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【ドキュメンタリー映画祭:ドキュメメントに行った話】

1月20、21日にご縁があり、東京品川でドキュメメントのお手伝いをさせていただきました。

焚き火の周りに人が集まるように、スクリーンに釣られて集まってくる人々。

映画を通してできる品川でのこのコミュニティーは今の時代こそ必要な体験だと思う。

そして、映画とは何かを考えさせられるイベントだったそれを今回話したい。

イベントの最後の最後に何もイベント中の写真を撮ってないことを思い出して撮ったもの

Alois Riegl(芸術歴史家)は次のように述べている。

”Art is incomplete without the perceptual and emotional involvement of the viewer.”

Riegl はこれを”Beholder's involvement”、Gombrichは”The Beholder's Share”と後に呼ぶのだが、それはまた別の話。

「映画の終わりは映像が終わった瞬間、クレジットを見終わった後ではない」

これが私の感想で、それを体現するような映画祭だった。

この映画祭では映画の観賞後にワークショップが行われる。今回は、「あなたはこの映画を観て何を想起しましたか?」という質問に対し、オーディエンスはグループを作り、その中で話し合いをする。もちろん、質問に対して絶対的な答えはない、がそこである程度映画が完成されるのではないだろうか。

ただ、ここである程度といったことを注目しておきたい。

人間は共感的動物である。自然界における厳しい環境の中に人間は共感という力を磨いてきた。ここでの共感は普段一般に使われている、もし相手の立場だったらと仮定というプロセスを踏むものではなく、他者が顔を掻けば、自分も顔を掻き、他者があくびをすれば自分もあくびをするといった、そもそもの起源で使われる同調性を意味しているのだが、その同調性はそのグループを構成する人同士で織りなすものであるだろう。グループが変わればそのダイナミクスが変わりその同調性は完全に同じようにはいかないだろう。そうでなければ、今回のワークショップで出たような様々な意見はなかったと思う。

つまり、ここで何を言いたかったか。

それは、今回このイベントに参加して、「映画(アート)のエンディングはいつなのだろう」という疑問が生まれたということ。

今回の映画祭ではオーディエンス同士が話しあうことによって映画は格段に完成に近づいた。しかし、異なる人同士で話し合うことでまた映画は新たな気づきとともに自身との新たなコネクションが生まれる。それは、映画を何回も見た時に何回も違う捉え方をしてしまうのと同じで、その日のムード、これまでの記憶や経験、様々な要素が重なって、新しい映画と自己のつながりが生み出されて映画は新たに完成させられていく。

自己のつながりが生み出された映画をさらに他人と共有していくプロセスを通してまた、他人との文化が生まれていき、そこには一つのコミュニティーが形成されていく。映画はその人の心に残りそれが体内に記憶、体験として残り自分の一部となってそれがまた自身の価値判断にもつながっていき、それでもなお映画をもう一度見たときにまた新しい発見が生まれる。いい映画にエンディングはあるのだろうか。

終わりが少し雑になるが、今回このイベントの手伝いに行けてとても嬉しく思う。新しい人との出会いや学びがあった。
参加させてくれたお礼をしたいがこれ以外方法が思いつかないので、とりあえずnoteに書いといてもっと人に映画に興味を持ってもらうことで恩返しができたらと思う。

ではまた会う日まで。

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