臆病な繊細型ナルシストがサイコパスになった話

サイコパシーとは「冷淡さ」のことだ。

僕は冷淡さを獲得した。もはや「嫌われる」ということに何も感じない。しかし、昔の僕はHSP(Highly Sensitive Person)と呼ばれるサイコパスと正反対のタイプだった。HSPは共感性が高く繊細で、周囲に対して常に気を遣う。しかし、共感性の高いHSPこそサイコパシーを獲得するべきかもしれない。


まずは、僕がサイコパス化した経緯を話そうと思う。

小学生の頃の一人称は ”俺様” だった。これだけ聞けばただのナルシストだが、HSPの特徴を兼ね備えた「繊細型」である。これは最悪のパターンで、父親や先生に叱られるとすぐにメソメソ泣くほどメンタルが致命的に弱い。他人の顔色を常に窺い、彼らを失望させないよう完璧な自分を演じる。他人にとって完璧でない自分が許せない。そして、傷つくことが怖いのだ。

一方、周りの同級生は叱られても「サーセンw」とヘラヘラしていたので、彼らは内心クズだと見下していた。だが、その図太さは正直羨ましかった。僕は、臆病でナルシストな自分が嫌いだ。

常に”嫌われたくない”という不安を抱えて過ごしてきた。どれだけ仲がよくても、一緒に過ごす時間が長くなるほど、神経は擦り減っていく。この際なので聞いてみたい。あなたは友達と3人で街を歩くとき、何を考えていた? 

三人横並びで歩けば周りの人に迷惑だ。しかし、二列で歩けば一人がハブられる。僕にはその痛みがよく分かるので、自らその「一人」になろうとした。いい年をした大人ですら、この気遣いと勇気を持ち合わせていない。

ヒトは群れると必ず傲慢になる。その傲慢さが憎たらしくて羨ましいのだ。他人の迷惑を顧みず、群れでメェメェ鳴いてるヤツらが一番幸せに思えた。しかし、当時の僕にはそれをするだけの狂気を持ち合わせていなかった。

大学生になってわずか数か月で希薄な友人関係にウンザリし、孤独という地獄を選択した。「孤独が男を変える」といった自己啓発本を鎮痛剤のように読み漁った記憶がある。自己啓発は良い意味でも悪い意味でも、変化を望む自分を肯定してくれる。この時点では底の知れた”意識高い系”に過ぎないが、孤独と不安の中で生きるにはそうするしかなかった。

そのうちHSP関連の本と出会い、ようやく自分の繊細さを受け容れることができた。同時に僕は「孤独」を悟り、一度目の生まれ変わりを果たした。自然な態度で人と接することができるようになり、その余裕は周りの人間を魅了した。人間は本当の孤独を知らなければ、人を愛することはできない。

しかし、当時の僕は誰かを愛するよりも、世界を呪い殺すモチベーションの方が高かった。ナルシズムがピークを迎えた僕にとって、彼らの精神年齢など100年ビハインドしているようにしか見えなかったので、もはや興味も湧かなかった。僕の興味は「健常者」ではなく「異常者」へ向かっていた。

サイコパスを知ったのはその時だ。まさにサイコパスは、僕が憎み、憧れた人物そのものだった。僕はサイコパスに自分を投影し、「他人を利用する」ということに酷くこだわった。それが僕にとって世界への復讐だったのだ。だがその内に、サイコパスの精神構造そのものを理解することができた。

もともと僕は、善人ヅラをした悪人である健常者を目の敵にしていた。面白いのは、サイコパスも「他人の迷惑を顧みないクズ」に変わりないのに、彼らはむしろ端正な悪人ヅラをしていることだ。その清々しさを貶したところで、かつての僕のように「嫌われたくない」とか「認められたい」という感情に支配される人間の方こそ、馬鹿なヤツだと一蹴されてしまうだろう。こうした空想上の論破が、まさに僕をサイコパス化させたのだ。


自称サイコパス

僕のように清々しくサイコパスを自称する人は珍しい。そういう人は「中二病」と呼ばれ、世間様から笑われるのがオチだ。サイコパスに憧れる人は多いものの、大抵の人はそうした軽蔑を恐れ、自己愛を持て余す。それを癒すためには、自称サイコパス共を嘲笑する側に立つしかないのだろう。彼らはかつての僕と同じ、臆病なナルシストだ。

残念ながら、そのような人が本当の意味で「憧れ」を棄て去るのは難しい。しかし一旦「憧れ」を認めてしまえば、案外ことは上手く運ぶものである。僕らはいずれ、サイコパスに対する「憧れ」の状態から脱却し、サイコパシーを”操作する”ようになるだろう。

そのためにはまず、「憧れ」を認めることから始るといい。これは同時に、「嫌われたくない」とか「認められたい」という非サイコパシーを潰す作業でもある。サイコパシーを獲得すれば、そんな感情がクソの役にも立たないことを身をもって理解するだろう。

僕はプライドが高かった。他人に分かったような口を聞かれるのが嫌いなのだ。さすがに当時の僕でも、自分が「サイコパスに憧れるただの一般人」なことは理解していた。だから僕はそのとき、「誰にも文句を言わせないくらい、サイコパスと自分自身に詳しくなってやろう」と決めていた。でもいざ蓋をあけてみると、僕は意外な人間になっていた。


ここまで読んで、現在の僕はどんな人間で、実際に何をしてきたのか興味をもった人もいるだろう。これから僕はそれを語ることで、「冷淡さ」とは何かをあなたに伝えようと思う。

昔の僕は「臆病、繊細、ナルシスト」という三重苦を背負っていた。今の僕はサイコパスを本気で研究しサイコパスを本気で自称しているので、見方によっては自己愛に囚われた哀れな人間だ。そう思うのも仕方ない。

しかし、実は「くだらない」と思いながらやっている。サイコパスという概念自体、誰かの勝手な妄想でしかない。カッコよく「サイコパシーを操る」と言ってるが、僕は子供のオモチャで遊んでいるのと変わらない。

要するに、僕はサイコパスになって「茶番力」をつけたのだ。友情も恋愛も仕事も人生も、すべては茶番だから楽しんでナンボという感覚。根拠のない自信とは少し違う。この世の全てに根拠などない。その自覚と実践だ。

もちろん、周りの社会人もある程度の茶番力を備えている。しかし彼らは人前に出れば緊張し、ミスを指摘されると恥ずかしがり、理不尽に怒られると腹を立てる。本気で人を好きになるし、嫌われると本気で落ち込む。本気で誰かを尊敬したり、尊敬されようと努力する。正しい人間であろうとするし、他人がそうでなければ本気で見下す。僕はそんな人間が面白いと思う。

敢えて言うなら、僕がもっとも恐れるのは「退屈」だ。もしあなたが永遠に愚痴を吐いたりテレビの話をするつもりなら、僕はあなたを使ってどう楽しむか計画を練っているだろう。

「すべてはフィクションで娯楽」なので、あらゆる感情など興奮刺激でしかない。そう心から思える人が、一体どれだけいるのだろう。僕は今でもHSPだが、最近ではそれを受け容れるというより寧ろ、楽しむようになった。

たとえば見知らぬ人に話しかけるとき、僕は自分の中で一瞬、緊張が走るのを自覚する。これは、僕にはコントロールできない生まれつきの傾向だ。しかしその直後、そんな無意味な感情に囚われる自分を笑い飛ばす。「たかが人間と話すのに緊張するとは、僕はなんて不思議な生き物なんだろう!」と。それに飽きた頃には、自然と話しかけられるようになっているのだ。

僕にとってサイコパシーとは、ナンセンスに囚われた人を冷静に認識し、笑い飛ばすのが趣味の人格だ。今となってはコレ自体、単なるオモチャに過ぎない。




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