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ムラの掟の再生産

大学時代に応援団に入っていた。
応援団は、(今は知らないが)当時は1年ゴミ、2年奴隷、3年ヒト、4年神様という、今考えたらゴミ以上のゴミルールがあった。

1年生(ゴミ)の夏頃、コンパ帰りで地下鉄の電車を待っていた時のこと。
駅のホームで、3年生(ヒト)がべろんべろんで白線を超えてうつ伏せに倒れていた。
普通に考えて危なすぎますよね(笑)。
でっかい人だったので、ごめんなさい!と思いながらも、引きずるように白線の内側に、その方を下げようとした。
ずるずる、と。

そしたら2年生(奴隷)が私に注意してきた。
まあ、白線の内側に持ってくるにしても、引きずって下げるとか、ぞんざいに扱い過ぎたわな(笑)
という自覚もあったので、しゃーない。

ところが、その2年生の注意は、私が全く予想していないもので、
「下級生は、上級生の心配はしなくていいから。」
というものでした。

???
いやいやいや!!!
応援団というムラの掟としてそういうのがあるのは知ってましたけど、それって平常時だからこそ成り立つ掟ですよね!?
今、命の危険(べろんべろんで寝返り打って、線路に落っこちるとか十分にありえた)があるような状況で、その掟を守る必要あります????

当時の私もそうだったけれども、あれから20年以上が経った今でも、自分のしたことが間違っていたとは思わない。
ムラの掟が、常に世界の掟に優先する道理はない。

ただし。
その後の私は、応援団の活動を続けていく中で、クソ掟の軍門に下っていくようになった。
もちろん、応援団のすべてが悪いとは思わないし、素晴らしいことも沢山あった。
各部のみんなが、勝利のために身を削り、己とチームのすべてを出し切ろうとする時に浮かび上がる感動に何度も触れられたことは、私の人生におけるかけがえのない宝物だ。

それでも、いいものはいいし、悪いものは悪い。
応援団には、くだらない掟が多かった。
例えば、下級生の頃に不思議に思っていた飲み極道や食い極道(上級生が注いだ杯や、奢ってくれた飯は、絶対に残してはならないという掟を逆手にとり、尋常ではない量の酒や飯を下級生に飲み食いさせること)も、上級生になる頃には、それがあることを受け入れるようになってしまっていた。
違和感がゼロではないにせよ、「これは必要悪なのだ」という意味不明な正当化に走っていた。

そのムラの構成員としては優れた人間になっていたとしても、世間的には、そして倫理的には下級生の頃の方がよっぽどまともだったのではないかと思う。

初めは明らかに変だと思っていた掟も、ずっとムラで生きていると、それが当たり前になっていく。
しかし、「他の団員もそうしている」「他の団でも同じようにしている」といった具合に、判断のものさしを外部に置いていた時点で、その意思決定は思考停止していたことに他ならない。
1年生の頃の方が、よっぽど自分の頭で考えで動いていた。

突然、訳のわからないことを長々と書いてしまったが、カウアン・オカモトさんの記者会見を見聞きして、上に書いたような、自分の昔話を思い出した。
おかしなムラの掟に対して、純粋に「おかしい」と言うことは、そう簡単なことではない。
少なくとも私は、自身の経験から、そう思わざるをえない。

「私はどう思うか?どう考えるか?」
正解のない世界の中で、その問いと自分なりの解を大切にしていきたいし、そうしなければならないと、強く思った。

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