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音楽と生活-My Favorite SPITZ Songs 10+α

スピッツが5月17日に約3年半ぶりのニューアルバム「ひみつスタジオ」をリリースする。
それを記念して(?)、私の好きなスピッツの曲を10曲選んでみた。

いきなり自分語りから始めて恐縮なのだが(読み飛ばしてください笑)、スピッツの存在がなければ、私の人格は幾ばくか今と異なるものになっていただろうし、レコードやCDを買ったりライブやフェスに行ったりするような人間にはなっていなかっただろう。
実家にあったレコードプレイヤーとステレオの前に座ってクラシック音楽を聴くのが大好きな子どもだった私にとって、生まれて初めて好きになった所謂「歌モノ」の曲は、テレビCMから流れてきたスピッツの「空も飛べるはず」であった。(いつごろ放映されていた何のCMだったのかは失念。)

メロディが好きだったこともあるが、何よりもリリックに衝撃を受けたのを覚えている。歌モノの曲は幼稚園や学校の合唱曲しか知らず、それを何となく退屈だなと思っていた私にとって、「ゴミで煌めく世界」とか「隠したナイフ」といった「鋭利な」言葉を歌で使っても良いということがまず衝撃的であったし、同時にカッコ良いと思ったのである。

その後出る「Recycle」といういわくつきのベスト盤を親に買ってもらい、そこから少しずつオリジナルアルバムを聴き始めた。当時学校の友人たちはモーニング娘。とKinki Kidsとポルノグラフィティに夢中だったが、私は「いや絶対スピッツの方が良いのに…」と密かに思っていた。
成長し聴く音楽の幅が広がると、ポップミュージックにはジャンルが(形式上)存在することを知り、グランジやシューゲイザー、ポストパンクなどを通過してスピッツを聴き返すと全く聞こえ方が変わることに興奮した。中学生くらいになるとリリックの意味も少し理解できるようになり、性的な歌詞が大半を占めていることにも驚いたものである。

https://youtu.be/NxGAC5inulE

https://youtu.be/tPgf_btTFlc

しかし、人間は自らの好みと自らの得意なことが合致するとは限らない。私は文章を読み書きしたり楽器を演奏したり作詞作曲したりする「文系的なクリエイティブ」よりも、体を動かしてスポーツをする方が遥かに得意な子どもだった。そのため、私は体育会系的環境に身を置くことが多く、スピッツについて共有できる者は周りにほとんど居なかったし、閉じたコミュニティも苦手なため、ブログやミクシィ、ファンサイト等に参加することもなかった。私にとってスピッツはこっそりとイヤホンで聴く大事な音楽であり続けた。

(超ポピュラーなアーティストにも関わらず)ほとんど他者と共有せずに(つまり自分の中で「社会化」せずに)聴き続ける、という私のアティチュードは、ことスピッツというアーティストに向き合う姿勢としては、あながち不適切ではなかったのでは?と今になって思う。彼らの曲の登場人物のプロファイル及び描写される言動や感情は、大文字の「社会」のド真ん中には居場所が無い、後ろ指を指されるものでもあるからだ。そうした後ろめたい感情や欲望を、何か言い訳をするわけでもなく、時に空虚に、時に甘美に、そして時に狂気的に描く彼らの表現は強烈なカタルシスを感じさせてくれるものでもあり、それと同時に安心を与えてくれるものでもあった。人間が社会化していく中で自分の中から意識的にも無意識的にもデトックスしていくそうしたものを、自分の中に持っていても良いのだと教えてくれたからである。そして、そうした「毒」をなんとか保持しようとすることは、結果的に社会について考えることと同義だ。(特にその初期においては)社会から一見断絶されているように見えるスピッツの曲を通じて私は社会のことを考えてきたのだと思う。

このように物心ついた時から常に身近に存在し、かつ自己の実存や社会認識の形成に深く関わってきた彼らの数多くの曲の中からたった10曲を選ぶのは困難を極めた。
10曲選ぶと言いながらどうしても選びきれずに11曲になってしまった。だけど許してほしい。「魚」も「ロビンソン」も「青い車」も「猫になりたい」も「フェイクファー」も「アパート」も「田舎の生活」も「ナイフ」も「正夢」も、そして素晴らしき最新曲「美しい鰭」も断腸の思いで削ったのだ。
(本当は「ロビンソンはベースラインを聴け!」とか「チェリーって前年に出た小沢健二の“ラブリー”のアンサーソング?」とか色々書きたかった。笑)
ちなみに頑張って自分に正直に選んだ結果、スピッツファンからしたら割とベタな選曲になってしまったのでご笑覧いただきたい。そして、良ければ是非貴方の「スピッツの10曲」も教えてください。


次点 「夕陽が笑う、君も笑う」(1996  from『インディゴ地平線』)

「チェリー」を『インディゴ地平線』のボーナストラックと考えた場合、同アルバムの事実上のラストトラック。スピッツには珍しいストレートなパワーポップナンバー。
アルバム『インディゴ地平線』は今聴くと音像が面白いアルバムだと思う。前作の『ハチミツ』はかなりハイファイなサウンドミックスなのだが、今作は音が籠っており、相対的にローファイな音に聞こえる。(同時代のPavementのように意図的にローファイサウンドを目指したとかではないと思うのだが…)。
そんなアルバムの最後にこのパワーポップナンバーが流れると無敵の気分になってしまうのだ。

怖がる 愛されたい 怖がる
ヘアピンカーブじゃ いつも傷ついてばかり

草野はあまり固有名詞を使用しないが、この「ヘアピンカーブ」のような印象的な普通名詞を使うことに長けている。固有名詞を使えばそこには何かしらのコンテクストが生まれるわけだが、草野が使う普通名詞は、それだけが歌メロのセンテンスの中でポツリと浮かび上がり、イメージを掻き立て、聴き手の脳をジャックしてくる。コードの中にメロディを、メロディの中に言葉を、適切にかつ印象的にハメることができる、このある種の“運動神経”が彼の最大の強みなのだろう。

10 「日なたの窓に憧れて」(1992  from『惑星のかけら』)

シーケンサーのループが印象的な長尺の5thシングル。
長年、私の“No.1スピッツ曲”だったが、何度も聴きすぎたせいか、少し飽きがきてしまい(笑)、王座を明け渡しての10位。一時期、狂ったようにこの曲を聴いていた。

リリックを読む限りでは、曲の主人公は部屋の中から出ておらず、具体的な事象は曲の中に存在しない。妄想と欲望が絡まり合いながら輪廻のようにシーケンサーのループに乗って回り続ける究極の密室音楽。孤独や疎外感が社会との対比で描かれることが増えた近年のスピッツの曲では味わえない閉じたフィーリングが確かにそこにあるが、ミドルエイトとその後の転調においてそれは(閉じたまま)宇宙規模の広がりを見せる。何たるカタルシス。

君が世界だと気づいた日から 胸の大地は回り始めた

1stヴァースのド頭から「君」と「世界」を同一円周上に位置付けるこの感性は、後の「セカイ系」のはしりかもしれない。

9 「今」(2000 from『ハヤブサ』)

アルバム『ハヤブサ』のオープナー。アコギのストロークからサラッと始まる曲なのだが、何よりも、最初のコーラスが終わった直後から入ってくる三輪のリードギターの音が好きすぎる。スピッツの全カタログの中で一番好きなギターの音だ。ギターロックにとって重要な“つんのめる”感覚が剥き出しの曲で、そこにサイレンの様なリードギターが絡みつく。無敵。

8 「新月」(2010 from『とげまる』)

深いリバーブがかかったシューゲイズ/サイケ曲。小節の最後に入る3連のピアノが非常に効果的で、シンコペーションするように次の小節へとつながりループしていく。
ヴァースは非常にまどろんでいるが、崎山のスネアロールが緊張感を持続させている。
草野氏は自分の声のリバーブ乗りが良いことを自覚しているようなので、この路線で1枚コンセプトアルバムを作ってほしい。お願い!

7 「渚」(1996 from『インディゴ地平線』)

彼らの代表曲の一つ。14thシングル。
スピッツの曲にとって「海」は非常に重要なモチーフだ。「波のり」「海を見に行こう」「魚」「トビウオ」…あげだすとキリがないが、本曲はその中でも、いや彼らのディスコグラフィの中でも屈指の曲である。波が打ち寄せては海に帰っていく「渚」という場所を全楽器が混然一体となって表現する様は圧巻である。

それぞれの楽器のテクスチャも完璧だ。反復するハンマービートや素晴らしいタム捌きが聴ける崎山のドラムスも最高だが、私は確信を持ったように動き始める田村のベースラインが好きだ。ベースがカッコ良い楽器なのだということを生まれて初めて知ったのはこの曲だった。

柔らかい日々が 波の音に染まる 幻よ 醒めないで

「夏!海!ドライブ!」って感じの夏の曲も良いけど、こんな密室系の夏の曲があっても良いんじゃない?

6 「みなと」(2016 from『醒めない』)

近年(といっても7年前だが…)のシングルの中では会心の一撃のド名曲。オーセンティックなミドルテンポのシャッフルビート曲だが、ギターやコーラスの重ね方など、プロダクションがあまりにも緻密で聴くたびに舌を巻く。
「渚」と同じく海がモチーフの曲だが、語り手の視座は「渚」とはかなり異なっている。
別れと再会が交錯する「港」という場所から、遠く水平線の先に向けて歌われているような、彼岸の匂いが充満した曲だ。しかし、サビ(コーラス)では…

君ともう一度 会うために 作った歌さ

と見せかけではない痛みを伴った希望が歌われる。

私はスピッツがデビューした91年生まれなのだが、これが出た2016年、「私もスピッツも同じだけ年を取ったのだ」と感慨深い気持ちでこの曲を聴いていた。そこから約7年。あまりにも多くのことが起こった7年だった。この曲は今も7年前と同じ水平線に向かって歌われている。

5 「夏の魔物」(1991 from『スピッツ』)

キャリア初期のセカンドシングル。
つんのめるエイトビートの曲の中にこれだけ“死の匂い”を充満させられることに驚く。また1stアルバムの曲にしてその世界観や演奏の記名性も確立されている。(これは同期のフィッシュマンズなどと大きく違う点だ。)

殺してしまえばいいとも思ったけれど 君に似た
夏の魔物に 会いたかった

リリックは堕胎や死産がテーマなのではないかと言われているが、私は歌詞の考察や解釈にそこまで興味がないので、デカダンスとも少し違い、タナトスを感じるわけでもない、この「死の曲」にただただ毎回ゾクゾクするのだ。

4 「名前をつけてやる」(1991 from『名前をつけてやる』)

傑作2ndアルバムのタイトルトラック。サイケな風味だがハードロックなのかファンクなのかわからない奇妙なナンバー。
ネオンが似合う妖しくてエロティックな曲にもできたはずだが、どこかマヌケな感じのリリックが草野節。

名前をつけてやる 残りの夜が来て
むき出しのでっぱり ごまかせない夜が来て
名前をつけてやる 本気で考えちゃった
誰よりも立派で 誰よりもバカみたいな

“男性による男性の性欲のカリカチュア化”という意味では非常に現代的なリリックであり、Arctic Monkeysが「AM」(2013)でトライしたことを20年以上前にやっていると見ることもできる。(褒めすぎ?)

ヴァースにおけるリリックの乗せ方はどこかヒップホップ的でもあり、聴くと絶対に歌ってしまう。

おまけ


トップ3に行く前に、数多く存在するスピッツのカバーの中から、指折りのものを2つ紹介したい。ちなみに私が確認した限りではストリーミングサービスでは聴けなかったので聴けるようになって欲しいところだ。

・「君と暮らせたら」(covered by 初恋の嵐 feat. 曽我部恵一)

アルバム「ハチミツ」の発売20周年を記念して2015年にリリースされたトリビュートアルバム『JUST LIKE HONEY~『ハチミツ』20th Anniversary Tribute~』に収録されている。

サニーデイ・サービスの曽我部恵一氏をボーカルに迎えた初恋の嵐によるカバーという最高が約束された組み合わせ。多くのスピッツファンの方々にバッシングされることを承知の上で書くが私はこちらのカバーの方が好きである。特に最後の「15の頃の スキだらけの 僕に笑われて 今日も眠りの世界へと すべり落ちていく」と歌う曽我部氏のボーカルはオーバードライブギターを聴いているような高揚感を与えてくれる。

・「田舎の生活」(covered by Lost In Time)

2002年に発売されたスピッツのトリビュートアルバム『一期一会 Sweets for my SPITZ』に収録。オリジナルは92年発売のミニアルバム『オーロラになれなかった人のために』に収録。

オリジナルはミニマルなフォークミュージックなのだが、非常に美しいメロディの曲なので、「これをバンドサウンドにしたヤツ聴きたいなあ」と思っていた。その願望を叶えてくれたカバー。
ちなみにこのトリビュートアルバムは椎名林檎や奥田民生などが参加した豪華なアルバムなので興味のある方は是非。

3 「さらばユニヴァース」(2000 from『ハヤブサ』)

出だしのヴァースがいきなり最高である。

半端な言葉でも 暗いまなざしでも
何だって俺にくれ!

マゾヒスティックな欲望がサディスティックに歌いあげられる。この入り組んだ倒錯に気持ちが持っていかれる。
そして、「今」と同じく、アコギの高速だが朴訥とした弾き語りに鋭利なバンドサウンドが見事に絡みついているが、曲の構造はかなり奇妙で、リリックで使われる普通名詞も奇妙だ。
「デコボコの宇宙」「シャレたユニヴァース」など、現実ではその名詞とその形容詞ぜったいに繋げないだろという組み合わせである。
千葉雅也が『勉強の哲学 来たるべきバカのために』で記している「言語の他者性」を、この曲に限らず草野は理解してアウトプットしているように思う。

言語能力は、現実的に行為しながら身につけていきますが、言語それ自体は、行為から切り離して使うことができる。要は、「言葉遊び」ができるということです。
言葉遊びは、言語を「それ自体」として取り扱うから、できるのです。
このことに十分注意を向けてください。言葉は、レゴ・ブロックで何かをつくるように、どうにでも遊びで組み合わせることができる。
言語それ自体は、現実から分離している。
言語それ自体は、現実的に何をするかに関係ない、「他の」世界に属している。
このことを、「言語の他者性」と呼ぶことにしたい。

『勉強の哲学 来るべきバカのために』(文藝春秋)p35,36より

なかなか分析するのが難しいが、草野は言葉を現実社会のコードから切り離したうえで、自らの世界=宇宙の中で再構築して提示している。そこに特定のコードが存在するのかもこちらからはわからない。
だから、スピッツのフォロワーは大量に存在しても、この世界観まではフォローできないし、我々はその世界=宇宙に魅了され続けているのだ。

*ちなみにCHAT GPTを使って歌詞を調べていると、この曲をAIが解説してくれて面白かったので載せておきたい。

ひとつも納得できないけど、まあいいや笑

2 「プール」(1991 from『名前をつけてやる』)

2ndアルバム収録。性行為をモチーフにしたシューゲイズサウンドの曲だが、My Bloody Valentineや彼らが影響を公言していたRideのサウンドというよりは、どちらかと言うとYo La Tengoのようなホワイトノイズが心地よい曲。
私的にはとにかくサウンドが好きな曲で、ずっと聴いていられる。スピッツは曲の構成にギターソロを入れるのが比較的多いバンドだが、私はこの曲のソロが最も好きだ。そして何と言っても、ギターソロの少し後にくる途轍も無いまどろみである。かつてミツメがこの曲を素晴らしくカバーしていたが、本家のこの“煮詰めた虚無”のようなまどろみには及ばない。

1 「サンシャイン」(1994 from『空の飛び方』)

冒頭のフィルから気持ちを全て持っていかれる。もし聞いたことのない方がいらっしゃれば、こんな文を読むのはすぐにやめてとにかく聴いていただきたい。聴きどころはやはりドラムだろうか。スネアの音色、最高。
「サンシャイン」というタイトルから、陽光が降り注ぐ地中海やサンタモニカのような情景を想像した方がいれば、それとは正反対の曲だとだけ言っておきたい。

この曲には度々ファンが言及するリリックがあるのだが、それを見ていただければわかるだろう。

すりガラスの窓を あけた時に
よみがえる埃の粒たちを 動かずに見ていたい

「よみがえる埃の粒」とは一体何なのか?
人間が経済合理的に(だけ)生きる場合、生活回りの様子や事象について言語化する機会はほとんど存在しない。部屋の中の様子や机の上の状態、街の様子などを、自分のフィルターを通して客観的に描写することは経済活動には基本的に不必要だからだ。小説などを読む意味の一つはおそらくその描写の仕方を学ぶことにあると私は思うのだが、どれだけの小説を読んでも、こんな一節を書くことができる気がしない。描写力、観察力、どちらも心配になるほどスペシャルである。

そしてアウトロ。
あの倍音豊かな声で「サ~ンシャ~イン。Oh…」と歌い上げられるだけで、私の感情はグチャグチャになるのだ。

ズルい。私も草野マサムネになりたかった。

*ちなみにこの曲も歌詞をCHAT GPTで調べるとこのように記されていた。

嘘ついてんじゃねえ!!てか陳腐な解釈してんじゃねえ!

まだAIにはスピッツは早かったようである。


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