ティーの旅だち、ババの1年後に。
巡る輪を見るような優しく美しい死に、この1年で2度立ち会った。
一度目は昨年の8月、母方の祖母の死。
女性の平均のわりには比較的早い往生だったかもしれないが、悲壮を感じるほど若いということもなかったと思う。
彼女が亡くなりご遺体が家にある数日のあいだは、私の母と叔母、つまり祖母の二人の娘と、叔母の娘、そしてそのまた2歳の娘と私がその家にいた。亡くなった祖母を含めて、脈々とその血の流れる女が6人。
私の母と叔母は、彼女たちの実の母といえ、仕事をしながらの介護は重労働であっただろうし、悲しみと等量のホッとした様子も伺えた。
お坊さんがお経を読む間に、亡くなったはずの祖母がいびきをかいていて、それをみんな聞いていた事には笑った。経験上、死の現場では必ずこういった小さな不可思議が起こったし、皆驚きながらもどこか慣れていた。
そうして笑ったりするときの感情が高ぶる瞬間には、母と叔母は同時に泣いてもいた。泣きながら笑った。
誰かが死んだその次の瞬間からも時間は等しく過ぎてゆき、腹は減るし疲れれば眠たくもなるし、2歳の娘はババが死んでしまったことはすぐに忘れて遊びたがるし、オムツが気持ち悪ければグズりだした。
私たちはその事実を受け入れ、うまれる欲求に抵抗もしなかった。
庭のトマトをもぎ取って冷やした皿に盛り、適当につまむ。従妹は眠がってぐずる娘を寝かしつけ、そのまま自身も意識を手放す。
暇になった私と母は天気が良いので、家の前でフリスビーをした。夕餉はあろうことか、車庫で焼肉をした。
ご遺体が家にあるということを除いては、それはいつもと変わらぬ日常だった。いやむしろ、逆に完璧にもたらされた一日であったかもしれない。散り散りにいきる血縁が集まる。つくる、食べる、排尿をする、遊ぶ、眠る……。
すべての行為に意味があるように思われたし、いのちある力強い行いに感じられた。
東京から数年ぶりにかけつけた祖母の長男とその家族が介入して他人行儀に行われる挨拶や、葬儀の手配にくる担当者と進める事務的な作業は、真面目な顔してどんどん本質から遠ざかっていくような滑稽さがあっておかしかった。
亡くなったひとを横目に庭でフリスビーをすることのほうが、よっぽど真実味がある。
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奇しくもそのちょうど1年後の8月4日、ミニチュア・ピンシャーのティーが、母の膝の上で逝った。15歳。私は間に合わなかったけれど、電話で「明日いく」と伝えてから、ほどなくして亡くなったそうだ。
立会人は祖母の時と同じ。私の母、叔母、いとこと3歳になった娘がその場にいた。
次の日の朝、私は旭川の母の実家にまた1年ぶりに訪れた。生協の発泡スチロールの箱に保冷剤と一緒に収まったティーは、痩せて目も口も半分あいてしまっていたけど、記憶にそう違わないティーだった。
今回は、祖母の時よりももう少し、悲しかった。
ティーがうちに来たのは私が12歳、父が死んだ歳に訪れたペットショップで出会った。
幼いころは、鏡の中の自分の姿に向かって吠えていたこと。私が高校を卒業して家を出てからしばらくのあいだ、私が不在の部屋のドアをジャンプしてノックしているという母からの話や(これは当時もちょっと泣いた)、たまに帰ると、白内障でほとんど見えなくなった眼で膝の上から私の顔をじっと見上げていたこと。
思い返せば、ティーの15年の生のうち、私が一緒に暮らしたのはその半分以下の月日でしかなかった。
高校を卒業してからは自分の生活が楽しくて数年実家に帰らないようなこともあって、ありがちな悔いも残っている。
金曜日、ティーが危ないかもしれない、という連絡を受けた日、仕事終わりにすぐに帰ってあげたら最期に顔が見られたかもしれない……。
いとこの3歳の娘は、絶賛ナンデナンデ期に突入していて、生協の箱の中に横たわるティーをみて「ティーどうしたのー?」としきりに聞く。
ティーはお空にいったの。
ババのところにいったの。
なんでー?なんでー?と繰り返す疑問符にいくどとなく答えるたび、自分に対しても慰めて聞かせているようだった。
火葬にも、去年と同じ、女5人が立ち合った。母、叔母、いとことその子、私。ここでも3歳の子が「ティーどうしたの」と聞く。何度聞かれても、初めて答えるように、大切に言って聞かせる。
朝からずっと同じことを答えてるのに、いよいよお別れという雰囲気を感じ取ったのか、初めて「なんでー」と言いながら声を上げて泣き出す3歳。
つられて、皆泣く。
幼い彼女のおかげで、知らず知らずに身についてしまった大人の見栄や意地や我慢みたいな、しようもない建前で最期を送り出されることがなくなったことが幸いだったと、涙が顎を伝って落ちていくときに感じた。
響くギャン泣きを筆頭に私たちのすすり泣きのもと、ティーはまっしろな美しい有機物となって、母の手元に帰った。
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母が、彼女の夫である私の父が亡くなった時よりも辛かったというので、ナンテ薄情な、と苦笑いをしたが、母と父が連れ添ったのは約13年(お見合い結婚なので積み重ねも浅い)、ティーとは15年なので、妙に得心してしまった。
私はその日のうちに札幌に戻り、日常に戻った。うちには6歳になる二羽の文鳥とインコ、まだ1歳にならないネザーランドドワーフが一羽。
私にとって初めてのペットの死は、今もその日を知らないこの子たちの、きたるその瞬間を否が応でも想起させてしまって切ない。けれど、彼らは死の概念もさほどないのかもしれない。毎日好きな時に食べ、眠り、甘え、遊ぶ。
ティーが老犬になって手足が蚊トンボのようになってしまっても、〈さんぽ〉と聞くといつでも最上の喜びを表現してくれたように、彼らもきっとその瞬間まで、忖度しない純然な感情のみを全力で生きてくれるのだろう。それが喜びでも、悲しみでも、苦しみでも、精一杯生きてその存在と尊い価値を私たちに注いでくれる。
順番がくれば、私もいつかそこにいく。ただ、それよりも先にもう一度か二度くらい、ティーが私たちのもとにきてくれるような気も、する。
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