どうして僕はこんなところに

季節はもう夏。
昨年までと比べても、時の過ぎゆくのが異様に早く感じられる。
今までは、なんとなく時間が経つのが早いな、と漠然と、過ぎてから感じていたが、今年に入ってからは、日々実感として知覚できている感じだ。
車の運転で言えば、毎日高速道路を結構なスピードで飛ばしている感じだろうか。
だからか、今年はこれをやらなければ、秋までにはこれを成し遂げよう、などと考え、計画していたことがいくつかあるのだが、息つく間もなく日々が過ぎていき、すでに今年も半分終わってしまったようで、ただただ呆然とするしかないのである。

さて、今年もさまざまな本を読んできて、それらはどれも、単に読書を楽しもうというよりも、何かを知りたいとか、何かについてより考察したいとか、そういう動悸があって読んできた。もちろん、読書とはそういうものであろうが。
同時に、かつての私は、実に多くの映画を観ていたなあと思う。昨年頃から、また映画を観ることを少しずつ増やしてきたのだが、結構映画代金も上がってしまい、劇場に行くのはなかなか気が重いと感じる。
そうこうしているうちに、神保町にある「岩波ホール」が閉館するということを知り、かなり驚いたと共に、今更ながら残念に思っている。かつては、年に何度も足を運んだ映画館であり、いつも魂を揺さぶられる映画を上映していたところでもある。こういうところが営業を続けられないというのも、ある意味今の世界を象徴することの一つなのかなと思う。
 最後にやる映画は「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」。
10代の頃から旅を夢見て、20代からはかなり旅を繰り返してきたのだが、恥ずかしながら、彼のことを知らなかった。今思えば、そんなことがなぜ可能だったのかと思うのだが、そういうことも含めて、自分の人生だったのだと思う。
 特に、旅の初めの頃、オーストラリアでアボリジニの人々としばらく交流があった自分としては、特にそのことを思うし、悔いでもある。もしあの頃に彼のことを知り、その本も読んでいたら、また何か違った人生もあったのではないかと。まあそれも他力本願であり、自分の感覚が研ぎ澄まされていなかったことの言い訳なのだろう。
あえて言えば、今気がつくことができたことは、遅過ぎなかったとも言えるのだ。
 とりあえず、今からでも彼の本を読んでみよう。「ソングライン」は、特に読んでみたいし、「どうして僕はこんなところに」も読もう。
今まで生きてきて思うことは、本当に「人生は旅だ」ということ。人間は、生まれ落ちる場所がどこであれ、成長し生きていく過程で、さまざまな地域を歩き、多様な経験を重ね、そしてその過程でどこかで死んでいく。生きるとはそういうこと、単純化し過ぎかもしれないが、端的にはそういうことだと感じる。

この数年は、全くこの島国から出ることができていないが、もちろんこんな生き方に納得できていないし、いつまでも続ける気もない。常に、次はどこに行きたい、何をしたい、と考え続けている。
毎日、まさに「どうても僕はこんなところに」いるのかと思い続けているが、私がそう思う意味と、ブルース・チャトウィンが言う意味との間には、大きな意味の差異がある。しかし、その意味の乖離には意味がないだろう。
結局、それぞれの人生であり、併存しながら交錯したり、遠ざかったりしているものだから。
現在自分が置かれている状況、片付けることに目処をつけ次第、また旅を再開したい、できるだけ早く。
アイドリング状態でストレスフルな毎日が続くが、こんな時だからこそ彼の映画を観ることには、大きな意味があるかもしれない。
新たな、そして最期かもしれない旅の再開へ向けて、ブルース・チャトウィンという稀代の旅人の旅、その視線と自らの意識が交錯するかもしれない期待も込めて、そして岩波ホールへのお別れの意味も込めて、足を運びたい。


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