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叩いて良い人を選んで叩く人たち


副題:叩きやすい人を選んで叩く人たち


(本記事では「叩く」を批判行為やバッシング行為などとして捉えている。要するに、本記事においては、まともな理由に基づく批判も、ただのバッシング行為も「叩く」と表現されている。)


世の中には叩きやすい対象というものが存在する。

例えば、仮にあなたがオウム真理教やその後継団体を非難する言動をとったとしても、世間であなたが何らかのダメージを受けることは基本的にないはずだ。

それは、あなたが仮に北朝鮮を批判するような言動を取ったとしても同様で、その言動によって、あなたが何らかのダメージを受けることは基本的にないだろう。(あるとすれば、北朝鮮と何らかのつながりがある団体から目を付けられること程度ではないか。)


では、あなたが仮に自民党政権を批判する言動を取ったとしたらどうなるであろうか。2021年現在、自民党政権の支持者が日本社会にかなり存在していることを踏まえると、あなたのその言動に不快感を抱く人が出てくるのは避けがたいことだろうし、その批判の内容が客観的に妥当か否かによらず、何らかのダメージ(人間関係で何らかの距離を取られたり仕事を干されたりするなど)を受けるリスクが生じてくるはずである。

大手マスコミが、大物政治家の不祥事に関する極秘情報を入手したときに、そう報じるのを躊躇うケースがあるのは、その不祥事を報じた場合にその政治家サイドから冷遇・スラップ訴訟などといったダメージが来るのを恐れているからである。



政経の世界だけではなく、創作の世界でも同様の事態が起こっている。

或るキャラを持ち上げたいときに、そのキャラの顔面偏差値を上げる一方で、別の或るキャラを貶めたいときに、そのキャラの顔面偏差値を下げる作り手は多い。

例えば、暗殺教室の作者である松井優征氏はNHKの番組「SWITCHインタビュー 達人達」でこう述べている。

そんな…なよやかな女性とか成人男性とかを殺そうとしても、それは何か凄い罪な感じになっちゃうんで。だったら、もう「殺してえ、こいつ」と思うような舐め腐ったようなフォルムを、先生がいいし。

この発言を分かりやすくまとめるなら、「なよやかな女性や標準的な成人男性を殺害するストーリーにしてしまうと、読者に罪悪感を抱かせてしまい、読者受けが狙いにくくなる。だから、読者に『こいつ殺したいなあ』と思わせるようなフォルム(キャラ造形)にした方が良い」といった感じになるであろう。

つまりは「読者に罪悪感を抱かせてしまい、読者受けが悪くなるというダメージ」を避けるためには、読者に「このキャラは、どんなに叩いてもOK」と思わせるようなキャラ造形にすべきということだ。

イケメンや美女のキャラがブサイクなキャラを成敗するストーリーに拍手喝采する読者・鑑賞者は少なくないし、これは商業的な成功を求める上で普通に正しい主張なのかもしれない。


筆者はそういった作品を否定しようとは思わないが、そういった手法はリアリズムとは相容れない部分があるし、文学や芸術の醍醐味の一つである新たな気づきを読者・鑑賞者に何も提示できていないという点で望ましくないと考えている。


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最近ネット広告でこういった内容の漫画をよく見かけるが、この系列の漫画を読んだとしても「周囲を不快にさせる人間は周囲に嫌われていく」といった程度のことしか頭に残らないのではないだろうか。「周囲を不快にさせる人間が周囲に嫌われる」というのは小学生ですら知っていることであり、その作品でないと到底得られないような気づきといったものがそれらの作品に存在しているのかは微妙なところである。

(ただし、『ワタシってサバサバしてるから』は読者の中には「網浜奈美さんは、よくよく考えると、そこまで悪くない人ではない説」を唱える者もいて、網浜というキャラに人間味を感じる読者もいるようである。人間の中身や性格に関する示唆を提示する内容が込められている漫画であれば「その作品でないと到底得られないような気づき」が含まれていると考えることも出来る。)


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前述した番組でドラえもんが言及されていたので、少し藤子不二雄作品に触れてみようと思う。

藤子F不二雄氏の『エスパー魔美』に「くたばれ批評家」という回がある。フィクションの世界や世間において、批評家は昔から「文句ばかり言うくせに自分では何も創作しないウザい奴」というイメージで語られることが多く、「叩きやすい人を選んで叩く系」の漫画家であれば、「主人公サイドが批評家を成敗するといった安直なストーリー」になっていてもおかしくなかっただろう。タイトルも「くたばれ批評家」という文言になっていることだし。


だが、20世紀を代表する天才、藤子F不二雄氏は違った。藤子F不二雄氏はこのストーリーで、「批評行為とは何なのか」といったテーマ(メッセージ性)を取り上げている。この回の内容をまとめたサイトに「考えさせられる話」というタグが付いているように、藤子F不二雄氏はこの回を通して読者に(批評行為に関する)新たな気づきを提示しているのだ。


勧善懲悪というジャンル自体に問題があるわけではないだろうし、筆者は「『叩きやすい人を選んで叩く系』の作り手による作品を読むな」とは思わない。だが、「自分がいま鑑賞している作品にその作品でないと到底得られないような気づきはあるのかといった問題意識」は抱いてみても良いのではないだろうか。


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