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未来と芸術展にいく

正式名称は「未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命ーー人は明日どう生きるのか 豊かさとは何か、人間とは何か、生命とは何か」。現在六本木ヒルズ森美術館にて行われている展示会です。この展示会、私にとって忘れられない展示会になったので、その様子をお伝えいたします。

まずは、公式による展示会の説明をご紹介します。

テクノロジーの発達は、いま、私たちの生活のさまざまな側面に大きな影響を与えようとしています。近い将来、人間は多くの判断を AI(人工知能)に任せるようになり、AIが人類の知能を超え、私たちの社会や生活に急激な変化をもたらす「シンギュラリティ」が到来すると言われています。また、ブロックチェーン技術は、社会システムに新たな信用と価値を作り出し、多様なバイオ技術は、食や医学、そして環境に多大な影響を与えることになるでしょう。私たち人間が身体機能を拡張させ、いま以上に長寿を享受する時代もそう遠くない話なのかもしれません。そうした急激な変化がもたらす未来は決して明るいものだけではないかもしれませんが、私たちは、少なくとも20-30年後の未来のヴィジョンについて考えることが必要なのではないでしょうか。それは同時に、豊かさとは何か、人間とは何か、生命とは何かという根源的な問いにもつながるのです。本展は、「都市の新たな可能性」、「ネオ・メタボリズム建築へ」、「ライフスタイルとデザインの革新」、「身体の拡張と倫理」、「変容する社会と人間」の5つのセクションで構成し、100点を超えるプロジェクトや作品を紹介します。AI、バイオ技術、ロボット工学、AR(拡張現実)など最先端のテクノロジーとその影響を受けて生まれたアート、デザイン、建築を通して、近未来の都市、環境問題からライフスタイル、そして社会や人間のあり方をみなさんと一緒に考える展覧会です。https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/future_art/index.html

私の関心の一つに、テクノロジーがあります。AIやxR、ロボットやドローンなど、様々なテクノロジーが発達する中で、例えばPerfumeのPVに用いられるような映像表現や、これまでにない高所やアングルからの画像が生まれ、単にテクノロジーを便利なものとして活用するだけでなく、テクノロジーを活用した芸術が次第に一般化しつつあるように思います。youtuberにしても、誰もが映像表現の担い手になれる、アプリケーションとネット環境の普及により生じた表現者といえると思います。そうした最先端のテクノロジーの紹介と、テクノロジーを活用した芸術を展示しているのだろうと思い、足を運んだのですが、見事に返り討ちに遭いました。

この展示会は、紹介文にもある通り、「都市の新たな可能性」、「ネオ・メタボリズム建築へ」、「ライフスタイルとデザインの革新」、「身体の拡張と倫理」、「変容する社会と人間」という5つのセクションで構成されています。しかし、大きく2つに分けられるように思いました。前者3つは、テクノロジーが目指す未来、色々なこと考えるんだな、というほのぼのふむふむパート。対する後者は、頭が痛くなるような、倫理観を揺さぶられるぐらぐらパート。ちょっと語彙力がないですね。前者を見た流れで、そのまま後者に入ると、本当にメンタルをやられそうになります。

入場すると、まず迎えてくれるのは「都市の新たな可能性」パートです。地上に人が住めなくなった場合の水上都市や、交通網をすべて地下に配し、地上をのびのびと人類が生きる都市、植物との共生を目指した都市、再生可能エネルギーのみを活用した都市。いずれも、20世紀の高層建築のような、建築や整備に多大なコストや環境への負荷がかかるものから、生物の多様性や、自然との共生といった持続可能な都市への転換を示しています。持続可能はここ数年のトレンドですよね。

続く「ネオ・メタボリズム建築へ」では、新たな建築資材や、建築方法を紹介しています。植物の繊維を活用した建築資材や、ドローンを用いた建築手法など、こちらも前のパート同様、持続可能がキーワードであるように感じました。

「ライフスタイルとデザインの革新」この辺から少し雲行きが怪しくなります。人間の神経をモチーフにした衣服の展示や、食材データを3Dプリンターで出力した寿司など、段々と首を傾げたくなるような展示が続きます。食べ物といえば、最近アメリカでは人工肉を扱うベンチャーが増え、消費者も受け入れつつあるという記事を読みました。畜産は温暖化の要因であるとされ、食肉を人工肉に代替できれば、地球温暖化の抑制につながるとか。こんなところでも、テクノロジーがこれまであった仕事を駆逐する話があるんですね。AIに奪われる仕事ランキングに畜産が入ってくるかもしれません。実際はAIではありませんが。

さて、ここから後半です。「身体の拡張と倫理」。倫理について、深く考えずに日常を過ごしているのですが、頭を掴まれ、ぐらぐらさせられているように感じました。例えば細胞に音楽を刻む技術。この技術を使うと、数万年先の未来に、音楽を残すことができます。もちろん音楽という情報を読み取る技術を数万年先に残している必要はありますが、仮に、過去に滅んだ文明があるとして、同様の技術を持っていたとしたら、化石の中に、前の文明の音楽が刻まれている可能性があります。と書くと、なんともロマンのある話ですが、細胞に音楽を刻むということは、人間を記録保存媒体として使うことが可能ということです。歩くSDカードといったところでしょうか。ホラーですね。そういえば、アニメ版ロックマンエグゼで、重要なデータを人間の網膜に刻んで隠す、なんてこともありました。

人間のあらゆる臓器を複製できる、万能細胞なんていうのもあります。肝臓が悪くなったら新しい肝臓に取り替える、耳が無くなったら新しい耳を作る、ドナーいらずで臓器を手に入れることができる、本人の細胞で作るので、もちろん拒絶反応もない。ドナーを必要としている人にとっては、とても素晴らしい技術です。でも、その臓器をつくるのがねずみだとしたら。ねずみに、万能細胞を植え、耳を培養するとしたら。ちょっと戸惑いますよね。そういった技術を、芸術として表現している方の作品の展示もありました。急に芸術がやってくるのです。ここに、芸術の一つの役割を見た気がしました。テクノロジーって、とても夢がある話で、よりよい未来に寄与するものだと思われがちですし、事実そうなのだと思いますが、そういったものの裏側にある、言葉に形容し難い気持ち悪さのようなもの、これってそれでいいんだっけ?という投げかけ、それらを表現するのも、芸術の役割なのかなと。テクノロジーだけでなく、その時代ごとのそこはかとない不安感などを表現することも、これまで多くあったように思います。芸術に関する視点が一つ増えました。

人間をどこまで改変してよいのか、という展示もありました。ガンダムSEEDでもありましたが、改造された人類というのは、古くから用いられるテーマです。人類の生存により寄与する改造を人間に施してよいものか。そのような改造を施された赤ん坊の姿が示されていました。これも感覚的に嫌悪感があったのですが、例えば足が早く改造された人間が同級生にいて、その人にはどうやっても勝てないとしたら、自分も改造されたいと思うのかもしれないし、または排斥したくなるのかもしれない。技術がある以上、人類は使ってしまうのだろうし、そうするとみんな改造されるしか平和になれないような気にもなります。

最後、「変容する社会と人間」。ここで一番しんどかったのは、家族の在り方を描いた展示です。現時点で既に、三人以上の親から一人の子供を生み出す技術が存在するそうで、イギリスでは医療目的に限り、許されているそうです。子どもが欲しいが、自分のキャリアを中断させたくない女性と、自分の子どもが欲しいが、経済的に苦しく難しいと感じている女性が仮に巡り合い、その二人を受け入れる男性がいた場合、この三人が、一人の子供を持ったとき、これはなんなのでしょうね。どことなく気持ち悪さは感じるものの、実際のニーズとしては確かに存在するような気もします。多様な価値観を認めたい一方、それが自分の身に降ってきた場合、自分は受け入れられるのだろうか、そもそも受け入れる必要があるのだろうか。テクノロジーが人の命に介入できるようになると、様々な倫理的問題を生み出すことを眼前に突きつけられ、そしてそれが空想ではないことに、衝撃を覚えました。

この展示会は、正直に申し上げて気持ち悪かったです。でも、この気持ち悪さが、今この時代を生きる自分にある倫理観との乖離であるとするならば、真正面から向き合っていかないといけないし、向き合いたいと思う。人工妊娠中絶も、当時の人からするときっと気持ち悪いことだったのだと思うけど、今は受け入れられている。LGBTにしてもそう。であると、この気持ち悪さは新しい世の中のスタンダードであるのだろうし、自分の中の多様性を育むためには、避けてはいけないのだと思う。そうしないと、無意識な差別を生んでしまうように思うから。

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