険信号として扁桃体が反応して発しているものであり、自己を守るためのもので、誰にでもあるものである。「不安」は「事前に受けるストレス」であり、そう言った危険に遭遇しないように脳みそは人間を引きこもらせる。うつになる。不安やストレスを長期的に抱える環境では、常に危険な状態にあると脳が誤解し、気分を下げさせ、引きこもらせることでうつへとつながる。

・不安や恐怖の記憶がトラウマのように思い出されることは、脳みその「生き延びさせるため」という役割に立ち返って、また2度と同じ危険な目に遭わないために強く記憶されるものだからである。
 →しかし「安全」と感じられる場所で過去のトラウマを紐解く練習を何十回何百回と繰り返すことで、記憶を変化させ、痛みを緩和させていくことは可能である。そうでなければ記憶はいつまでも変化しないままである。

・うつを最も引き起こすのが「孤独」、しかし孤独というのは「求めている社会的接触と実際のそれに、不安を感じるような差があること」
→100人友達がいても孤独な場合もあるし、2.3しか友達がいなくても孤独じゃないこともある。自分の理想とどれだけ乖離があるかの問題。我々狩猟採集民の脳みそは生き延びるためにお互いを支え合ってきたが故に社交欲求が存在し、孤独であることは危機だと脳みそは判断し、それによって世界が敵だらけのネガティヴに映ることがある。

・鬱や不安に運動は確かに効果的。運動によって心拍数が上がることは、危険にさらされる不安によって心拍数が上がっていることは別のことである、と脳みそが学ぶことによってストレス物質コルチゾールのレベルを下げることができる。週末のウォーキングだけでも。

・不安や鬱とは自分を守るための防御システムで正常な免疫であり、人間は生まれながらに常に幸せなわけでなく、しかし感情とか一過性のものであると頭でわかっているだけでもきっと違う。気分が落ち込んで閉じこもって悩み続けていたことが、いつか貴重で大事な時間だったと思える日も来る。



 人間がどの程度不安になりやすいか、扁桃体が反応しやすいかは40%遺伝子で決まるらしいよ!つまりど〜しようもないってこと!こんなに考えすぎちゃうのも悩んじゃうのも私の人格に難があるわけではなくてしゃ〜ないな!ガハハ!って感じ。(※本書ではこれが遺伝子だから仕方ないと悲観的になることには警鐘を鳴らしています)


こういったことを胡散臭いとしてしまうか信じるかは自分次第だし、一時的に解決した気持ちになるだけかもしれないけど、自分の過去の経験や感情が、脳のメカニズム的にこういうふうに紐づいていたんだな、今のモヤモヤもこういうふうに考えたら腑に落ちるな、とおもったり、このように時間をかけてでも一つ一つを片付けていけば、もうすこし視界はひらけて、体が軽く感じられるようになるんではないかな、と思えただけでも大きな収穫だった。時間はかかるかもしれないけど、いちど自分に向き直って掬い上げる作業をしてみようと思う。ひとまず、なにごとも溜め込まずひとつひとつアウトプットしていく練習はしたいかなと思った次第です。(今更の気づきだけれど、何事も遅すぎることはない、はず!気付いた時点で吉日!)

 GW入口に、新たに大きい学びを得ることができて嬉しかったし、視点を変えることも時には大事だと改めて思い至れました。自分に余裕がないとなかなかそれってできないんだけど、自分に拍手しておこう。出会いだな〜〜。

 そんなことを考えながら、本日は友達とお出かけです。みなさんもよきGWをお過ごしください!さ〜てせっかくのGWだし、次は何を読もうかな!おわり。

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