焜炉 #むつぎ大賞2024
サビカスが手を止めて向き直った。先ほどまでの明るかった表情と一転して、明らかに強張っている。
「知らない。覗こうと思ったこともない」
怖いし。付け足したようなそれは独り言のようにも聴こえた。
それから彼女は、小さい身体でようやくスコップを持ち上げ、また唐辛子を巨大な釜を支える焜炉の投入口へ黙々と投げ込み始めた。
もう特産の“辛味”については話してくれない。
「悪かったよ」
僕が言うと、サビカスは振り返って少しだけ笑みを浮かべたあと首を振った。
部屋が暖まってくると、ようやく落ち着いて周囲を見る余裕ができた。
あまり砂糖が潤沢ではないらしく、明かりは乏しい。数匹の螢が天井に吊り下がった袋の中で飛び回っている。そういえば街ではノイローゼになるくらい聴こえていた羽音がここではほとんどしない。
室内こそ薄暗いものの、とりあえず一人が生きていくのに十分な味は揃っていそうだった。隅に積まれた白い粉は砂糖じゃないとすれば塩だろうし、レモンやグレープフルーツが箱のまま几帳面に置かれている。
「どうぞ」
釜の上から梯子を下って来たサビカスが湯を差し出してきた。巨大な釜の中身は煮立ったこれだったらしい。
しかし、緑色。キッチンで湯に何かを加えていたのが見えたが、ミネラルを足しているものかと思っていた。
どうやら、いわゆる茶と呼ばれていたものの一種を作っていたようだ。
「味がわかるのか?」
まさか、とサビカスが笑った。
「雰囲気を楽しむことにしてるんだ」
彼女はテーブルに白菜だったと思われる葉物野菜を赤く色付けたようなものを更に載せて並べた。
「唐辛子が余ってるからね。試しに作ってみたんだ」
僕はわけもわからず目の前の皿を見つめた。おそらく、食べ物として提供されたのだろう。しかし、色も形も普段と異なるものを口に運ぶ勇気が急に出るはずもなかった。
目の前の液体に物体、そして提供者とを交互に見つめ続ける僕を見て、サビカスはため息をついた。
「あなたも白パンしか食べてないんだね」
わざわざ目の前に置いて、試したかったかのような口ぶり。
他のものを摂取する意味も利点も無い。
「申し訳ない。このあたりでは当たり前なのかもしれないが、もう僕らの街では味のするものを扱わないんだ」
「このあたりでは当たり前、ね」
サビカスが箸で赤々とした白菜を摘んだ。
「そんなわけないじゃない」
口に放り込んだ彼女は咀嚼した。
パリパリ。聴き慣れない音は何故か心地よかった。もう少し彼女の音を聴いていたいと思ったが、長居する余裕も無かった。僕は麻袋を広げる。
「注文の珈琲豆。わざわざギンズバーグの爺さんから買ったらしいけど、このへんの集落にもあるだろう?」
「うわぁ、助かる!」
サビカスは目を輝かせた。最初に顔を合わせたときの笑顔がようやく戻ってきた。
唐辛子くらいしかない田舎とは言え、通りにあったステーションで珈琲豆はいくらでも見かけた。
「輸送費も安くないんだぜ?」
「たまの贅沢だよ」
笑顔の隠しきれないサビカスからコインを受け取り、念入りに数える。
「贅沢って?」
珈琲の値段はどこもほとんど同じだ。
「産地にもよるし、豆の品種も違うからね」
言いながら、サビカスは麻袋を担いでまた大釜のほうに向かう。中に何がいるのかすら確かめたことのない焜炉とよく共存出来るものだと感心する。
大釜を使う家はほとんど無い。何せ火を扱う動力なんて、小型の爬虫類ばかり。“辛味”は本来それなりに貴重なものなのに、サビカスはスコップで投げ入れるほどの唐辛子を所持している。
戸棚からサビカスは見慣れない道具を取り出すと、キッチンの小さな台に置いた。
「それは?」
「豆挽き」
彼女が驚いたような目で僕を見る。
「知らないの?」
僕は首を横に振った。
知ってはいるけど、それは僕らには必要のないものだろう。そう言いたかったが、先ほどの茶を思い出し、口には出さなかった。
「君は珈琲も飲むのか?」
「だって、飲むものでしょう」
サビカスは肩をすくめて、ガラガラと豆を挽き出した。
「見たことある?」
「うん……まぁ、飲んだことは無いかな」
知る機会はあった。
泥のように黒い液体。口に運ぶ気にならない。
「ギンズバーグさんのところしか扱ってないんだよね。わざわざジャコウネコの糞から回収してるんだって」
ザザザ。ガガガ。
豆を挽きながらサビカスが言う。えらく機嫌が良くなったようだ。
「糞から? 何を?」
「何って、いま珈琲豆の話をしてるんだよ?」
思わず顔をしかめてしまう。
考えてみればあの爺様も相当な変人だ。商品がどこでどう使用されるかなんて、僕にとってはどうでもいい。だからギンズバーグの扱ってる岩塩――“塩味”なら海でいくらでも採れる――だとか、牛肉――“旨味”は豚肉でも代替できるし量も多い――だとかも、ただ言われるがまま運ぶだけ。
わざわざ家の中まで招き入れてくるような変わり者に会わなければ、気にするきっかけも生まれない。
……生まれなかったんだろうか? 気にしたことはなかったか?
ゴリッゴリッ。
豆を挽く長さの相場がわからないので、サビカスが手こずっているのかそうでないのかわからないが、まだかかっているようだ。
「爺さん、昔は政府が大量生産した珈琲豆しか仕入れてなかったんだよ」
サビカスは手を止めずに僕を見た。
「変化は不可逆的だ、ってガキの頃はよく聞いた」
「不可逆的?」
首を傾げるサビカスはようやく手を止めた。
「いつだったか、考え方が変わったって、僕にはわけのわからないものを扱い出したんだよな」
人間の変化には可逆性があるはずだ、って。
そのせいで役人には忌み嫌われて、店は今にも潰れそうだ。という続きは口に出さずに飲み込んだ。そんなことを伝えれば、目の前のお嬢さんがきっと悲しむ。
そんな僕の雰囲気が伝わってしまったのかいないのか、サビカスはそれ以上は突っ込まず、棚からまた見慣れない硝子の瓶のようなものを取り出す。名前は忘れてしまったが、あれが豆からいわゆる飲む珈琲を抽出する機材であることはわかる。口には丁寧に紙を載せていく。
それから彼女はまた梯子を登って釜の上を目指す。焜炉の部分だけでも大人一人分の高さがあり、釜はその倍近くある。
普通の住宅に備え付けられた焜炉なら、せいぜい火蜥蜴の類とか小型の爬虫類を入れておけば“辛味”はそれほど無くても事足りるだろう。家主すらも覗いたことがないあの焜炉。あんなに大量の唐辛子を必要とするそこに何を置いているんだろう。
大釜から、これもまた大きなお玉で汲んだ湯を慎重に持ってサビカスは梯子を降りる。ずいぶん慣れているらしい。
湯は、硝子瓶の上に載った紙へ少しだけ注がれた。
「そうやって作るのか」
「これは湯通し。まだ肝心の豆が無いでしょう。なにも知らないんだね」
サビカスは得意そうに話し、フフッと少し笑った。
珈琲が液体であることを知っていただけ、マシだと思って欲しい。若い世代には白パンと透明な栄養水しか見たことがなく、珈琲は“苦味”用の豆としか認識していない連中だって少なくは無いんだから。
ザラ。
サビカスが紙の上に砕かれた豆を載せた。その上からトクトクと湯が注がれる。紙で濾された豆の成分がゆっくり下の瓶へ溜まっていく。
やはり、おおよそ口に運ぶことなんて出来そうもない真っ黒な液体に見える。しかし、普段見ることの無い丁寧に調理されていく“苦味”、珈琲の出来上がる過程。僕は目を離すことが出来なかった。
「興味津々といったご様子で」
からかう様に言って、サビカスが出来上がった珈琲を白いカップに入れて運んできた。ご丁寧に二つ。
「まぁ、興味が無いと言えば嘘になるよ」
サビカスはカップの一つを僕に差し出してきた。
「それなら一度飲んでみるっていうのも悪くないんじゃないかな」
彼女は言いながら自分のカップを口に運んでいた。
ズッ。彼女の口が鳴る。
続いてコクンと、喉を鳴らして彼女に珈琲が飲み込まれていった。液体である以上、普段飲んでいる栄養水と飲み心地に変わりがあるはずもない。なのに、どうしてだか、サビカスに取り込まれていく珈琲は重たく見えた。
僕もカップを口に運ぶ。手の動かし方も、口の開き方もぎこちなくなっているのがわかった。
口の中に珈琲が運ばれる。
熱。最初に感じたのはそれだった。当然、湯であることは間違いないわけだから、当たり前のことだ。
いつもと違うのは、舌の上に覚える絡み付くような質量。
やはり。実際に違ったのだ。重さがある。栄養水には何一つ反応しない僕の舌に響いた手応え。
「苦味……?」
思わず、口をついて言葉が紡がれた。“苦味”を、味として発した、まごうことない苦味のことだった。
自分で発した言葉に自分が動揺した。が、その瞬間に動揺を誘う原因がもう一つあった。
目の前のサビカスから、一切の感情が読み取れなくなったこと。
彼女は口元だけは微笑を浮かべつつも、しばらく何も言わずに僕の顔を見つめた。最初の一口以来、彼女は珈琲に口を付けてすらいなかった。
突然背筋が冷たくなり、嫌な汗が流れる。
「感じたんだね」
どれくらいの時間が経ったのか、ようやく口を開いたサビカスの声は、焜炉の中を尋ねたときよりも暗く、低い。
僕は何も返さなかった。
「見たいんでしょう」
次のサビカスの言葉は想定すらも出来ないものだった。
「み、見たいって?」
僕は声が裏返っていた。
わかっている。焜炉の中のことだ。
確かに気にはなった。しかし、見たいなんて一度も口にしてはいない。少し雑談がてら尋ねてみただけのことだったのに。
「ねぇ、食べてよ」
今度はサビカスは赤い白菜を僕に勧めてくる。
僕は口を固く閉じた。
「美味しいよ。私にはわからないけど」
サビカスはまた箸で白菜を摘んでバリボリと咀嚼する。先ほどは心地よく聴こえた咀嚼音も、今度は得体の知れないものが僕を噛み砕かんとしているように感じる。
と、サビカスの箸が勢いよく僕の口へ伸ばされて、無理やり赤い白菜が押し込まれた。
「うわっ、ゲホッ……」
これは。
口の中に広がるのは、こんな状況であるにも関わらず快感と言っても差し支えない。白パンをいくら食べても感じたことのない、きっとこれが旨味。
そして、続いて現れたのが、熱。口の中から熱が生じて、熱い。熱さはきっと辛味。火を吹くような熱の辛味。
「ゲホッ、ゲホゲホ」
辛味が原因だったんだろうか。僕は喉の痛みからえずいていた。
もはやショックか、痛みか、恐怖か、どれが原因なのか。僕は動けなくなっていた。
「あなたには見せてあげるよ。私は見たくないんだ」
サビカスが僕の手を取った。酷く冷めた手には、暖かさが必要だと思った。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?