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『三月の招待状』を読む




 3月1日の朝はつめたい雨が降り強い風が吹いていて、春と呼ぶにはまだ心許ないけれども、3月の始まりは角田光代さんの『3月の招待状』で始めたいよね、と思っていた。毎月の読書まとめであまりにも薄い感想しか書けないので、今月はちゃんと一冊ずつつけておこうと思って筆を取ったら、思いの外バカデカお気持ちが溢れてしまい無駄に長い論文を作り上げそうだったので、ひとまず吐き出したくなったことを昇華させてほしい。


 『三月の招待状』は大学時代に出会ってから15年、30半ばを超えた主人公たちが過去に縋り今に悩む話。同級生同士で結婚した2人が離婚式を開いたり、年下恋人との同棲生活をしながら昔の憧れの人に思いを馳せたり、夫婦生活に嫌気がさして逃げ出したいと思ったり、特段大きな事件の起こらない話は、読む人によっては退屈なのかもわからないけど、私はこの角田さんの生々しいほどに人間らしい話が結構好きで。

 曖昧に将来を夢描いては、素晴らしい何者かになれる気がして真っ直ぐに生きてた学生時代を思い出しては、あの時代に執着しては、「こんなはずじゃなかったのに」を繰り返してしまう感情とか。

『でも、なんか、あんたもあんたの友達も、なんかどっか、体の一部そこから出ていかないようなとこ、あんじゃん』

「いつも白けていて、いつもしらふで、感情のままに動く同級生を恨めしげな視線で眺めていたかつての自分を、好きだと思ったことなど一度もないのに」

p.267

 何にも変わったつもりはないのに、何かが少しずつ変わっていて、小さな歯車のズレに落ち込んでしまったりとか。あの頃はあんなに仲良くいられたのに、何かが違うと感じてしまったりとか。平凡すぎる日常に、時たま入り込んだ非日常があまりにも甘やかで、だから私は今になってもまだ曖昧な夢を見ては、ここから飛び出していける気がするけれど、実際はどこにもいく勇気のない自分とか。

『本当に出ていけるんだろうか、ここを。麻美は、じっとこちらを見つめる鏡のなかの自分に向かって問いかける。向かう場所もないのに、出ていけるんだろうか、私。』

p.241

 でもそんな日常が案外1番暖かかったりとか。理解したいけど理解できないことがあって、でもそれは決して相手に対する好きや嫌いに直結するわけではない感情の難しさを自覚したりとか。全てを白や黒で、好きや嫌いで、青信号と赤信号で片付けられたらきっともっと世界はずっとわかりやすいのに。言われることを言われるままに受け入れられたら、きっとこんなに悩んだりしないのに。わからないことだらけで、選択の責任は全て自分にあるからこんなにも人生に迷ってしまうわけで。

『「だってみんな、私以外の人はみんな、暇じゃないって信じていたから」そう、信じていた。始終悩み、笑い、泣き、騒ぎ、浮かれ、酔っ払い、恋をし、嫉妬をし、羨んでいる彼らは、暇や空白など何ひとつ持ち合わせていないように見えた」

p.262

 「暇であることが怖くて、何かをしてないといけないと躍起になっていた」登場人物の感覚、↑この感覚を伝えた相手がこの感情を理解して、「みんな同じなんだ!」って安易に勇気をもらえるのではなくて、全然わからないと言ってくるあたりがあまりにも現実〜〜!!になる。でもこの理解できないという気持ちは決して突き放しではないということも胸に留めないといけない。学生の頃そうして何も考えずにいられる(ように見えている)人たちが羨ましく、同時に多分少しだけ見下してもいた。そういう人たちが一段一段確実に人生の階段を上がっていくのをみるにつけ、いつからこんなふうに人生を間違えたんだろうと思う。

 人の話に盛り上がる登場人物たちは確かにちょっと下品で下世話だけれど、常に頭の中で何かをこねくり回している私にとっては、言葉にできない感情を言葉にしてもらえて、これってダブスタすぎない?っていう自分の思考も肯定してもらえる気がして、結構救われる物語だったりする。もちろん理解に苦しむ登場人物もいて、でも多分相手も私に同じこと思ってるんだろうから、案外そんなもんだと思う。

「宇田男の言葉が見せる、写真よりも鮮明なそれらを、私はいつか、うんと歳をとったいつか、昨夜の夢のように思い出すだろう。ある時にはそれは目を背けたいほど醜く見え、あるときにはちいさな宝物のように美しく見えるだろう。」

p.299

 起こる問題の全てが何も解決しなくても、現実は明日も続いていて、だから絶望でもあり希望でもある締めくくりだと思う。解説の書き出しに、角田さんの作品を読んだあと「それで私は…」と自分の話をしたくなってしまう感覚、まで含めてよくわかる。きっと誰しも、そんな自分の話を誰かに聞いて欲しくてたまらないんだよな。


 ここ数年、いわゆるアラサーという年齢を迎えてから私の頭の中では度々嵐の『できるだけ』が流れるようになっていて。「変わっていくことをなぜ僕らは畏れるのかな?変わらないことを笑うくせに できるだけ僕のままでいたいと思える日々を未来のぼくはどんなふうに振り返るんだろう」

 歳を重ねるほど、変化に心が耐えられなくなってきているなと思う。変われると信じていたのに、変わらない自分も、仕方ないと諦めることを覚えるようになったのは、果たして良いことなのか悪いことなのか。きっと何か前向きに変わっていると信じたいけど、もう何年もずっと同じところで止まって、どう動き出したら良いのかもわからず、もしかしたら変わりたくないのかもしれないという気持ちもあって、何も動き出せていない気がする、自分が傷つくのが怖いから。それでも時々、何か一歩踏み出そうという勇気をくれたり、ふみ出すための土台でいてくれるのは、実際過去に出会った繋がりだったりとかするから、時折過去にばかりしがみついてしまうのは、側から見たら痛いのかもしれないけど、許されてほしいわよね、と思うアラサーのぼやき。あまりにも冗長すぎて意味わからないし、何の結論も導き出せない、けどちょっと聞いて欲しかった話です。

 明日からもまた現実!今日はコーヒー沁みをつけたこたつ布団を洗濯して干せたので良き1日だった。3月になって日に日に暖かい日が増えたら、もうすこし心も体も外に這い出していきたいです。がんばろ。終われ。

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