人が人を裁くこと

 死刑囚たちに接していた元刑務官の話がネットニュース上で紹介されていた。極めて稀有な経験を持つその方の話を読んで、思うところはあったのだが、それは本質的なところからは少し逸れた、刑法上のシステムのことだったりした。
 しかしその記事に対する匿名のコメントを読んでいると、とてつもない恐怖、違和感を感じた。
わたしが読んだ限りでは、死刑に反対する意見がひとつもなく、誰もが肯定するか、あるいは積極的な賛成をしていたのだ。膨大な数のコメントがあったので、もちろんすべては読んでいない。しかし、数十のコメントを読んだなかには、死刑制度を容認し、肯定し、積極的に支持する意見ばかりで、さらには記事の論調が死刑制度を考えさせるような、歪曲的な否定ともとられる内容だったからか、記事を書いた記者やそのメディアを批判するような論調も散見され、非常に危惧を抱かざるを得なかった。
 各種メディアでも連日報じられているように、毎日どこかで殺人や暴力沙汰、犯罪が起きている。それらの数が多いとか少ないとかいうことは無意味であるが、日本での犯罪件数が他国と比較して特に少ないとは思わない。先のコメントでは、死刑制度が犯罪抑止の効果があると断言する意見も散見されたが、何を根拠に言っているのかは不明だ。むしろ死刑制度があるからこそ、犯罪を犯すときにはより凶悪化するとも言える可能性はあるだろう。また、海外のいくつかの国のリサーチでは、死刑制度に犯罪抑止効果はないと断言し、それも死刑制度廃止の理由のひとつであるという。

死刑制度賛成、肯定の人は、被害者の気持ちを考えろとか、遺族の心情を理解しろという。それは理解できる。しかし、犯罪を犯した者を憎み、法的な殺人である死刑に処すことによって得られる結果は何か。

殺人者が死ぬことにより、何が解決するのだろうか?何が救われるのだろうか?殺された人は戻ってこない。遺族は犯人が死んだことで救われるのだろうか?

一言で殺人と言うが、それぞれのケースで異なった背景があり、犯人が殺人を犯す理由も千差万別である。

多くの人は反感を抱くかもしれないが、よく考えなければならない。

殺された者には何の落ち度もなかったのか。殺人者に対して負い目がなかったのだろうか?

奪われた者には、奪われたことに非がなかったのだろうか?正しいという者には、悪人の行いに関わりがなかったのだろうか?

被害者には、何の罪もなかったのだろうか?

罪を問われた者は、罪なく非もないと見做された者の代わりに、その重荷を負っているのではないか?

わたしたち人間を分けることは出来ないのだ。善人と悪人とを。

これだけだと、多くの人がただ反感を持ち、怒り出す人も少なくないだろう。しかし、わたしたちは心の底から熟慮しなければならない。

ここ数年の間に起きたいくつかの殺人でも、メディアが派手に報じ、わたしたちは、漫然と報道に接しているだけだとわからないことも多いのだが、判で押したように犯人は恐ろしい悪人であると断じ、彼や彼女がそれを行うに至った背景やその思い、そういうことを起こさせるに至った社会状況云々はほぼ考慮されない。どんな理由があろうとも、殺人者は殺人者。絶対に許されないということで思考停止してしまう。

単なる憎悪を抱き、法で取り繕ってはいるが、死刑という復讐殺人を犯しているだけでは、何も変わらないし、誰も救われないとは思わないのか。

単純に、死刑制度の是非の問題ではない。人が人を殺すということは、とてつもなく重いのだ。もし、殺人を絶対悪であり、それを糾弾し、その理由如何を考慮しないのであれば、死刑もまた同じことではないのか。それは鏡であり、その科はわたしたちに返ってくるだけではないのか。

また、冤罪の問題もある。これは推測や仮定の話ではない。実際に冤罪で死刑に処せられた人は何人もいる上に、現在確定死刑囚となっている人たちのなかにも、冤罪の人はいる可能性はある。その可能性が少しでもあるのならば、その制度は欠陥であり、まずは死刑を停止して調べ直すべきであろう。

殺人が悪であるならば、死刑制度も悪である。個人が行うか、国が行うかの違いであり、それは同次元の問題なのだ。

殺人ということ、あるいは他のあらゆる犯罪のことを他人事と捉えず、自分事と考えて、対処していかねばならないと思う。

死刑というのは、わたしたちが殺人とそれを犯した者、被害者、彼らの人生やその背景、その中で起きたさまざまな事象に思いを巡らし、意識を同化ししていくことによって、そういった事が起きることを減らしていく、無くしていくことへといたる、あらゆる可能性を断ち切る制度である。それは、恐ろしいほどに残酷な制度であり、まずは死刑制度の是非をわたしたちひとりひとりが熟慮しなければならないのではないか。

そういうところから、世界は変わっていく可能性がある。

先のニュースのコメントを書き込んだ人たちは、表層の感情に流され、物事を深慮せずに意見を述べているだけであるが、それでもそういうことに、それを読んだ人々の多くは感化されていくと考えると、そういう無思慮な意見を公で誰もが読めるところに書き込むこと自体に、科のないわけではない、と思う。

世界の多くの国々では、この問題をよりオープンに話し合う土壌があり、実際に多くの人々が意見を述べたり、話し合ったりしてきた。その結果としての、死刑制度廃止でもある。

わたしたちは、この日本という国で、この大切な、本質的な問いを孕んだ問題をタブー視するのではなく、オープンに話し合うべきだ。これは、ほんとうに大事なことだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?