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父があっけなく死んで、月に見えた日のこと

父は2020年12月25日に亡くなった。

昭和の男で、女遊びも金遣いも派手だった。
組織で働くことが苦手で、大卒で某大手食品メーカーにコネ入社するも
3年で退職。20代で不動産屋を立ち上げた。
時はバブルへ、不動産屋は儲かり、
その頃小学生の私は一人っ子だったこともありかなり甘やかされ
伊勢丹の外商で洋服を買ってもらっていた。

父はますますオレ流に人生を満喫。小さな街で社長社長ともてはやされ
飲み屋に大金を流しているようだった。
(自分の賃貸物件のスナックもあったけど)
目立ちたがり屋で、商店会のカラオケで何度も「優勝」(商店会様の忖度だと思う)しては、俺はスターの素質があると嘯いた。

そしてバブルは崩壊。そこから父は崩壊した。
家庭も崩壊し、両親は離婚した。
夜逃げ同然で私と母は引っ越した。
永遠に続くバブルを信じ、私は私立の中高一貫校に通っていたため
学費が払えなくなった。奨学金を受けてやっと私立高校に進学。

高校になると、ポケベルが流行していた。
どうしても欲しいが、お金がなくて
自分で契約ができず母にも言い出せない。
私はふと思いつき、こっそり2年間音信不通だった父と連絡を取った。
父は私と二人で食事しよう、となんだか良さげなホテルのレストランに招待した。私は、心の中で父を利用している自分、そして利用されて嬉しそうな父の顔を見て、複雑な気持ちになった。こんなところで中年男性と食事して援助交際と思われないか心配で、大きめの声で「おとうさん」と言いながら会話した。

ともあれ、ポケベルを無事に手に入れて満足だった。

「じゃ、また連絡ちょうだい」
ポケベルの契約書を受け取った父は
まるで飲み屋のお姉さんに接するかのように
私に声をかけ、あっさりと夜の街に消えた。

私の大学受験時にはいよいよ家庭は金銭的に困難になり
母は私を連れて父の元に戻った。
父はこの頃もう貯金がほとんどなかった。
大切にしていたロレックスの時計も売ってしまっていた。
思い起こせば、あのロレックスは私の塾代になっていたのかもしれない。

私はなんとか大学生になり、再び奨学金を受け、
バイト代で賄うことで無事卒業した。

就職活動中、どうしても入りたかった会社の最終面接で落ちた。
人生で初めて挫折らしい挫折を味わった。最寄駅をフラフラしていると
居酒屋に向かう途中の父に会った。
「何してんの」
「いや・・なんか落ちちゃった、就活で」
「あっそう」
私はリクルートスーツのまま、父の居酒屋に連れて行かれた。
酒豪は私にも遺伝しており、二人で日本酒をたんまり飲んだ。
2時間ほどして、父が言った。
「鶏口牛後って言葉知ってるか。大きな組織で人の後ろで小さな仕事をするより小さな組織で先頭に立って学ぶ方が、成長が早いんだ。その就活とやらは、結果はどうでもいい。どこでも良いから自分で仕事を作るんだ」

酔っ払いなのにまともなことを言うな、とその日のことは20年経った今も忘れない。

卒業後私は結局歩合制で給与もそれなりに良い営業職の仕事についた。時々母からお金を貸して欲しいと言われた。父は絶対に私にお金がないなどとは言わなかった。それどころか「お前はもっと偉くなると思ったけど、ならなかったなあ」などと時折酔っ払った勢いで私のプライドを傷つけた。

最終的に不動産屋は廃業。伊勢丹の外商でモノを買っていた両親は嬉々としてダイソーに通い、自宅で発泡酒を楽しむ人たちになっていた。

それなのに、父は虎の子の生活費を持ち出しては飲みに行っていた。
当時65歳の父は、飲んでは酩酊し、暴言を吐いたり物を壊して警察のお世話になった。

やがて私が結婚したい人を紹介すると、様々な難癖をつけて反対し
考えうる限りの暴言を相手に投げるなどして
3年間結婚に反対され続けた。
娘を騙している、などと相手の会社にまで電話して苦情を入れる始末。
もう結婚は無理か、親と絶縁かなと思った頃
年末、自宅で父と日本酒を飲んだ。
4時間くらい付き合って、どうでも良い話をして
2人で酩酊し気づいたらコタツで朝を迎えた。
朝、ズキズキ痛む頭を抱えながら父を見るとスッキリした顔でこういった。

「そんなに結婚したいなら、すればいい」

そうして、私は今の夫と結婚することになった。
父が吐いた暴言はいまだに夫の心のしこりになっているが
なんとか「許しを得た」形になり、ホッとしていた。

そして迎えた結婚式。
当日、親族紹介をお互いにする段になり
父が「えっと・・」と言い止まった。

自分の親族の名前が出てこない。
結局父の弟(叔父)が代行した。

父は8年間、認知症を患っていた。
私は自分のハレの日に、父の終焉への入り口を見ることになった。

披露宴の「新婦の入場」シーンでは、扉が開いた瞬間
私と腕を組んで歩く父が「どうもー!」と入場
白いハンカチを笑顔で振り回してすっかり自分が主役になっていた。

呆れる私、会場から笑いが漏れた。

思えば、父にとって最後の「ハレ舞台」だった。

この日から8年、認知症が進み徘徊が目立つようになった
父は自宅で脱水症状に。
認知症ということでベッドに1週間拘束され、そのまま立てなくなった。
コロナ禍で家族との面会はほとんどできなかった。
最終的に高齢者が集まる、「死を待つ病院(私の解釈)」に入院した。

会えぬまま、父は4ヶ月後に肺炎で亡くなった。

なんて、あっけないんだろう。

私は、父の死の知らせを聞き、夫が運転する車で病院に向かった。
ずっと涙が出ていた。
この時の感情は、よくわからない。
悔しさ、寂しさ、悲しみ、後悔、そして安堵のミックスだった。

涙で曇る目にふと、月が目に入った。
まだ日のあった午後3時。
白い月は、車窓ごしに私を追いかけてきた。

私は思わず「おとうさん」
とつぶやいた。

病院に着くと霊安室に父が寝ていた。
ドラマでしか見たことのない白い布を顔にかぶって。
触ってみると、温かかった。
さっきまで、生きていたんだ。

死んでしまったのに、さっきまで生きていた父に会えたことに感動している自分がいた。

その後叔父や葬儀屋が来て、
瞬く間に段取りをしてくれた。
直葬にしようと思ってます・・と私が言うと
父に「お金がない」ことを知っていた
父のきょうだいからカンパが寄せられた。

葬儀の手続きの書類を書きながら
「おとうさんがこんな死に方するなんて」
感情のまま呟いた私に、叔父は言った。

「でも兄さん、十分好きなように生きたと思うよ。
香織ちゃんにはありがとうって言ってるよ」
その言葉を聞いてまた涙が止まらなくなり病院の外に出た。
外はすっかり暗くなっていた。
さっき白かった月は金色に輝いていた。

「おとうさん」もう一度呼びかけた。

静かな静かな夜だった。






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