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『プリパラ』に見る『夢界八層試練』と『ユメ』論 Ⅰ

我も人、彼も人。故に平等、基本だろう

 先日、半年かけて長期テレビアニメシリーズを完走し終えた。2014年から2018年までの4年間、テレビ東京系にて放映された『プリパラ』および『アイドルタイムプリパラ』シリーズである。サブカルチャーに関心のある人間であれば、そのタイトルくらいは耳にしたことはあるはずだ。

 曰く、狂気のギャグアニメ。曰く、アイカツからアイカツを引いてボーボボを足したやつ。曰く、風邪で寝込んでいるときに見る夢。

 とはいえ、ジャンルとしては『プリキュア』『アイカツ』シリーズなどに並ぶ未就学児童を視聴層に想定された、いわゆるガールズトイ販促アニメ。迂闊に手を出そうものなら『プリパラおじさん』『ひびふわおばさん』なる、あまり拝領賜りたくない称号が聖痕の如く浮かび上がるのではという、成人視聴者には半ば腫物めいたレッテルの存在もあり、視聴にあたっての心理的ハードルは他ジャンルに比べ高めであろうことは想像に難くない。さらに述べれば、その内容は年齢一桁の女児に向けられたものである。いくらそこらのオタクが数年前の(確かハートキャッチ期だったようにも思う)マーケティング資料を引きずり出してこようが、自分たちも作品のメインターゲットなのだと主張できるだけの免罪符にはなり得まい。

 基本的には女の子同士が道徳的にケンカしたり仲直りしたりして無難に終わる、ポスト知育番組のような薄い内容、なるほど一部は確かに事実である。スポンサーからの販促ノルマに加え、最低4クール(50話前後)の話作りを強いられる性質上、物語の縦軸に関していささか疎かになることも、この界隈ではままあることだ。

 しかしながら、本論はそうした食わず嫌いのお歴々にオンリーワンのうまみをプレゼンすべく筆をとり、だらだらとしたためられている原稿である。どうせこんなもん読んでいる人間は多かれ少なかれサブカルに脳をやられたボンクラオタクだろうし、マジョリティからすれば女児アニメを真剣に眺める人種とそう大差はあるまい。

 彼人也 予人也 彼能是而我乃不能是
(彼は人なり、我らも人なり、我何ぞ彼を畏れんや)

 唐代中期の文人韓愈はこう述べている。プリパラもまたエンタメという大カテゴリに据えられた娯楽作品、そこにあるのは純粋な優劣だけであり、判断材料として用いるのはそれだけでよいはずだ。正しく作品を畏れ、愛をもって接していただけるのであれば、筆者冥利に尽きるというものである。プリパラは好きぷり? じゃあ大丈夫ぷり!

 それでは『夢界八層試練』とは何か。無論こちらはプリパラに登場する概念ではない。2014年、ゲームブランド『light』より発売された『相州戦神館學園八命陣』内に登場する架空の試練である。本稿は、この『戦神館』と『プリパラ』に共通項を見出しつつ、両作品の描き切ったきわめて意欲的な人間讃歌の肯定と、その推奨を本旨としている。

 なんとな~くライターのイデオロギーが透けて見えちゃうアダルトゲームと女児アニメの食い合わせなんて箸を付けるまでもないだろ! いい加減にしろ! とブラウザバックしようとしたせっかちなアイドルのたまご達、どうか少しだけ辛抱していただきたい。どちらのコンテンツも、素晴らしく野心的な怪作として仕上がっていることは間違いない。願わくば、いずれかの作品に少しでも関心を抱いてもらえればと思う。

 本論が読者諸氏の自粛生活の一助となれば幸いである。

み~んなトモダチ! み~んなアイドル!

『プリパラ』シリーズは全4シーズン、計191話で構成される連続テレビアニメである。

『プリパラ』とは、本作に登場する仮想空間の名称でもある。本作世界において、年頃を迎えた少女には『プリパラ』へ入場するためのチケットである『プリチケ』が、どこからともなく届けられる。三者三葉の理想の自分=アイドルに変身でき、きらびやかなファッションやライブで自己表現を果たせるプリパラは、いつの時代でも少女たちの羨望の的であった。

 自身の大声にコンプレックスを抱く主人公・真中らぁらもまた、プリチケを手にプリパラへ足を踏み入れたピカピカけんきゅうせいの一人だ。半ば強引にアイドルデビューさせられたらぁらは、チームメンバーである『南みれぃ』『北条そふぃ』と共に、プリパラ内で開催されるアイドルグランプリの頂点を目指す、というのが大まかな展開である。

 特筆すべきは、作品全体に蔓延するカオティックにしてスラップスティックな作風である。らぁら達『そらみスマイル』の活動をマネジメントするマスコット連中は、どいつもこいつも口が悪く金に汚い。ライバルチーム『ドレッシングパフェ』に属する『ドロシー・ウェスト』もまた、罵詈雑言を吐き散らさなければ死ぬような人間の屑である。

 プリパラを実力主義の会員制サロン『セレパラ』に改革すべく、物語中盤に登場した『紫京院ひびき』も、徹底して圧倒的な強者として描かれていたものの、『ぷり』『なちゅ』『ダヴィンチ』といった語尾を耳にすると体調を崩すというユーモラスな面が設定されている。そもそも、『ぷり』『なちゅ』『ダヴィンチ』といちいち口にしなければ喋れない奴らがレギュラーキャラクターなのである。

 第四期『アイドルタイムプリパラ』に至ってなお、その狂気とインパクトは留まるところを知らない。妄想に陶酔してしばしば正気を失う新主人公『夢川ゆい』、古代大陸の巫女にしてプリンセスを名乗る生霊を右肩に宿したらしい『幸多みちる』と、酒の席でのジョークをそのままキャラクター性に落とし込んでしまったかのような悪魔合体の失敗(成功)例が、力の限りこれでもかと並べ立てられるのだ。

 また、前述したアイドルグランプリといえば聞こえはいいものの、その描写や展開はというと、いわゆるナイーブでウェットな努力と根性とは無縁なものである。基本的に、彼女らはノリと勢いが良かったほうが勝つ。ダンスや歌唱のレッスンは無論するものの、本作で注視すべきはそんな些事ではないと言わんばかりにサラリと流される。何より重要なのは、狂人と狂人による投げっぱなしのどつき漫才、そして少年漫画然とした『メンチの切りあい』なのだから。

 らぁら達に立ちはだかる相手は強敵揃いである。メイキングドラマ(ライブの演目の一種)を完全に模倣するボーカルドール(人工生命)の『ファルル』、全世界のプリパラでトップの座を総なめにしてきた『紫京院ひびき』と『華園しゅうか』……シーズン最後の最終目標もただ神アイドルを目指すわけではない。ある時はプリパラを統べる女神の命を救うため、またある時はプリパラ滅亡を回避するためと、本当に玩具を売りつける気があるのか疑いたくなるような展開が用意されている。そもそも最序盤からプリチケをハンディクリーナーで没収しようとするイカれた学校長との戦いが丹念に描写されるくらいだ。

 しかし、本作は彼女たちを肯定し続ける。彼女たちは、彼女たち自身の存在と主張を棄却しない。プリパラとは家庭・学校・社会から隔絶されたテーマパークである。いかな個性、いかな思想、いかな欲望を抱いて集ったとして、衝突こそすれ排除されることは決してない。妹が姉を越えるべく下克上を企て、中学二年生が小学五年生に言いくるめられ舎弟にされる。劇中このルールに改竄を加えた紫京院ひびきは、らぁら達に敗れたことで野望を捨て、システム側からの制裁を待つ身となっていた。だが、らぁら達はそれを良しとしない。『すべてのアイドルを守る立場にある』総支配人たる『赤井めが兄ぃ』もまた、ひびきへの制裁を否定した。

 夢を追うアイドルたちの意志と矜持は、何にも犯されざる聖域である。そしてその夢は、どのようなかたちであっても肯定されるべきだとされている。善悪を超克した狂宴の会場、それがプリパラなのだ。

殴るから、殴り返せよ

 相州戦神館學園八明陣、ならびに万仙陣は、2014年に発売されたノベルゲームである。大正時代、鎌倉市の学校に通う少年少女たちが、夢の中に広がる異世界『夢界』を舞台に死闘を繰り広げる。主人公の『柊四四八』と彼を取り巻く仲間たち、そして彼らと敵対する組織の面々は、『邯鄲の夢(邯鄲法)』と称される異能を用い、夢界の覇者である『盧生』を目指し、鎬を削っていくこととなる。

 夢界の最奥を踏破した盧生というのは、全人類の集合無意識を束ね、それを振るうことのできる『人類代表』。『八層試練』と呼ばれる、その者にとって実現不可能な試練を突破して得られる、全人類の代弁者にも等しい称号だ。終盤、四四八は既に盧生へと至った日本帝国特高警察憲兵大尉『甘粕正彦』と相対し、それぞれの思想に賛同する人々――――眷属の意思を率い、実に民主主義的な決闘を繰り広げる。それはすなわち性善説と性悪説の衝突であり、勝者は全世界に自身の意向に基づく理を敷くことができるのである。

 デモクラシズム全盛の世に生を受けた甘粕は、夢界によって顕現した架空の現代社会を目の当たりにし、意思と向上心を蔑ろにする堕落した人々に失望する。権利に甘え、易きに流される愚昧ども。誰も彼もが、隣人を同じ人間だとすら認識していない。甘粕は、自らが災厄と試練をもたらし、人々の反骨を刺激する魔王として君臨することを決意する。感覚の鈍麻した大衆の尻を蹴り上げ、否が応でも刻苦に立ち向かわせることを是とした甘粕に対し、後世の子孫たちに正しき規範を見せつければ、必ず彼らはそれに応えてくれると主張する四四八。甘粕が見たのは、いかに精巧にシミュレートされたとはいえ、それはあくまで夢に過ぎない。反面、四四八の主張もまた絵空事である。しかし、甘粕は確かな憧憬を四四八の終段(邯鄲法の奥義)認め、未来を彼らに託して散った。身に余る試練を与えることで大衆の内に『輝かしきもの』を見ようとした甘粕であったが、他でもない甘粕本人こそ、極大の『輝かしきもの』の持ち主だったのである。

 四四八の終段は、術者の思想に賛同する者たち(眷属)の意思とその熱量に比例し、術者の能力を強化するものである。甘粕もまた同様の『斯く在れかし・聖四文字』なる奥義によってこれを迎え撃つも、正しく四四八を自身と同じ人間、尊敬に値するヒトとして憧憬を抱いてしまう。夢の産物、すなわち伝承の邪神を伴って試練を与えようとした甘粕に向け、四四八は言う。現実にない宝を持ち帰らなければ大義は成せないと信ずるお前は弱い、と。殴って、殴り返してきた四四八に向け、甘粕は極上の讃辞を贈り、敗れ去っていった。

そこにあった。真は確かにあったんだ

 ここまでが前篇『八命陣』の概略である。後篇『万仙陣』では主人公に石神静乃が加わり、鎌倉の地に蘇る夢界の廃神(タタリ)を調伏するため、再び戦いが巻き起こる。物語終盤には四四八、甘粕、クリームヒルト(急に出てきた人。強いけどあんまり描写がない)に続く第四の盧生『黄錦龍』が出現。全人類の救済を謳い、地上を阿片のもたらす閉じた妄想と快楽で満たすべく活動を開始する。ここで鍵となったのは、黄錦龍の血を引く眷属であり、また同時に四四八に憧憬を抱く彼の眷属でもある静乃の存在だった。

 静乃は百年前の救国の英雄『柊四四八』に憧れ、彼らと名実ともに瓜二つの『現代の四四八』たちの輪に加わることで、順風満帆な学生生活を送り始める。彼らとともに邯鄲法を用い、現代に蘇った廃神に立ち向かう静乃。しかしこの一連の出逢いは、夢界深部の集合無意識『アラヤ』による、朔の儀式の一環に過ぎなかった。かつて盧生として頭角を示した四四八、黄錦龍への、盧生資格の再試験『八層試練』の因子として静乃は利用されたのである。元来は朔の夜に訪れる災厄を鎮めるために、神祇省より派遣された静乃だったが、深みを増す万仙陣に同調してしまい、彼女の望むありもしない夢――――『現代を生きる四四八』『四四八の伴侶となり得る自分自身』が、現実のものとなってしまったのである。

 盧生資格の簒奪を悲願とする『逆十字』との交戦、廃神として顕現した神祇省の長『壇狩摩』との出逢いを経て、静乃は己の願望によって現実を著しく歪めていたことを自覚する。そして阿片の夢に痴れていてなお自身を眷属として認めた四四八に報いるべく、万仙陣攻略のため黄に立ち向かった。

「憧れて、夢見て、胸に生まれた想いは真実。その熱さえ信じられたら、
 もうそれで充分だろ? そこにあった。真は確かにそこにあったんだ」

 この独白と共に、彼女は万仙陣の見せる歪な悪夢から目覚める。虚構を捨て現実へと出でよ。ともすれば前時代的なマチズモとも理解されかねない主張が散りばめられていた前篇『八命陣』だったが、後篇『万仙陣』で語られたテーマの補足によって、ようやく包括的な結実がなされている。『ユメを信じ、楽しんでくれ』という、あらゆる願望への祝福である。夢とは現実に生きる我々に加護をもたらすもの。こう語ったのは『万仙陣』に登場する長瀬の言であるが、静乃の得た『胸に生まれた想い』を鑑みれば、これを解釈するのは容易いはずである。

 夢と現実は対義ではなく、相互に干渉しあう一元的なものなのだ。

© T-ARTS / syn Sophia / テレビ東京 / IPP製作委員会

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