大人になって「先生」を持つことの効用

わたしはかれこれ十年ほどちいさな会計事務所を経営しており、クライアントからは「先生」と呼ばれることが多い。彼ら/彼女らは、わたしの専門家としての能力に敬意を込めて、「先生」と呼ぶ……わけではないことは、賢明なる読者諸君にはお見通しであろう。いちいち呼び方を考えるのは面倒だ、とりあえず「先生」と呼んでおけば角は立たないだろう、といったところである。ときには皮肉の色が混じっているかもしれないが、それは聞こえないふりをする。

 およそ30歳で独立したばかりの頃は、「先生」と呼ばれることに抵抗があり、その都度「先生なんて呼ばないでくださいよ」と訂正していたが、今はそれも面倒になってやめてしまった。ただの呼び方だ。好きに呼んでもらえばいいという、ある種の境地に達した。40歳を過ぎれば、いろんな物事にこだわりがなくなってくる。これは歳を取ることの、数少ないメリットのひとつだ。

 どうでもいい話を冒頭に置いたが、さて、ここから本題である。

 わたし自身は社会人になって以来、長らく「先生」という立場の人を持たなかった。もちろん、その時々で、教えを請う先輩や上司はいて、公私ともに大いに助けられたのは間違いない。だが、中長期的な師弟関係と呼ぶべきパートナーシップをむすぶ相手はいなかった。

 しかしながら、大学院に進学したことで、わたしはずいぶん久しぶりに「先生」を持つことになった。大学院の指導教官なので、一義的には、院生が学位論文を仕上げて学位を取れるように指導する立場である。しかし、わたしが「先生」との交流から得たものは、狭義の学術的スキルだけではなかった。抽象的な表現で申し訳ないのだが、思考の幅が広がり、自分の精神のより深いところまで潜っていくための呼吸が鍛えられた。文字通り、身体の組織が組み替えられていくような、不思議な感覚だった。「先生」によって自分が変わっていくことが、とても心地よかった。

 雑な一般化を承知で言わせていただければ、歳を重ねるほど、人は変化を恐れるようになってくるものだ。それまでの学習や経験によって形作られた価値観や思考の癖は、自分を守ってくれる盾になる反面、自分を閉じ込める殻にもなる。語弊を恐れずにいえば、わたしは専門職の端くれとして、ちいさいながらも事務所の責任者として、ずっと判断と意思決定をくりかえしてきた。今ほそぼそとでも生きながらえているのは、その判断と意思決定に致命的な誤りがなかったからである(致命的ではない誤りは数え切れないほどあるのは言うまでもない)。それはそれで祝ぐべきことであるのだが、その事実は自分の無謬性を保証しないにもかかわらず、自分の判断能力や意思決定能力を過信させる要因になる。自信と過信を隔てる壁は自分が考えているよりもずっと薄いものだし、往々にして気づかないうちに壁を突き破って向こう側に行ってしまう。

 このような硬直性を揺さぶってくれるのが「先生」だ。「先生」は自分の価値観の外側に位置して、その変容を迫ってくる存在である。表面的な知識や技術を教えてくれるのが「先生」ではない。それらは自分自身が変わらなくても、衣服のように身につけられる。身につけるものを教えてくれるのではなく、身体そのものの変革を伴うのが、「先生」との関係だ。このようなドラスティックな自己変容を経験する機会は、歳を経るごとに少なくなる。仮にそのような機会があっても、それを素直に受け入れるのが難しくなる。自己変容は、ある意味で、自己否定を伴うからだ。しかしいったんそのプロセスを受け入れると、自己否定の痛みは快楽へと変わっていく。

 大学院での経験を踏まえて、わたしは「先生」を持つことにすっかり味をしめてしまった。大学院を修了してから、いまは別の分野の「先生」にお世話になっている。ひとりはゴルフの「先生」であり、もうひとりは将棋の「先生」である。なんだ、単なる趣味におけるコーチじゃないですか、とあなたは思ったかもしれない。たしかに、お金を払ってゴルフや将棋の技術を教えてもらう、という意味においては、単なるコーチであってこれまで述べてきた「先生」ではない、といえるかもしれない。

 しかし、ここがポイントなのだが、「先生」を「先生」たらしめるのは、実は生徒の側の意識なのではないかと思っている。わたしはゴルフの「先生」や将棋の「先生」の言葉や身振り、ちょっとした息遣いまで見逃さないようにして、師事している。そうすることで、先生の言葉から、技術論以上のものを、聞き取れるようになってくるのだ。わたしレベルのゴルフや将棋なんて、技術的には素人の遊びの域は出ない。おっさんになると、悲しいかな、上達も遅い。しかし「先生」の指導に真剣にコミットすることで、上で述べた自己変容プロセスが始まる。

 大人になって「先生」を持つことの効用は、このような変化の起点となってくれることである。学ぶというのは変わるということだ。どんな分野でも「先生」を持つことで自己を相対化して変化をうながしてくれる。凝り固まった大人になればなるほど、「先生」の存在はありがたいのである。


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